籤を引いた「穢れ」の意識が、そうさせたのか 松本清張『赤いくじ』

★松本清張 短編小説シリーズ

 

・題名       『赤いくじ』

・新潮社       新潮文庫

・昭和        昭和40年6月 発行 【或る「小倉日記」伝内】

・発表        オール讀物(1954年3月~1955年6月)

 

登場人物

◆塚西恵美子

夫は道庁の役人。出征軍人の若い妻。朝鮮半島全羅北道の高敞(コチヤン)に住む。

町には日本人が約600人程が住んでいたが、塚西夫人はその中でもひと際目立つ美貌の持ち主。おまけに品のある才女だった。

その美貌と才女故、現地に駐屯する軍の主導者の二人の間で、災いの種となる。

 

尚、道庁役人とは、現地朝鮮の日本から派遣された役人の事。

朝鮮半島は、地域を「~道}と区分していた。今回の舞台は全羅北道。

その為塚西夫人の夫は、おそらく全羅北道の役人だったと推測される。

 

◆末森軍医

朝鮮半島全羅北道の高敞(コチヤン)に駐屯する軍に所属する、高級軍医。

以前は激戦地の南方にいたが、戦局の悪化の為、あまり戦闘のない朝鮮半島に転属となる。

 

末森は或る夜、急患が出たとの知らせをうけ、往診に赴いた。

往診した患者は若い奇麗な女性(塚西夫人)だった。一目みた瞬間末森は、女性に心を奪われた。

何とか女性の関心を得る為、色々理由をつけ、女性宅を訪問した。

其の後、訪問の目的を、同じ軍の参謀である楠田に嗅ぎつかれる。

 

あろうことか楠田も塚西夫人に惹かれ、二人は塚西夫人の関心を引く為、醜い争いを重ねる。

争いは徐々に悪化。争いは終戦後も続いた。

 

◆楠田参謀長

末森と同じ軍に所属する、参謀長。中国では、各方面を歩いてきた軍人。

40才を過ぎていると思われるが、年齢は30半ばに思える程、若く見える。

 

楠田は末森軍医と同様。

塚西夫人を一目見た際、まるで青年のように塚西夫人に心を奪われた。

やがて楠田は同じ軍の末森が自分と同様に、塚西夫人に興味を持つ事を知る。

 

二人は競って塚西夫人の気を引こうと、あれこれと策を巡らす。

二人の争いは、次第に激化。

 

争いは終戦を迎え、本土に引き上げる際も続いた。

やがて二人は醜い争いは、悲劇的な結末を迎える。

 

◆現地の兵団長

末森軍医と楠田参謀長が所属する、朝鮮半島全羅北道の高敞の兵団長。

或る外国大使館付けも務めた事もある、元中将だった。

 

退役予備兵であったが、戦争の為、招集。比較的平和な朝鮮の小さな町に配属された。

配属先で末森軍医と楠田参謀長の個人的な醜い争いを見聞する。

 

敗戦後、進駐してくる米兵の為、点数稼ぎの為、慰安婦の設置を画策する。

現地の対象となる夫人にくじを引かせ、慰安婦の候補とする。

結局、必要なかったが、慰安婦選抜のくじを実施した為、現地の人との間に要らぬ偏見・差別意識を持たせてしまった。

 

更に籤の実施は、以前から一人の夫人を廻り争っていた末森軍医と楠田参謀長の争いを、一層激化させてしまった。

激化した二人は醜い争いを嵩ね、最後には悲惨な結末を迎える。

 

あらすじ

時は終戦間際の朝鮮半島での、或る小さな町での出来事。

約600人程いた町には、多くの婦女子がいたが、その中でもひと際目立つ夫人がいた。

夫人の名は、「塚西恵美子」と云った。

 

塚西夫人は、洗練された品と教養がある女性だった。

その為、町に駐屯していた軍医と参謀長の関心の的となる。

 

二人の軍人の婦人を取り合う争いは、益々エスカレート。

争いの火種は終戦後も続き、二人は醜い争いを重ねる。

 

やがて、日本は敗戦。

現地では今後進駐してくる米兵の為、慰安婦を用意する計画が持ち上がる。

塚西夫人は当初は慰安婦の対象から除外されていたが、兵団長の或る思惑により、抽選に加えさせた。

 

運命の悪戯かだろうか? 塚西夫人は、赤いくじを引き当ててしまった。

慰安婦は実際、必要なかった。

何故なら、進駐してきた米軍が慰安婦を要求しなかった為。

 

何もなかったが、くじを引いた夫人達はその後、他の日本人から白い目で見られた。

何もなかったにもかかわらず。

 

更に籤を引いた夫人は、自分の夫からも、冷たい目で見られた。

引揚の列車中で籤を引いた夫人達は、偏見と差別の目で意地の悪い好奇の的となった。

 

勿論、塚西夫人もその一人。

末森は今迄手に届かない存在と思われた塚西夫人が赤いくじを引いた為、塚西夫人が急に自分の手に届く範囲になったと錯覚した。

末森軍医は以前からの邪心を、恥も外聞なく実行に移した。

 

末森の邪心を察知した楠田参謀長は、必死で末森の計画を阻止しようとした。

その二人の醜い争いは、悲劇的な結末を迎えた。

 

嫉妬に狂った楠田が末森を捜索。

発見後、末森は楠田を射殺。その後、末森も自分の額を銃で撃ち、自害した。

 

要点

二人の大人が一人の女性の関心を引く為に醜い争いを重ねるのは、何か子供の喧嘩と同じ。

反って子供より質が悪いかもしれない。

 

