主君「上杉家」に生涯を捧げた男 『直江兼続』

もう10年以上前になるであろうか。NHK大河ドラマで愛に生きた武将として、『直江兼続』が主人公となっていた作品を拝見した。

今回は「愛」と云う文字を自らの兜にとりつけ、主君を盛り立て生きた男、直江兼続を紹介したい。

 

経歴

・名前    樋口与六、樋口與六(幼名)、樋口兼続、直江兼続、直江重光

・生誕    1560(永禄3)年(生)~1620(元和5)年(没)

・家柄    樋口氏→直江氏

・親族    樋口兼豊(父)、直江景綱の女(妻:通称船)、直江景明(子)

・官位    従五位下、山城守

 

生涯

兼続は1560(永禄3)年、越後上田庄の樋口兼豊の嫡男として生まれる。一説では兼豊は当時上田を治めていた長尾政景に仕えていたとされているが、定かではない。

大概後に有名になった人物でも、前半は明らかでない事が多い。出世を遂げ、後に経歴を何かこじつけた部分が多い。

兼続の母も不明な点が多い。名門の出身、土豪の娘とも云われているが確証はない。

 

1564(永禄7)年、兼続は長尾政景の死去に伴い上杉謙信(輝虎)の養子となった政景の子(後の景勝)に従い春日山城に入城したとされている。

春日山城入城後、景勝の近習・小姓として仕えた。この時点で後の有名な仕従関係が出来ていたと思われる。

この関係は豊臣政権下にて越後から会津に転封。関ヶ原以後、景勝が米沢に減封。1620(元和5)年、兼続が亡くなるまで続いた。

 

上杉家の内紛と其の後

1578(天正6)、軍神と称えられた「上杉謙信」が急逝した。謙信には実子がおらず、二人の養子がいた。

一人は前述した上田城主長尾政景の子で、謙信の養子となった後の景勝。

もう一人は甲相駿三国同盟が崩れた際、小田原の北条氏と和を結び、その証として北条家から氏康の実子景虎を養子としていた。

二人の養子間に、上杉家の家臣が互いに跡目相続で争った。俗に言う、『御館の乱』である。

 

現代社会でも云えるが、二人の後継者候補がいて先代が急逝。其の後の跡目を争う事が多い。先代が何れを後継者とするか、ハッキリ決めていなかった為。此れは一家、会社でも同じ。

御館の乱では、景勝を推す派、景虎を推す派に分かれ争った。いつも述べるが組織を弱体化させるのは外敵ではなく、いつも内なる敵。つまり内部争いが原因。

御館の乱でも越後上杉家は、景虎の出身である相模の北条家の後押しもあり上杉領国内を分断する大騒動となった。

北条家は上杉家の内紛に便乗。これ幸いと甲斐の武田と供に一時期、越後国内を蹂躙した。

景勝派はいち早く春日山城、財源となる蔵を接収。謙信の印判も回収。上杉家家臣に対し、後継者の地位である事を認めさせる上で、各書状を発布した。

しかし景虎派は甲斐武田・相模北条の力をかり、勢いを増す。武田は信玄以来の北信濃侵略に着手。景勝側は背に腹は代えられず、北信濃の支配権を武田側に認めた。

武田家は更に東上野の侵略を画策。景勝に認めさせようとした。しかし東上野は元来関東で謙信と覇を争っていた北条家に大いに不信感を抱かせる結果となる。

東上野の件で不信感を抱いた北条家は、急速に武田家と関係が悪化。

そうした中、景勝は武田勝頼との関係を修復。勝頼の妹菊姫を娶る事で、同盟が成立した。

 

同盟成立後、武田勢は上杉領から撤退。

武田勢撤退を好機とした景勝側は1579(天正7)年、総攻撃を命じ遂に景虎軍を打ち破る。

景虎は出身の北条家を頼り逃亡するが、途中で部下の裏切りにあい殺害されている。

しかし其の後はまだ国内で火種が燻り、終焉したのは翌年1580(天正8)年の頃と云われている。

 

