裏切りの名人、それとも変わり身の達人? 色々主君を変えた『藤堂高虎』

戦国時代は生き残る為、裏切りが当たり前だった。

その中でも仕える主君を色々変え、生き残った人物がいる。

その名は、『藤堂高虎』。今回は、その高虎にスポットを当ててみたい。

 

経歴

・名前    藤堂高虎、与吉(幼名)、藤堂与右衛門

・生誕    1556(弘治2)年(誕)~1630(寛永7)年(没)

・主君    浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→ 木下秀長→木下秀保→豊臣秀吉→

       豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光

・家柄    藤堂家(近江国犬上郡藤堂村、後の在士村、現滋賀県犬上郡甲良町)

・親族    藤堂虎高(父)、藤堂忠高の娘(母)

・官位    従四位下、左近衛権少将、和泉守、佐渡守

 

生涯

1556(弘治2)年、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。

長兄は高則は早世。その為高虎が藤堂家の家督を継ぐ。

 

藤堂氏は先祖代々在地の小領主だったが、戦国時代には没落しており、農民にまで身を落としていた。

当時領地を治めていた浅井長政に仕え、1570(元亀1)年の姉川の戦いで初陣を果たす。

 

3年後の1573(元亀4、天正1)年、浅井家滅亡後、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣になる。

後に近江を出奔。各地を転々とする。

 

其の後、織田信澄(信長の弟、信行の忘れ形見。本能寺の変後、無実の罪で殺害される)に仕えるも長続きせず、各地を放浪する。

 

1576(天正4)年、豊臣秀長に仕え、ようやく転機が訪れる。

当時は与右衛門と名乗っていた。

 

1577(天正5)年、秀吉が信長に毛利攻めを命ぜられた為、秀長に従い播磨に移る。

其の後、秀長の家臣として、本能寺の変まで毛利攻めに参陣する。

 

1582(天正10)年、本能寺の変勃発。秀長に従い、山崎の戦いに参陣。

勝利を収める。

 

以後、秀長に仕え各地を転戦。1591(天正19)年、秀長の死後、嗣子秀保が襲封。

秀保の後見人となる。

 

1595(文禄4)年、秀保急逝。秀保無嗣の為、主家廃絶。

高虎は一時、高野山に入る。

後に秀吉に請われ、下山。5万石加増され、伊予国宇和島に封ぜられる。

 

1598(慶長3)年、朝鮮の役の功績にて、伊予大洲を約1万石加増。

合計、約8万石の大名となる。

同年、秀吉が死去。秀吉の死後、実権を握った徳川家康に接近する。

 

1600(慶長5)年、関ヶ原の戦い勃発。東軍の徳川家康に従軍。勝利を収める。

戦功により、約12万石加増され、伊予今治に封ぜられ、約20万石の大名となる。

 

1608(慶長13)年、伊予今治から伊賀・伊勢に転封。

約2万石加増され、約22万石の大名となる。

 

1614(慶長19)年~1615(慶長20)年、大坂冬、夏の陣に参加。

豊臣家滅亡後、戦功により約5万石加増され、約27万石の大名となる。

 

1616(元和2)年、家康死去。日光東照宮の造営にあたる。

 

1617(元和3)年、更に約5万石加増され、約32万石の大名となる。

以後、2代将軍秀忠、3代将軍家光に仕える。

 

1630(寛永7)年、眼疾により失明。

其の後体調おもわしくなく、同年の10月5日、享年75歳にて死去する。

 

次々と主君を変えた、高虎

大まかに高虎の生涯を振り返ったが、高虎は戦国時代を通じ徳川時代を含め、何と11人も主君を変えている。

以前紹介した同じ遊泳術に長けた前田利家、細川藤孝でも数の上では、高虎に叶わない。

 

数だけを考えれば、戦国時代生き残った武将の中では、間違いなくチャンピオンと云える。

 

