猪突猛進、「武」はあるが「智」が欠けていた武将『福島正則』

今回、以前紹介した『柴田勝家』に似たタイプの武将(大名)を紹介したい。

似たタイプと敢えて表記したのは、武将の「武」の部分は一流だが、「知」の部分になれば、少し欠けていたのではないかと思われる為。

早速、本人を紹介したい。

 

経歴

・名前    福島正則、市松(幼名)

・生誕    1545(天文14)年(生)~1624(寛永元)年(没)

・主君    豊臣秀吉→秀頼

・家柄    福島家

・親族    福島正信(父)、豊臣秀吉の叔母・松雲院(母)

・官位    従五位下、左衛門尉、侍従、左近衛権少将、従四位下、従三位、参議

 

生涯

1561(永禄4)年、桶屋を営んだ福島正信(正光)の長男として尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)にて生まれる。

星野成政の子で福島正信の養子になったともいわれるが、真偽は定かでない。

 

同じ海東郡出身で、前田利家がいる。

前田利家は既に織田信長に仕えたが、前年の桶狭間(1560年)の此の時期、利家は信長が贔屓していた僧(拾阿弥)を殺害。出奔中だった。

正則の母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)だった為、幼少期から秀吉の許で育てられる。

 

尚この時、将来の天敵ともなる石田三成(佐吉)もいた。

当時二人は仲が良かったのか、悪かったのか記録にはない。

あくまでも秀吉なき後、武断派と文治派対立の際、文治派筆頭の石田三成が槍玉に挙げられたのかもしれない。

 

記録にはないがおそらく、この時から「武」の部分は、正則(市松)。

「智」の部分は、三成(佐吉)が担っていたと推測する。

 

因みに正則の一歳下で加藤清正(幼名:夜叉若)もいた。

二人は秀吉の子飼いの武将となり、信長亡きあとの賤ヶ岳では、「七本槍」として活躍する。

 

1578(天正6)年、中国方面担当となった秀吉に従い、初陣を果たす。

信長に反旗を翻した三木城の別所長治を攻める。

この時の禄は僅か200石だった。

 

本能寺の変以後、山崎の戦い

1582(天正10)年、主君秀吉が毛利方の高松城を水攻めの最中、京にて織田信長が明智光秀の謀反にあい、横死する。

その報を聞いた秀吉は、即座に毛利氏と和睦。

中国大返しを成功させ、京の入り口の山崎にて明智軍を敗退させる。

 

正則は光秀が立て籠った勝龍寺を攻め、功を立てる。功により加増され、約500石となる。

この頃から知将というよりも、戦場で功を立てる猛将の要素があったと思われる。

 

賤ヶ岳の戦い

信長亡き後、織田家の行く末を決める清洲会議にて、宿老柴田勝家と秀吉の対立が決定的となる。

翌年1583(天正11)年、江北賤ヶ岳にて両軍が激突。

所謂「賤ヶ岳の戦い」である。

 

戦いは柴田勝家の与力だった、前田利家の無断の戦場離脱。

七本槍の活躍もあり、秀吉の大勝。

勝家は翌年正室とした、信長の妹お市の方と供に越前北ノ庄にて自刃した。

 

正則はこの戦いで一番槍・一番首を挙げたとして、七本槍でも最大の5000石を加増された。

この時既に戦になれば手柄を立てる事しか頭になく、常に一番槍(先陣)を突きつける事に拘っていたと思われる。

此れは後の関ヶ原にも大きく影響する。関ヶ原に関しては、後述する。

 

秀吉、実質信長の後継者となる

信長亡き後、清洲会議にて名目上は信忠の忘れ形見、三法師(後の織田秀信)であったが、実質的後継者は秀吉だった。

秀吉は時間をかけ、うまい具合に織田家を乗っ取り、まんまと信長の後継者の地位に座った。

 

それを否とした信長の次男信雄が、信長の同盟者だった徳川家康を誘い、1584(天正12)年に秀吉に反旗を翻した。

「小牧・長久手の戦い」である。

 

戦闘は秀吉の劣勢だったが、秀吉は得意の調略で信雄を篭絡。信雄との単独講和に成功。

戦闘では負けていたが、秀吉は有利な状況で、戦を終結させた。

 

この時正則は、左程大した功を立てた様子もない。

父正信と供に、従軍したとのみ記録されている。

 