この内紛で上杉家は領国はもとより、隣国から領土を掠め取られ、大打撃を被った。既に謙信がいた頃とは異なり、上杉家は越後一国を治めるのがやっとの状態だった。

御館の乱は、其処迄に上杉家をズタズタにしてしまった。

 

越後・甲斐の同盟成立にて、甲斐と相模の関係は益々悪化。

1579(天正7)ついに氏康死後、関係を修復した甲相同盟は崩れ、北条家は遠江・駿河を狙っていた徳川家康と同盟を結ぶ事となる。

甲斐武田家は御館の乱にて北信濃、東上野の領土割譲に成功したが、越後の景勝を和を結び、北条家と切った為、後の3年後の武田家滅亡の切っ掛けをつくる形となる。

因果とは、まさにこの事。武田家は目先の利益に捕らわれ、将来の禍根を作り出してしまった。それは結果を知る者の後づけと云ってしまえば、それまでだが。

 

本能寺の変

御館の乱で勝利した景勝であったが、乱の影響は事の他大きかった。内外に敵をつくり、景勝は国内統治を維持するのがやっとの状態だった。

兼続はそんな景勝を必死に支えた。兼続は景勝の命にて、上杉家の家臣直江景綱に嫡男がいなかった為、景綱の娘(船)と縁組させ、兼続を婿養子の形で兼続を直江家に入り込ませ、兼続に与板城を継がせた。

家臣直江家の名跡を継いだ事で兼続は、上杉家の家老格扱いとなる。以後兼続はもう一人の家臣、狩野秀治と供に、上杉家の内外を取り仕切るかたちとなった。

こうした中、上杉家に転機が訪れるのは、1582(天正10)年に起きた、過去何度も述べている「本能寺の変」に転機が訪れた。

 

本能寺の変が起こる前、上杉家は北陸からは、柴田勝家。上野からは、滝川一益。東北からは、蘆名・伊達。関東からは、北条氏政。甲斐旧武田領からは、河尻秀隆の脅威を受けていた。

まさに四方八方、敵に囲まれた状態だったが、本能寺の件以後、上杉家を取り巻く環境は一変した。

戦国の中心だった信長軍団のあっけない崩壊である。上野の滝川一益は、本能寺の変を聞きつけた北条軍の攻めにあい崩壊。

甲斐の河尻秀隆は変後、甲斐に一揆が発生。騒動の最中、旧武田家臣に嬲り殺しにされた。当時魚津城を攻めていた柴田軍は、主君信長の仇を討つ為、撤収。

信長の家臣秀吉が「中国大返し」を決行。山崎にて逆臣明智光秀で破った後、信長家臣間にて内紛が勃発。秀吉がほぼ信長の後継者の地位を固めるまでの間の約2年間(小牧・長久手の戦い迄)、上杉家はあまり影響を受ける事なく、越後国内を固める事ができた。

本能寺の変とその以後の時間的猶予が、後の江戸時代を経て、明治まで続く上杉家を救ったとも云える。

兼続は1584(天正12)年、狩野秀治の死後、ほぼ一人で主君景勝を補佐。内外を取り仕切った。此処から兼続の死に至るまで、景勝と兼続のよき関係が続いた。

 

豊臣政権下にて

九死に一生を得た景勝は信長の死後対立した羽柴秀吉、柴田勝家の間に立ち、1583(天正11)年起こった「賤ヶ岳の戦い」では秀吉側の求めに応じ、柴田勝家の本拠地であり北の庄を脅かす為の牽制をした。

翌年の1584(天正12)年の「小牧・長久手の戦い」でも、秀吉の求めに応じ越中の佐々成政を牽制。武田家滅亡後、独立を果たした真田昌幸と和を講じ、北信濃の制圧した。

2年後の1586(天正14)年、ほぼライバルを蹴散らし信長の後継者の地位を確立した秀吉に臣従。上洛を果たし、景勝はいち早く秀吉に臣従の意を表した。

秀吉のお墨付きを得た景勝は御館の乱以降、独立を果てしていた新発田重家を討伐。1587(天正15)年、越後再統一を果たす。

その間兼続は、主君景勝を陰日なたで盛りて、戦功を立てた。この時期では主君景勝との関係は、揺るぎないものとなっていた。

翌年の1588(天正16)年、再上洛を果たし秀吉から豊臣姓と、羽柴姓を下賜される。更に翌年の1589(天正17)年、佐渡島を平定。謙信以来の越後をほぼ領国に治める。

