『三河物語』で有名な『大久保忠教:彦左衛門』

今回は、一風変わった武将を紹介したい。

武将というよりも主君に対し、歯に衣を着せぬ意見を吐き、「天下のご意見番」と云われた人物と云えば、分かり易いかもしれない。

 

経歴

・名前    大久保忠教、彦左衛門(通称)、平助(幼名)

・生誕    1560(永禄3)年(生)~1639(寛永16)年(没)

・主君    徳川家康→徳川秀忠→徳川家光

・家柄    大久保家

・親族    大久保忠員(父)、忠名(子)

 

生涯

1560(永禄3)年、大久保忠員の八男として、三河国上和田に生まれる。

忠世の弟で、幼名を平助、初名を忠雄といった。

 

1576(天正4)年の16才の時、元服。

兄の忠世と供に主君家康に仕え、遠江平定に従軍する。

其の後、1582(天正10)年の本能寺の変後、家康と供に各地を転戦する。

 

1584(天正12)年、小牧・長久手の戦いにて、秀吉と干戈を交え、後に和睦。

1585(天正13)年、第一次上田城の戦いにて、真田昌幸に翻弄され、敗北。

1590(天正18)年、秀吉の小田原征伐にて、主君家康が参陣。忠教も此れに従軍する。

 

秀吉の天下統一後、家康は旧北条家の領土である関東に移封。

兄忠世は、小田原城主となる。忠教は石高2000石を与えられる。

兄忠世が夭折後、子忠隣に仕える。この頃がほぼ大久保家の全盛期と思われる。

 

秀吉の死後、豊臣政権下にて内部抗争が勃発。2年後。関ヶ原の戦いへと発展する。

関ヶ原の戦いでは、中仙道を進んだ秀忠軍に従軍するも、信州上田城にて、又もや真田昌幸・幸村親子に足止めを喰らい(第二次上田の戦い)、関ヶ原の戦いに遅参する。

 

関ヶ原以後、小田原藩主となっていた忠隣は、1614(慶長19)年、本多正信との政争に敗れ失脚。

大久保家は改易となる。忠隣改易の為、忠教も領地没収となる。

しかし家康に召し出され、三河国額田郡にて1000石を拝領する。

 

因みに、本多正信は家康が三河にいた頃、一向一揆が発生。

正信は主君家康を裏切り、一向側に加勢した。

 

一揆平定後、家康の勘に触れ、出奔。各地を放浪していた。

放浪していた正信を忠隣の父、大久保忠世が家康に執り成し、正信の帰参が認められたという過去がある。

帰参に力を注いだ相手が恩人の子忠隣を蹴落とす事になろうとは、何たる人生の皮肉と云えよう。

 

同年、戦国時代の最後の戦いである「大坂冬の陣」が始まる。

忠教も従軍する。この時既に、54才。隠居しても可笑しくない歳だった。

翌年、大坂夏の陣にて豊臣家が滅亡。戦国の世が終わりを告げる(元和偃武)。

 

戦国の世が終わった為、戦場で活躍。

武功を立てる機会がなくなり、忠教のような生え抜きの三河以来の譜代ですら、徳川政権からは疎まれる存在となる。

皮肉にも一度、豊臣秀吉にて天下が統一され、武官より文官が重宝がられ始めた。

 

秀吉の死後、武官(武断派)の怒りが爆発。

内部争いが関ヶ原に繋がったと、ほぼ同じ状況であろうか。

兎にも角にも、世の中に戦がなくなり武人は不遇、或いは失脚の身とならざるを得なくなった。

 

三河以来の忠義を尽くした譜代の忠教ですら、晩年の大御所(家康)、家康の死後は将軍家(秀忠)からも疎まれる存在となった。

その不満が切っ掛けとなったのであろうか。

忠教は1635(寛永12)年頃、常陸国鹿嶋に居を移し、かの有名な『三河物語』を執筆する羽目になる。

 

『三河物語』

三河物語とは、大久保忠教が60才を過ぎてから執筆したものと云われている。

内容は徳川家と大久保家の経歴を描き、子孫への教訓としたもの。

 

忠教には不満があった。

戦国時代は戦場で我一番に飛び出し、敵を倒し武功を立てるのが出世の近道だった。

 

しかし世の中が平和になるに連れ、経済官僚が重宝がられた。

既に関ヶ原以後、忠教のような武人は窓際族だった。

 

関ヶ原以後の外様ですら1万石以上の大名だが、譜代の旗本などは1万石以下だった。

忠教は僅か、2000石。当然、不平不満がたまる。

 

更に忠教は極めて愚直な性格で、他の同輩に比べ世渡り下手だった。

三河物語の一節に、不忠不義な輩が出世し、こつこつ真面目に働いている人間が冷や飯を喰っている。

 

決して世の中、真面目なものが報われるとは限らないと、はっきり描かれている。

それが三河物語の資料として貴重さかもしれない。

 

尚、世の中は既に徳川家の時代であり、徳川家に不満を持つ書は、決して世に出回る事はなかった。

その為、忠教は「門外不出」の書として、戒めとして子孫だけに読めと厳命。世の中にでる事はなかった。

 

存在が知れるようになったのは、明治になってから。

幕末の頃、勝海舟が大久保家の本家を勝の許を訪ね、書の存在を明らかにした。

 

門外不出の書だった為、戦国末期から徳川政権誕生の資料として、大変重宝がられている。

一説では江戸時代に世の中に出回り、隠れたベストセラーだったと云われているが、定かではない。

 

唯晩年の忠教は、頑固一徹、うるさい親爺だったようだ。

中途半端な妥協はせず、批判すべき事は徹底的に批判。己の主義主張を貫き通す人間だった。

 

その性格が災いして、大御所・将軍家(秀忠)・三代将軍家光に疎んじられる結果となる。

現代も同じ。

確かに正論だが、あまり正論を主張する人間は、どこの組織でも煙たがられる。

忠教が当にそのような存在だった。

 

「水清ければ魚棲まず」と云った処であろうか。

それが『天下の御意見番』と所以と思われる。

 

1639(寛永16)年、忠教は80才の生涯を終える。

死の間際、将軍家光から5000石の加増を打診されるが、断ったと伝えられている。

忠教最後の意地、皮肉であろうか。

誠に武骨で、融通の利かない頑固者と云えば良いかもしれない。

 

(文中敬称略)