更に高虎の凄い処は、高虎が去った主君は其の後、皆衰退・滅亡している。

逆に言えば、見切り上手とも云えるかもしれない。

それでは高虎が色々主君を変えた経歴を詳しく見ていきたい。

 

高虎、姉川の戦いにて初陣を飾る

高虎は当時、江北近江を治める、浅井家の領土内で生まれた。

浅井家は越前朝倉家と関係が深く、又南近江を治める六角氏とも誼を通じていた。

 

高虎が生まれた頃、江北は浅井久政が統治していた。

久政は1560年頃、元服した子浅井長政に家督を譲り、表向き隠居していた。

 

長政は、六角氏の家臣平井定武の娘を正妻としていた。

しかし其の後、あまりの六角氏の横暴に耐え兼ね、六角氏からの支配を逃れる為、離縁。

六角氏との関係は、険悪となっていた。

 

その頃、1560年桶狭間の戦いにて今川義元を破り、世間に名を馳せ始めた織田信長が、1567年美濃を攻略。

信長が京に上る為、浅井家に使者を送り、しきりと誼を通じてきた。

 

此れを機会に浅井家は織田家との関係を重視。

政略結婚として、信長の妹お市の方を正妻に迎える事になった。

 

しかし信長と長政との同盟は、そう長くは続かなかった。

1570(元亀1)年、信長が朝倉攻めの際、長政に援軍を求めてきた。

 

長政は義兄信長に加担しようとするが、隠居の身だった久政が、積年から関係が深い朝倉家に味方する事を主張。

家臣一同も賛同した為、長政は信長を裏切る結果となる。

 

此の経緯は以前お市の方を紹介した際、詳しく述べている為、今回は省略したい。

長政は一転、朝倉攻めを行っている信長軍の背後を突く構えを見せた。

 

事実かどうかは定かではないが、この時お市の方の小豆袋の機転で、信長は長政の裏切りを知り、危うく死地を脱出する。

 

信長は一旦京に逃げ、体制を整え浅井・朝倉連合軍を姉川にて迎え撃つ。

高虎は長政の足軽として参加。

敵の首級を挙げたとされているが、戦そのものは信長・徳川連合軍の勝利に終わる。

 

戦いの3年後の1573(元亀4)年、浅井家は朝倉家と供に信長軍に攻められ、滅亡する。

高虎は旧浅井家家臣で信長に寝返った阿閉貞政・磯野員昌の両名に仕えるが、あえなく出奔。

其の後、信長の弟(信行)の子信澄に仕えるも、直ぐに出奔。

各地を転々と放浪する。

 

高虎は浅井家滅亡後、近江を統治する羽柴秀吉の弟羽柴秀長に仕えるまで、何をしていたのか全く分からない。

 

出奔後、羽柴秀長の家臣となる

高虎は出奔から3年後、当時日の出の勢いであった秀吉の弟、秀長の家臣として召し抱えられる。

どうして召し抱えられたのかは、例の如く不明。約300石の俸禄だったようだ。

 

明智光秀の丹波・丹後攻めにも加担。

高虎は戦功があったと云われているが、然したる恩賞もなく、光秀の丹波・丹後攻めも終了する。

 

秀吉は越後の上杉攻めに従軍していたが、朝倉氏亡き後、越前北ノ庄を根拠地としていた柴田勝家と意見が合わず、勝手に戦線離脱。

そのまま自分の本拠地、長浜に帰還していた。

 

本来であれば即刻打ち首であるが、主君信長は秀吉の才を惜しみ、中国地方の雄「毛利氏」を攻めるべく、秀吉を中国地方の方面司令官に任じた。

 

それに伴い、高虎も主君秀長に従い播磨に移動する。

1577(天正5)年、高虎当時22才の頃。

 

この頃の高虎は、さしたる戦功もない。

挙げるとすれば1580(天正8)年、但馬国の一揆を治め、約3000石加増された事であろうか。

 