2年後の1585(天正13)年、秀吉の紀伊国雑賀攻めに従軍(紀州征伐)。

同年、四国を統一した長曾我部攻めを敢行。屈服させる。

 

尚、本能寺の変を知り、毛利氏と和睦。

其の後、山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉だが、毛利氏とはそのまま良好な関係を築く。

四国攻めの際、毛利氏を伴い長曾我部攻めを実施している。

 

後の豊臣政権時にて五大老となる毛利輝元、小早川隆景とは既に親しい仲だったと思われる。

四国攻めの際、秀吉は朝廷から「関白」の宣下を受けている。

 

更に2年後の1587(天正15)年、主に島津氏を中心とした九州征伐を実行。

島津氏を屈服させる。

 

おそらく正則は、大功があったと思われる。

九州征伐後、いきなり伊予国今治にて約11万石の大名に出世する。

 

賤ヶ岳の後、5000石の禄だったが、僅か4年で約20倍近い禄が跳ね上がった計算。

まさに破格の待遇・出世と云える。

 

3年後の1590(天正18)年、小田原征伐にて北条氏滅亡。

此の時をもって応仁の乱以後、約123年続いたとされる戦国時代は一応、秀吉の手により統一された。

 

正則自身は前回程の加増はなかったが、正則は豊臣政権下、一大名として堂々たる地位を築いた。

前述したが、正則は戦場で武功を立て出世するタイプであり、戦が続く限り正則の出世は約束されていた。

 

秀吉政権の外征

国内と統一した秀吉はその余勢をかい、朝鮮国。強いては明国を攻める決意をした。

武を誇る正則は、当然出兵した。

 

1592(文禄元)年、正則は渡海。朝鮮国に出兵した。

朝鮮では主に、京畿道の攻略にあたった。

翌年一旦帰国したが、1594(文禄3)年、再び渡海。

 

この時、朝鮮国と日本との講和が行われていた。

講和は後に破棄されるが、正則は巨済島の松真浦城、場門浦城の守備、補給などを担当した。

 

関白秀次の切腹、正則の清洲転封

1595(文禄4)年、秀吉の後継者と目されていた甥の秀次が秀吉(太閤)の勘気にふれ、廃嫡・切腹となった。

秀次のあまりにも奇行が目立ち、秀吉が耐え兼ね秀次を処分したとされているが、この頃の秀吉は既に昔の面影はなく、まともな判断ができなかったと云われている。

 

秀次は当時「殺生関白」と揶揄されていたと云われているが、本音の処は淀殿との間に秀頼が誕生。

秀頼可愛さに、秀次を処罰したと云われている。

その秀次の切腹命令を伝えたのが、正則と云われている。

 

その功かどうかは分からないが、正則は伊予国今治11万石から、尾張国清洲24万石に転封・加増されている。

これはおそらく秀吉亡きあと、力をもつであろう徳川家康を予期した備えと思われる。

 

しかし秀吉もまさかこの配置が、よくよく豊臣家を脅かす事になろうとは、この時予想だにしなかったであろう。

 

外征中と秀吉の死後、文治派と対立

朝鮮出兵は豊臣政権下の大名を疲弊させたばかりでなく、内部の人間の心もズタズタに引き裂いた。

外征中、朝鮮に渡海、現地で戦ったのは、西国の主に武断派の連中だった。

 

秀吉の死後、日本軍は朝鮮から撤兵。

何も得るものもなく、ただ兵力・財力を無駄にしただけだった。

 

当然持ち出しで出兵した大名は、不満タラタラだった。

獲得した領土もなく、家臣に分け与える恩賞もない。

大名に限らず、大名家臣たちも不平不満に溢れた。

 

その不満は当然、内地にいた人間に向けられた。

内地にいた人間とは、主に文治派と云われる豊臣政権下で名内政を司る人間たちの事。

 

その筆頭格だったのが、石田三成。石田三成は戦地から上がってくる戦況を吟味。

太閤秀吉に報告する、軍監的役目を担っていた。

朝鮮での戦いは日本軍が苦戦を強いられ、当然報告は思わしくない。

そのよくない報告をしていたのが、主に石田三成だった。

 