1590(天正18)年、戦国最後の仕上げとなる関東の雄、北条家を攻める為、小田原征伐に従軍。景勝は豊臣政権下にて、揺るぎない地位を築いた。

1592(文禄元)年、秀吉の朝鮮出兵が始まると肥後国名護屋城に駐屯。一時期秀吉の名代として、朝鮮に渡海する。

1595(文禄4)年、幼い秀頼を補佐するとの名目で豊臣政権下、五大老の組織が編成され、景勝は五大老の一人として任ぜられる。

五大老は他に、徳川家康、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家。因みに五奉行は石田三成、長束正家、前田玄以、増田長盛、浅野長政の五人。

 

秀吉の晩年と死後

1598(慶長3)年、秀吉の晩年であるが正月、伏見城に出頭した景勝は突如秀吉から会津転封を命ぜられる。

秀吉の狙いは関東の徳川家康、東北の伊達政宗の牽制であろう。景勝は秀吉の命に従い、会津に転封した。

しかし2月に新領土の会津に移った約半月後、一時代を築いた天下の英雄、豊臣秀吉がなくなった。

景勝は秀吉死去の報を聞き、直ちに上洛。豊臣家に忠実さを示すと供に、今後混乱を極めるであろう政局に備えた。

 

秀吉の死後は過去に何度も述べているように、武断派と文治派の武将が対立。秀吉亡きあと、陰で武断派を操る形で家康が政治を壟断。実質的支配者として君臨した。

秀吉の死後の翌年1599(慶長4)年、景勝は家康の専横を潔しとせず、国の会津に帰り反家康を旗幟鮮明にした。

景勝謀反の動きありと家康に通報した者がいた。景勝が会津転封後、越後の新たな主となった堀秀治である。

堀と景勝は入れ替わりで越後入りした際、年貢のやり取りで揉めたらしい。

この時代、暫し国替えが行われた時、前領主と新領主との間で年貢のやり取りで揉める事が多々あった。これも同じ類と思われる。

 

しかし堀は景勝を恨んだ。

更に家康に対し胡麻を擂る意味もあったであろう。積極的に「景勝に不穏な動きあり」と家康に御注進した。

堀からの報告、更に他の大名からの報告が次々と家康の許に届く。流石に家康も看過できなくなり、家康は景勝を真意を質す為、豊光寺の承兌(しょうたい)を通じ、景勝に詰問状を送った。

内容は「景勝謀反の動きありとの噂を聞くが、もし逆心がなければ上洛してその旨を説明せよ」との事だった。

景勝の家康に対する返書が、有名な「直江状」と呼ばれるものである。

 

稀代の快文字「直江状」

景勝謀反の動きありに関する家康の詰問状に対し、景勝から送られた返書は、家康を激怒させるものだった。

有名な、「直江状」と云われるモノ。直江状は通快な文章として持て、囃され徳川治世の下、反徳川家の間で読み親しまれた。

 

直江状の内容とは

①景勝には逆心など全くない。上洛が遅れているのは、国政と雪の為。

②武具を集めるのは上方の武士が茶器を集めるにと同様、田舎武士の風俗に過ぎない。

③道や橋を整えるのは、国を治める者ととしは当然の事。

④事ある毎に上洛せよとの申し出だが、讒人の堀の糾明がない限り、上洛などできない。

 

大体この様な内容であろうか。

更に家老の兼続により、辛辣さを加え家康の許に送られたとされている。

何故「直江状」と云われているのかと云えば、家康は本人の名の下で詰問状を景勝に送ったのではなく、格下の僧を通じて景勝に書状を送った為。

それ故、景勝の名で返書が送られたのではなく、主君の下である家老の直江兼続の名で返書が送られた。

対等の関係ではないと云う事を示したものと思われる。もし家康直々の書状であれば、景勝の名で返書が送られたであろう。

 