漸く高虎自身、身を固める意志であろうか。

1581(天正9)年、但馬国養父軍大屋村の栃尾祐善の媒酌にて、一色修理太夫の娘(久芳)と婚姻する。

当時26才の頃。

 

1582(天正10)年、本能寺の変

過去のブログでこの年の出来事は何度も述べている為、敢えて説明するまでもないが、この年は織田信長の家臣明智光秀が京の本能寺で宿泊中の信長を急襲。

信長を自害に追いやった事件が発生する。

 

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった信長が、あっけなく滅びた。

信長軍は信長のカリスマで保っていた軍隊の為、信長亡き後、あえなく崩壊した。

 

各地の方面指令軍が崩壊する中、中国地方の羽柴軍は素早く毛利氏と和睦。

中国大返しを成功させ、京の入り口の山崎にて明智軍と激突。

秀吉軍は僅か数時間の戦いで、明智軍を撃破。高虎は秀長に従軍。

見事明智軍を敗走させた。

 

秀吉が逆臣明智光秀を討った事で、織田家の今後を決める清洲会議では秀吉の発言権が増し、会議は秀吉有利に進む。

この会議で、秀吉と勝家の対立は決定的となる。

 

賤ヶ岳の戦いと其の後

清洲会議の翌年、秀吉と勝家の対立は激化。北近江の賤ヶ岳にて両軍が激突する。

賤ヶ岳では、柴田軍の敗走のきっかけとなった、佐久間盛政軍を鉄砲にて敗走させる。

その功により、1300石を加増された。

 

賤ヶ岳の勝利後、返す刀で上野から伊勢に戻っていた滝川一益を攻め、屈服させる。

翌年の1584(天正12)年、小牧・長久手の戦いにて徳川家康・織田信雄軍と戦う。

 

小牧・長久手の戦い和議後の1585(天正13)年、秀吉は紀伊国にて独立国家のような存在だった雑賀・根来討伐を決意。実行する。

 

更に同年、本能寺の変が起こらなければ丹羽長秀・織田信孝軍にて征伐寸前だった四国の長曾我部元親攻めにも功があり、高虎は5400石を加増。

晴れて1万石となり大名身分となった。

1577年、秀長に仕え、高虎は僅か8年で大名となった。

 

秀吉政権下にて

信長の死後、天下は秀吉を中心に動いた。

秀吉の主家織田家は秀吉の巧みな謀略にかかり、没落する。

 

小牧・長久手で和議後、なかなか臣従しなかった家康を、秀吉は奇抜な戦略にて懐柔。

1586(天正14)年、家康を臣従させる事に成功する。

 

同年関白に就任した秀吉を謁見する為、上洛した家康の京都邸の普請を高虎は命ぜられる。

高虎は卒なく熟し、秀吉・家康の両方から信頼を得る。

 

この頃になれば高虎も主君に云われた事を無難に熟し、着実に信頼を勝ち取り出世していった模様。

高虎の得意な面は築城。今迄言及していなかったが、此れまで数々の城の普請を手掛けている。

今後も高虎は築城面でその才能を、遺憾なく発揮する。

 

秀吉の九州・小田原征伐

権力の絶頂期を迎えた関白秀吉は、九州をほぼ制覇していた島津氏を攻め(1587年)、臣従させる。

高虎は戦功により、官位を与えられ「従五位下 佐渡守」に叙されている。

名実ともに秀吉政権下で、着実に地位を固めつつあった。

 

1590(天正18)年、秀吉は関東の雄「後北条氏」を攻める事を決意。

大軍を率い、北条氏の本拠地、小田原城を包囲する。

 

大軍で包囲するも力攻めはせず、兵糧攻めで相手の自滅を待った。

持久戦の末、北条氏は自滅。

小田原攻城の際、東北を制覇しつつあった伊達政宗も秀吉の許を訪れ、秀吉に臣従を誓った。

 