当然の如く三成は、出兵した各大名から恨まれた。

後に関ヶ原で鍵を握る小早川秀秋などは、自分の能力が欠けていたにも関わらず減封。

減封された理由は三成による誹謗中傷と思いこみ、三成を恨んだ。

逆恨みもいい処だが、此れも遠因となり、関ヶ原では秀秋が西軍を裏切るきっかけとなった。

 

正則も多分に漏れず、三成を恨んだ。

恨みが最大となったのは、太閤秀吉が死んだ翌年の1599(慶長4)年、秀吉死後の秀頼の傅役だった前田利家が死んだ時であろうか。

 

利家が死んだ直後、武断派の連中(加藤清正・黒田長政・福島正則など)は三成を暗殺しようと企み、三成を追い回した。

危機を悟った三成は、なんと陰で武断派を操っていた徳川家康の宅に逃げ込み、助けを乞う。

 

家康は三成を武断派の連中に明け渡すのは簡単だったが、時はまだ熟さずと思い、三成を助けた。

家康は三成を助ける条件として、今回の騒動の責任をとり三成に中央政権の役目を退き、佐和山にて隠居を命じた。

 

三成は家康に従わざるを得ず、渋々居城の佐和山に引っ込んだ。

家康は三成が佐和山に無事に着くよう、次男秀康に護衛させた。

 

これで三成は豊臣政権下での力はなくなった。後は実力者である家康の思うがままだった。

家康の専横に我慢ならず、五大老の一人である上杉景勝は、会津に帰国。鮮明に家康に反旗を翻した。

 

会津征伐と関ヶ原

福島正則の戦場で活躍した武将と繰り返し述べているが、たった生涯の一度だけ、会議(軍議)にて活躍した時がある。

それは関ヶ原の戦いの前夜とも云える、有名な下野国「小山の陣」での軍議での事。

 

会津の上杉討伐の為下野小山まで進軍していた徳川家康は、大坂での三成挙兵の知らせを受け、諸武将を集め、此処まで従軍した諸大名に今後の進退を諮った。

「小山評定」とも言われる。

歴史上でも最も正則が目立った場面とも云えるだろう。

 

評定で家康は諸大名に、三成の挙兵を報告。

言葉は丁寧だったが、もし西軍に味方したいのであれば、即刻この場を立ち去るが良いと云い放った。

その時正則が立ち上て家康に歩み寄り、

 

「我々においては、かような時、妻子に惹かれて武士の道を踏み間違う事は、さらさら思わず、内府(家康)の御為に身命を擲ってお味方仕すべし」

 

と口火を切った。

此の言葉をきっかけとして態度を決めかねていた諸大名たちは、バスに乗り遅れるなとばかり、家康に忠誠を誓った。

 

黒田・浅野・細川・池田等の大名以下、上杉討伐に参加した諸大名すべてが家康に味方した。

この時を境に上杉討伐軍は、家康の私軍(東軍)に変わった。

 

あまり思慮深い男とは言えない正則だが、果たして今回正則自身が考え、評議にて実行したのであろうか。

有名な話だが、実は評議前に正則に耳打ちし、正則に評議の場でそう云わせるよう唆した人物がいる。

云わずと知れた「黒田長政」である。

 

長政は正則と同じ武断派の人間で、三成憎しは共通の意識だった。

今回の上杉討伐に参加した大名の殆どは、豊臣恩顧の大名ばかりだった。

もし評議にて豊臣家に忠義をつくし、小山の陣から離脱する者があれば、雪崩を打つように討伐軍が崩壊するとも限らない。

 

そこで家康は、秀吉の血縁者(小姓から仕え、恩顧の大名)の筆頭格である福島正則に目を付けた。

進退を迷っている大名も福島正則が先陣をきり、家康に味方すると述べれば、おそらく他の者もこぞって家康に味方するであろうと睨んだ。

日和見だった各大名も、豊臣恩顧の大名の正則でさえ家康(内府)に味方するのであれば、自分は決して悪くはないという雰囲気が出来上がると家康は読んだ。

 

案の定、正則が評議場で口火をきった事で各大名が追随。

評議は家康の予想通りの結果となった。

長政は関ヶ原の勝利後、家康本人から手を握られ、「この御恩は子々孫々わすれませんぞ」と感謝された。

 

この時、正則の他に重要な役をした人物がいた。

それは過去関ヶ原のブログでも述べた、「山内一豊」である。

一豊の場合、以前紹介している為、もしご興味が湧きましたら、其方を参考にされて下さい。

※参考:関ヶ原の戦、勝敗を分けた要因1(秀吉の死後、派閥争いと家康の台頭)