兎にも角にも上杉家から家康の詰問に対する、返書が送られた。

返書を見た家康は「今までこれ程、無礼な手紙を貰った事はない」と激怒。遂に上杉討伐を決意した。

この文章が直江兼続を現代まで名を残すきっかけとなったと私は予測する。おそらく皆様も、そう思われるに違いない。

日本史において直江兼続が今後も永遠に名を残すであろう意味合いは、時の権力者に対し、歯に布を着せぬ言葉を述べた事であろう。

此れが通快(爽快)という意味で「快文字」と呼ばれた。

 

会津討伐と関ヶ原

直江状を見た家康は、豊臣家に弓引くものとして上杉討伐を決意。秀頼の名代で全国の大名に書状を発し、集結。会津に向け出陣した。

会津討伐と其の後に続く関ヶ原は過去に何度も述べている為、今回は省略するが、会津討伐がきっかけとなり反家康を唱えた石田三成が主に西国の大名を集い、天下を二分する戦いに発展した。

結果はご存じの通り西軍が僅か半日にて敗退するが、関ヶ原が始まるまでの間、会津の上杉家は石田三成が反家康の兵を挙げた事を聞き、隣国の家康派である山形の最上義光を攻めた。

暫し兼続と三成がかねて示し合わせて、同時に挙兵したと云われるが確証はない。三成の挙兵は、兼続とは無関係だったと云われている。

しかし兼続は家康が小山で軍を引き返したと聞き、隣国を攻めた。

兼続は次々と最上の支城を撃破。最上の本拠地の山形城まで、後僅かに迫った。後僅かと迫ったところで兼続は、西軍の敗退を知った。

 

詳しくは分からないが、兼続が西軍敗走の報を知り得るのに、約2週間を要したとされている。

西軍敗退を聞いた兼続は、即座に撤退を決意。

撤退する中、兼続は自ら殿軍を務め、城から討って出た最上軍を蹴散らし、無事会津に帰還した。

以前前田利益(慶次郎)を紹介した時にも触れたが、この時上杉家には前田家を出奔した利益がいた。

この時も利益は兼続に従い、戦いに参加している。

 

参考:武人であり文化人 自由奔放に生きた武将『前田慶次郎』

 

関ヶ原後の上杉家

関ヶ原以後、上杉家は四方の敵と戦う羽目となった。

外敵と戦うと同時に上杉家は東軍の将、家康の使者を送り家康への忠誠と臣従を約束。上杉家の存続を画策した。

交渉の甲斐あり、1601(慶長6)年になり、漸く徳川家との和議が整った。

景勝は上洛を決意。8月に家康と伏見で対面した。対面で景勝は二度と徳川家に逆らわない事を確約。

減封を受け入れ、上杉家の存続を勝ち取る事に成功した。上杉家は会津約120万石から、米沢約30万石に大幅減封となった。

 

関ヶ原から約1年後、上杉家は米沢約30石の減封となったが、家の存続は赦された。

米沢に移った兼続は、主に内政に力を注いだ。大幅減封された為、多くの人員が削減され、藩の財政も逼迫していた事もあったと思われる。

そのような涙ぐましい努力があったにも係わらず、江戸中期あたりになれば藩の財政が悪化。

上杉家は領地返上の危機にまでなったが、日向高鍋藩の秋月家から養子として入った上杉鷹山(治憲)の財政の立て直しがあり、何とか江戸時代を乗り切り、なんとか明治を迎えた。

 

上杉家を明治維新まで存続させたのは初代上杉家当主、謙信公(不識庵)の活躍から始まり、二代目景勝を支えた直江兼続の力が大きと思われる。

御家存続の為には、いつの時代も忠義をもった優秀な家臣(部下)が必要だという事かもしれない。

この様に二代目景勝を支え続けた兼続は、1619(元和5)年、主君景勝に従い江戸に赴くが、江戸屋敷にて病に伏し、そのまま亡くなった。享年60才と云われている。

まさに幼少の頃から主君の景勝に仕え、景勝の許でなくなったと云える生涯だったのかもしれない。

 

(文中敬称略)