北条氏の滅亡をもち、応仁の乱(1467年)以降、全国各地に群雄割拠した戦国時代は秀吉により統一された。

 

主君秀長の死去、養子秀保の早世

秀吉が天下統一を成し遂げた翌年の1591(天正19)年、兄の補佐の役目を終えるかのように弟秀長が亡くなった。

秀長には実子がなく、甥の秀保を養子に迎え、秀長の跡を継がせた。

因って高虎の主君は、秀長から秀保に変わった。

 

天下統一を果たした秀吉は、その余勢をかり、隣国の朝鮮国を攻める計画を立てた。

翌年の1592(文禄1)年、実際に朝鮮出兵が行われた。

高虎は主君秀保の代理として出征している。

 

3年後の1595(文禄4)年、秀長の跡を継いだ秀保が急逝。

秀保には子がいなかった為、御家断絶となる。

 

高虎は廃絶となった為、武士を捨て高野山に入る。

しかし高虎の才能を惜しんだ秀吉は生駒親正を通じ、高虎を説得。

約5万石加増され、伊予宇和島約7万石に封ぜられた。

 

再び武人として還俗した高虎は、1596(慶長1)年、朝鮮出兵に従軍。

水軍を指揮し、勝利を収める。

戦功により大洲約1万石を与えらえ、約8万石の大名となる。

 

1598(慶長3)年、太閤秀吉の死去

稀代の英雄「豊臣秀吉」がなくなった。

秀吉の死去により、実権は当時一番の実力者「徳川家康」となるのは誰の目にみても明らかだった。

 

高虎は秀吉がなくなる直前から、巧みに家康に接近。

秀吉亡きあと、臣従を誓う意味で家康の許に弟正高を人質に差し出した。

 

秀吉なき後は、過去のブログで何度も述べているように、文治派と武断派の対立が激しくなり、豊臣政権の屋台骨は大きく揺らいだ。

家康はその対立を上手く利用。武断派を操り、実質的に武断派の頭目となった。

やがて二つの派閥争いは、2年後の関ヶ原へと続く。

 

1600(慶長5)年、関ヶ原の戦い

武断派・文治派の対立が最高潮に達した時、日本の東西をほぼ二分する「関ヶ原の戦い」が勃発する。

此れも過去に何度も述べている為、今回は省略したい。

 

高虎は当然の如く、東軍(徳川軍)に属し勝利を収める。

戦後約12万石加増され、伊予今治に封ぜられた。領土は既に、約20万石に達していた。

 

若かりし頃、主君とそりが合わず、出奔。

各地を転々としていた時とは違い、破格の出世と云える。

既に高虎の人生は絶頂を迎えたかとも思われたが、高虎の出世はまだまだ続く。

 

関ヶ原以後、更に大坂冬・夏の陣

高虎がほぼ人生の最盛期を迎えつつあった関ヶ原以後、高虎はもう或る才能にて、徳川政権に貢献する。

それは前述した「築城」の才。

 

この頃高虎が手掛けた城を挙げれば、近江膳所城、伏見城の修築、江戸城の修築、丹波篠山城の修築、津城・伊賀上野城の修築、禁裏仙洞御所の修築等、枚挙に暇がない。

その功もあってか、高虎は1607(慶長12)年、官名は佐渡守から「和泉守」に変わる。

 

1608(慶長13)年には伊予今治より、伊賀・伊勢に転封となる。

伊予国一部も領土であった為、高虎の領土は約22万石となる。

家康も秀吉と同様、高虎の才能と忠義を重くみて、高虎を外様大名でありながら、準譜代並みの扱いとした。

 

1614(慶長19)年、徳川家と豊臣家の対立が激化。

とうとう両家は雌雄をかけ、戦国最後の一戦を交える事になった。

俗にいう「大坂冬の陣」である。

 