 

因みに秀吉の死後、家康は甥の娘を自分の養女にし、福島正則の子の正妻に嫁がせている。

此れも何気に効いていると思われる。

 

太閤秀吉は生前私婚を禁じていたが、太閤亡きあと家康が、なし崩しにしてしまった行為の一つ。

正則はこの点をみても、三成憎しに加え、家康に味方したと思われる。

 

評議後、正則先陣を賜る

小山評議後、家康の私軍(東軍)は大坂方の西軍(豊臣軍)と戦う為、軍を反転。西進した。

東軍の先遣部隊は、東海道を西進。先陣武将は、「福島正則」と「池田輝政」。

 

福島正則は政治的センスはまるでないが、戦となれば、とことん強い。

戦いが始まれば「猪の武者」の如く、ただ突き進むのみ。

この時ほど東軍(家康)にとり、正則ほど有難い存在はなかった。云わなくても相手が勝手にどんどん突き進んでくれる為。

 

正則と池田輝政には、軍監がついていた。四天王の一人、「本多忠勝」。

家康は忠勝から上がってくる戦況報告を聞き、ほくそ笑んだと思う。

正則が勝手にドンドン進んでいく為、他の大名は後ろめたさがなくなったのではないかと想像する。

正に家康の思う壺だった。

 

信長縁の城、岐阜城を落とす

福島正則・池田輝政は、先を争うかのように東海道を進んだ。

二人が辿り着いた西軍の城は、あの信長縁の城「岐阜城」だった。

岐阜城、何やら懐かしい響きとも聞こえるが、果たして岐阜城。今は誰が治めているのか?

答えは、「織田秀信」。

 

織田秀信と云っても分かりにくいかもしれない。

清洲会議で有名になった、あの「三法師」と言えば、分かり易いかもしれない。

秀吉は清洲会議で三法師を担ぎ出したが、会議で只三法師を利用したのみ。

三法師が成人しても天下を返す気などサラサラなく、秀信に岐阜城と僅か13万石を与えただけだった。

普通であればそんな待遇に怒る筈だが、この殿様怒りもせず、秀吉の措置に満足して安穏と暮らしていた。

祖父信長は偉大であったが、孫の三法師は不肖の孫と云える。

 

今回も何故西軍に与したかと言えば、上杉討伐で家康から号令がかかった際、出陣の様相に手間取り遅参。

遅参してモタモタしている際、大坂で三成が挙兵。大坂方の誘いに乗り、そのまま西軍に味方したと伝えられている。

全くバカ殿としか言いようのない若殿だった。

 

関ヶ原の前哨戦とも云える岐阜城の攻防。

此処でも正則と輝政は、争いを繰り返した。

 

全く正則と云う男、繰り返すが武は優れているが、猪突猛進。

戦になれば功と、如何に自分が目立つかしか頭にない。

此れが「武」はあるが、「智」は足りないと云われる所以。

 

両軍同時にて攻めるとの約束だったが、輝政隊が敵方に鉄砲を撃ちかけられ応戦。

そのまま岐阜城攻めが始まった。

 

その報を聞いた正則は輝政にたばかられたと怒り、即座に全軍突撃命令を下す。

連れられた細川忠興・加藤嘉明隊も参陣。夜間、全軍にて岐阜城攻めとなった。

 

結果、天下の名城と云われた岐阜城は、僅か一日であっけなく落ちた。

一番乗りは輝政であったが、正則が臍を曲げるの懸念してのことか、軍監本多忠勝は両軍を一番乗りとして、家康に報告した。

 

尚、落城した岐阜城の城主、織田秀信は元来切腹であったが、信長の孫と云う事で助命され、高野山追放となった。

秀信の助命嘆願したのは、正則だった。

 

正則は武に秀でていたが、情に厚い処があった。

情に厚い処は賤ヶ岳で秀吉に敗れた、柴田勝家に何となくにている。

 

勝家と違う処は、勝家は秀吉に負け自刃。

正則は後述するが、何はともあれ天寿を全うした事であろうか。

 

参考までに高野山追放の身となった秀信だが、坊ちゃん育ちが災いしたのか、厳しい環境に耐え切れなかったのか、翌年病死している。享年22才。

 

一方江戸に滞在していた家康は岐阜城陥落の知らせを聞き、東軍諸大名の動向を確かめた後、江戸を出立。西進した。

岐阜城を落とした正則たちは赤坂にて陣を張り、家康の到着を待った。家康の到着後の決戦に備えた。

 

決戦、関ヶ原

関ヶ原の戦いも過去何度も述べている為、詳細は省く。

正則は相変わらず東軍の先遣隊の立場で、東西軍が結集した関ヶ原でも東軍の先陣を担うべく、最前戦に陣を構えた。

福島隊と対陣するのは、西軍の主力である宇喜多隊であった。一夜にして関ヶ原に結集。

後は霧が晴れ、戦いの火蓋が切られるのを待つばかりだった。

 

当然正則は先陣の火蓋をきるのは自分と思い、その時を待った。

この時物見と称し、「井伊直政」と家康の四男「松平忠吉」の従者約60人が、福島隊を通過しようとした。

福島隊の先陣部隊長「可児才蔵」が行く手を阻もうとしたが、井伊直政が「只の物見である通行を許可せよ」と告げる。

才蔵は訝しんだが、渋々認めた。

 

直政・忠吉は通過後、宇喜多隊の最前線に踊り出た。

最前線に出て従者たちに銃を放つ準備をさせ、宇喜多隊めがけ打ち込んだ。

 

この銃声が関ヶ原の合戦の火蓋となった。

何故、井伊直政と松平忠吉が正則を差し置き、戦塵の火蓋をきったのか。

おそらく戦後、後々まで正則に

 

「あの関ヶ原で戦塵の火蓋をきったのはわしじゃ」

 

と自慢されるのを嫌ったのではないかと思う。

後世の歴史家に、あくまで関ヶ原の戦塵の火蓋をきったのは「徳川家、松平家」であると喧伝したかったのであろう。

 

鉄砲の砲撃を受けた宇喜多隊は即座に応戦。戦いの幕が切って落とされた。

正則は抜け駆けされ、怒りを露わにし猪突猛進したのは言うまでもない。

たちまち福島隊、宇喜多隊の争いが始まった。

 

即座に全軍入り乱れての戦いが始まる。

開始直後は宇喜多隊の活躍すさまじく、さしもの猛勇でしられた福島隊相手に優勢に戦いを進める。

正則も士気旺盛な宇喜多隊に押し込まれ、一時壊滅寸前の状態になった。

 

正午を過ぎた頃、日和見を決めていた小早川秀秋が家康に銃弾を撃ち込まれ、裏切りを決意。

山を下り大谷隊の側面を襲った。

小早川隊の裏切りで、赤座・朽木・小川・脇坂も離反。大谷隊に襲い掛かり、大谷隊は全滅した。

 

大谷隊の壊滅により、側面からも攻撃を受けた宇喜多隊も壊滅。

空前絶後の大軍が結集した天下分け目の戦いは、僅か半日でケリが着いた。

 

関ヶ原後の正則

関ヶ原は僅か半日でケリがつき、東軍(家康軍)の圧勝に終わった。

戦後の論功行賞は敗れた西軍にとり、誠に厳しいものだった。

多くの大名は改易、又は大幅な減封。

 

西軍の名目上の総大将だった毛利家は、本来であれば改易だったが、分家の吉川家(広家)の必死の執り成しで大幅減封されたが、何とか御家断絶は免れた。

改易は免れたが大幅減封に加え、毛利家は山陽道の要衝ではなく、日本海側の萩・津和野あたりに閉じ込められる結果となった。

 

毛利家は、折角新築したばかりの広島城を明け渡す羽目となった。

毛利家の代わりに広島城の新しい城主となったのは、小山評議から関ヶ原にかけ功をなした福島正則だった。

 

福島正則は家康から備後・安芸約49万石を貰い、意気揚々と広島城に入城した。

旧毛利領で統治は難しいかと思われたが、元々正則は情に厚い処があり、善政を布き、領民にはなかなか評判が良かったと伝えられている。

 

しかし幕府は正則は警戒した。

①正則は関ヶ原の前哨戦であった岐阜城の陥落後、信長の孫秀信の助命嘆願をした事。

②配置変えの後、旧毛利家領民から慕われた事。

上記に見られた正則の情に厚い処が、反って正則の身を滅ぼす遠因ともなる。理由は後述する。

 