高虎は徳川方として従軍する。この時、徳川家と天敵とも云えた真田昌幸の息子、真田幸村(信繁)の活躍もあり、徳川方は苦戦。

家康は大坂城の力攻めを諦め、一時的にせよ和睦をすすめた。

 

和睦は無事成立。

大坂城の外堀を埋める事が条件だったが、徳川方は外堀どころか、内堀まで埋めてしまった。

 

これで大坂城は、丸裸も同然だった。和議違反と豊臣方が騒いでも後の祭り。

家康は冬を京都で過ごし、年を越した。

 

明けての1615(慶長20)年、再び和議が破られ、両家は対立。両家最後の戦い(大坂夏の陣)となる。

 

両軍最後の戦い後、大坂城は炎上。豊臣家は滅亡する。

高虎は戦功により、約5万石加増。禄は約27石に膨れ上がった。

官位も従四位下に昇進していた。

 

豊臣家滅亡後、徳川(江戸)時代

1615(慶長20、元和1)年、豊臣家滅亡をもち、約150年近く続いた戦国時代は幕を閉じた。

大御所家康は戦国時代を終えたのを見届けるかのように、翌年の1616(元和2)年なくなった。

高虎は将軍家から命ぜられ、日光東照宮の造営に着手する。

 

数多くの築城の功績が認めらたのであろうか、高虎は更に伊勢田丸約5万石を与えられ、約32万石の大名となる。

この頃になれば、徳川家の有力な大名と云っても、差しつかえなかろう。

 

1619(元和5)年、御三家の一つ、徳川頼宣が紀州和歌山転封に伴い、田丸領5万石を交換。高虎は大和国4郡、山城国1郡を所領する。

 

1620(元和6)年、大坂城の修築。

二大将軍秀忠の娘和子を入内させる事に尽力。実現させる。

 

翌年の1621(元和7)年、二条城に修築に従事する。

 

1626(寛永3)年、江戸上野東叡山寛永寺の造営に着手。

 

しかし流石の高虎も衰えが見え始め、1623(元和9)年頃から眼を患う。

そして1630(寛永7)年、高虎は終に失明する。

 

気持ちが萎えたのか、失明した同年の10月5日、高虎は享年75才の生涯を終えた。

 

最後に

高虎の生涯は最初に明記しただけでも、10人ほど主君を変えている。

その為高虎は「裏切りの名人、変わり身の達人」とも云われているが、決して妥当とは思われない。

 

主君を悉く変えているが、変えた先々で高虎は仕えた主君に重用されている。

一方、高虎に去られた元主君は、其の後まもなく没落、又は滅亡している。

 

此れは偏に高虎が、その時代の権力者を見抜く力があったと云える。

高虎は上記示した如く戦場で武功を立てる将でなく、知略・策略で尽くす武将であったと思われる。

築城等は良い例。それ程、築城の才能に長けていた。

 

史料にある高虎の言葉で

「己の立場を明確にできない者は、いざという時、一番頼りにならない」

とされているものがある。

 

数々の主君を変えてきた高虎だからこそ、云える言葉ではなかろうか。

だからこそコロコロ主君を変えても、主君から重用されていたと言える。

 

意外と知られていないのが、高虎は人遣いが上手かった事でも有名。

自分が若かりし頃、色々な主君に仕え出奔。

 

各地を放浪した経験もある高虎は、自分の許を去る家臣に対し引きとめもせず、出奔する寸前、自ら茶を立て相手をもてなしたと云われている。

出奔した人間が再び舞い戻っていた際も、何の咎めもなく帰参を許したと云われている。

 

自分が同じ事を繰り返した故、おそらく苦労を知っていたのだろう。

各地を放浪中、人間の心の機微というものを具に見ていたと思われる。

それが後に財産となり、大出世に繋がったと思われる。

 

しかしいまいち高虎の評価が低いのは、やはり派手な武功がなく、地味な内政面で活躍したからであろうか。

 

(文中敬称略)