幕府成立後、正則の行方

関ヶ原の大勝後、家康は朝廷から征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた(1603年:慶長8)。

将軍職に就いた家康だったが、僅か2年で将軍職を辞す。将軍職を嫡男秀忠に譲り、自らは大御所となり、駿河に隠居した。

隠居したとは言え、実質支配者は家康である事には変わりはなかった。

 

大御所になった家康は、残りの人生を大坂の豊臣家滅亡の為に費やす事になる。

家康は戦には勝ったが、まだ英雄秀吉が残した莫大な遺産と大坂城を滅ぼす為、策を練った。

その第一の計画は既に実行されていた。

 

それは関ヶ原後の論功行賞に現れていた。家康は味方した大名には大幅加増したが、全国の大名の配置には明らかに徳川家の意向が現れていた。

徳川家の一族・譜代は、江戸中心・重要地域に配置。

 

譬え関ヶ原で家康に味方した大名ですら大幅加増されたが、嘗ての領地とは異なり、明らかに不便な遠隔地に飛ばされた。

黒田長政は元々九州だったが、福島正則、山内一豊などは東海道の要衝から、明らかに不便に思われる土地に転封となった。

 

次に家康が実行した手は、各大名の財力を削ぐ事。

各大名に対し、お手伝いとの名目で全国の河川・道路の整備。新城の普請などを命じた。

 

勿論家康の隠居の場である駿府城も、各大名に人員・財を提供させたもの。

徳川家は一銭も拠出しない為、徳川家の腹は全く痛まなかった。

幕府の中心地となった、江戸城の改修も全く同じ。各大名の負担は莫大だった。

 

更に各大名が不平不満を漏らしたのは、名古屋城の普請だった。

この時福島正則・加藤清正、そして家康の婿殿だった池田輝政も流石に不満を漏らしたと云われている。

3人が酒を酌み交わした際、福島正則が不満を述べ、家康の婿殿だった池田輝政に工事の負担を免除してくれるよう口走った。

するとその言葉を聞いた加藤清正が、思わず正則を窘めたというエピソードが伝えられている。

 

兎にも角にも、幕府成立後は徳川家以外の大名は徳川家の為に尽くす事を強制され、大変苦労した。

それだけ徳川家に尽くしながら、徳川家の各大名に対する統制は誠に厳しいものだった。

 

大坂の陣、豊臣家の滅亡

徳川家は各大名を真綿で首を締めるような方法を取りながら、各大名の力を削ぎ、最大の課題だった豊臣家を潰す企みに着手した。

家康は大坂城に残された莫大な財を消費させる為、太閤秀吉の供養と称し、神社仏閣などの造営・修理などを勧め、財力を削げさせた。

豊臣家も徳川家との友好な関係を保ちたかったのであろうか。素直に徳川家の勧めに応じた。

 

豊臣家が散財した後、頃合いをみて徳川家は豊臣家を潰す最後の手段として、開眼真近な方広寺の鐘銘に難癖をつけた。

有名な「方広寺鐘銘事件」である。

 

此れも過去に何度も述べている為、詳細は省略する。

徳川家として、豊臣家を潰す口実は何でもよかった。ただ鐘銘の文字をこじつけて、問題にしただけ。

 

鐘銘事件は、徳川家・豊臣家の最後の決戦の切っ掛けとなる。

1614(慶長19)年、家康は全国の大名に動員をかけ、大坂城を攻めるべく結集した(大坂冬の陣)。

 

その時正則はどうしたのか。実は正則は、大坂冬の陣に参加していない。

何故戦好きな正則が参加していないのかと言えば。

それは大御所(家康)から正則は、江戸に留め置きの命令が下った為。

 

正則が何故、家康から江戸に留め置かれたのか。

それは前述した正則の情に厚い処が災いした。

 

正則は豊臣恩顧の大名の為、情にほだされ、大坂攻めで豊臣家(秀頼)からの誘いがあれば、応じてしまう可能性があった。

繰り返すが、岐阜城陥落の際、織田秀信の助命を申し出たのが典型。

今回も同じ事を繰り返す可能性があり、家康の計画に支障を来すおそれがあった。

 

家康は本気で、豊臣家を潰すつもりだった。

もし正則が再び助命嘆願すれば、家康の計画が水泡にきすおそれがある。

正則は江戸に留め置かれた。正則としては内心、苦々しかったに違いない。

既に頃には加藤清正、浅野幸長、池田輝政は他界していた。危険人物とすれば、正則くらいだったであろう。

 

因みにこの時、同じく京都に留め置かれた大名に真田信之がいる。

信之は云うまでもなく真田幸村の実兄。当然大坂方の敵味方に分かれる為、家康の命で京に留め置かれた。

 

戦いは一旦和議となったが、翌年の1615(慶長20)年に和議は決裂。

再び両軍が戦い、結果として豊臣家は滅亡した。

記録にないが、どうやら正則はこの時も留め置かれたと思われる。

豊臣家亡き後、徳川家の牙はとうとう目障りな他の大名に向けられる。

正則も徳川家にとり、目障りな大名の一人だった。

 

武家諸法度の成立、正則の改易

1615(慶長20・元和1)年、大坂の陣にて豊臣家滅亡後、徳川家はいよいよ本性を現した。

豊臣家に向けていた凶暴な牙を、徳川家に目障りな他の大名に向け始めた。

 

豊臣家滅亡後の翌年の1616(元和2)年、戦国時代の幕を引いた英雄「徳川家康」が亡くなった。

実権は名実ともに、将軍家(秀忠)に移った。

秀忠は豊臣家滅亡後、諸大名を厳しく統制した「武家諸法度」が成立した。

この法度はかなり厳しいもので、後に親藩・譜代・外様に関係なく適用された。

 

関ヶ原の戦功にて、備後・安芸約49万石に加増された福島正則は、旧毛利領の広島城にいた。

1619(元和5)年、正則の広島城は台風の被害に遭い、城の修築が必要になった。

正則は武家諸法度に従い、修築の届け出を老中「本多正純」に提出していた。

しかし正純は、正則の届け出を握り潰した。

 

何時まで経っても返事がない為、仕方なく正則は城を修復した。

城を修復した途端、幕府から正則に対し武家諸法度違反を咎められ、約49万石の大封を取り上げられた(改易)。

此れは明かに、幕府の陰謀。

正則を排除する為、又は他の大名の見せしめにする為、正則が狙いうちされたと云える。

徳川幕府の後世の評判が悪いのも、この様な処に原因があるのではないかと思われる。

 

正則は改易後、情けの扶持米だろうか。川中島に流罪され、僅か約4万5千石の大名に格下げされた。

関ヶ原以後は戦も減り、正則の様な戦場にて功を挙げて出世するタイプの武人は、既に古い型の武将だったのかもしれない。

皮肉にも世が太平になれば、正則が嫌った三成のような治政に優れた文官が重宝がられる。徳川家譜代の武将も全く同じ。

世の中が平和になれば諜報部門として活躍した忍び・海賊などは、自ずと用無しの存在。

江戸時代になった時、そのような集団・勢力は解体させられた。

正則も戦がない世になれば、自ずと消える運命だったのかもしれない。

 

前述した正則と同じタイプだった真田幸村も、大坂夏の陣にて戦国史の終わり告げる華々しい戦いを遂げ、歴史の表舞台から退場している。

真田家で残った人物は信之のように、何方と言えば戦上手でなく、治政に長けた人物だった。

全くそれと同じかもしれない。

 

川中島に飛ばされた正則は生きる張り合いをなくしたのか、なくなるまでずっと虚脱状態だった。何もやる気が起きなかったのであろう。

正則川中島の地にて5年後の1624(寛永1)年、死亡する。享年64歳。

 

正則の子が家督を継いだが、幕府に難癖をつけられ廃絶となった。

其の後一度は断絶するが子孫が幕府に見いだされ、旗本として役職を与えられ、細々と御家を繋いだ。

正則としては関ヶ原が人生のピークであり、其の後は正則にとり、甚だ生き難い世の中だったのではなかろうか。

同じ武断派で外様大名の黒田家・細川家は江戸時代を生き残り、明治維新を迎えた。

武断派でなくとも前田家は明治維新まで存続した事実を踏まえれば、やはり正則は「武」は優れていたが、「智」は欠けていたと言わざるを得ない。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献一覧

【逆説の日本史12 近世暁光編】井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2008年7月発行)

 

【私説・日本合戦譚】松本清張

(文藝春秋・文春文庫  1977年11月発行)