二人は夫人の関心を得ようと、あの手この手で理由をつけ、塚西夫人宅を訪問する。

夫人も何やら手馴れたもので、相手の気持ちを察しながら、のらりくらり交わし、二人を手玉に取る。

 

二人は塚西夫人宅を訪れた時、二人は夫人が品がよく、洗練された教養の持ち主である事を知る。

二人は益々、塚西夫人に熱を上げた。

 

或る日、楠田参謀長が夫人宅を訪れた時、夫人が英語の嗜みがあるのを知った。

楠田は何気なしに、その事を兵団長に話した。

 

兵団長は楠田の話を後々まで記憶していた。

楠田の話した事は、後に塚西夫人をあらぬ方向へと導く。

 

1945年、日本は連合軍のポツダム宣言を受け入れ敗戦を迎える。

現地に駐屯していた日本軍と、朝鮮人との立場が逆転した。

日本兵は一夜にして、統治に能力を失った。

 

現地の日本人土地・家屋は接収され、軍の武器も現地の朝鮮人に没収された。

併合されていた朝鮮が、戦勝国扱いとなったのである。

 

敗残兵は惨めである。一夜にして立場が逆転した。

更に敗戦した日本軍は、此れから起こりうるであろう出来事を予測。

軍首脳部は少しでも相手(米兵)のご機嫌をとり、点数を稼ぐ為、慰安婦設置を計画した。

※文中で清張は、日本の兵士が戦いの先々で求めた慰安婦と書いてあるが、此れは歴史的に検証の余地がある為、今回は除外させて頂く。

 

軍は慰安婦を選抜する為、あざとい手を使った。

一般婦女子を不慮の災害から防ぐとの名目で、籤で選抜される事となった。

 

なんの事はない。ただ自分達ができるだけ戦犯から逃れる為、一般婦女子から慰安婦と選抜。

米兵に差し出し、自分達は身の安全を図ろうとする、保身以外の何ものでもない。

 

敗戦後、このような輩が、各方面で数多く存在した。

勿論、籤を夫人達に引かせる際、本心を告げず、適当な理由を当てはめ、夫人達に籤を引かせた。

その中には、あの塚西夫人もいた。

 

塚西夫人は、楠田と末森としては当然、除外の対象と思われた。

処が兵団長は、以前楠田から聞いた話を覚えていた。

塚西夫人は、英語を得意としていた事に。

 

塚西夫人が英語が話せる為、兵団長は塚西夫人を米兵のもてなしの対象として適任と思った。

兵団長は皆平等であるべきであるとの名目で、塚西夫人にもくじを引かせた。

何の因果か、塚西夫人は当たり籤を引き当てた。

 

軍は慰安婦の候補を選抜したが、実際は必要なかった。それは米国が求めなかった為。

しかし其の後、籤の目的が皆に漏れた。

 

翌月の九月末、高敞(コチヤン)にいた軍と現地の日本人は本土引揚の為、列車の中にいた。

列車内では、例のくじを引き当てた約20名の夫人達は、皆から白い目で見られた。

何もなかったにもかかわらず。

 

夫人の夫ですら、妻に対し、冷たい態度を取った。

此れは何もなかったが、一つ間違えれば可能性があったというだけで、偏見と軽蔑の目で見られた。

 

理由を考えた処、此れは日本人独特の「穢れ」の意識ではなかろうか。

日本人の深層心理にある「穢れ」の意識が、くじを引いた婦女子に対し、湧いたのではないかと思われる。

 

塚西夫人も当然、蔑みの対象だった。

夫人の場合、器量もよく、教養もあった為、同じ女子からは格好の的になった。

今迄の「やっかみと嫉妬」もあったのかもしれない。

 

目的の駅に着く寸前、列車は或る駅に止まった。

此処で一夜明かす予定との事。

 

末森は終戦の退廃した気持ちも重なり、己の欲望を塚西夫人に遂げようと画策。

末森は、邪な欲望を実行に移した。

 

末森の心では塚西夫人は手の届かない存在ではなく、手を伸ばせば届く範囲にいる心境となっていた。

それを察知した楠田参謀長は、末森と塚西夫人の邪魔に入る。

 

争いの結果、楠田は末森に銃で撃たれ、其の後末森は、楠田を撃った銃で自殺する。

事の顛末をを聞いた兵団長は、あまりの醜さに呆れた。

兵団長が軍に提出する報告書には軍のメンツを保つ為、二人の死は敗戦後の悲憤故、自害したと記された。

 

果たして塚西夫人は其の後、どうなったのであろうか。

 

追記

赤い籤とは敗戦後、朝鮮に進駐軍としてやってくるアメリカ軍に対し、日本の陸軍首脳陣が少しでも自分たちの立場がよくなるよう目論んだ計画。

つまり米兵に胡麻を擂る為、「慰安婦」を選抜する為、実施した籤の事。

 

実際米兵が進駐後、そのようなモノは必要なかった。

それは相手が敗戦国に求めなかった為。

 

先走った軍首脳陣の動きで犠牲になったのは、誰か。

それは慰安婦にならなかったが、赤い籤を引いた約20名の婦人たち。

 

彼女たちは籤を引いただけだったが、差別を受けた。

譬え夫を持つ夫人ですら、自分の夫から白い目で見られた。

 

何故だろうか。

此れは明らかに、「偏見・差別意識が齎す弊害」であろう。

 

くじを引いた彼女たちは、他の婦女子が凌辱されるのを防ぐ為の犠牲者の候補になっただけにもかかわらず、同じ日本人から差別を受けた。

 

此れが人間の心に潜む深い闇。

繰り返すが、只候補になっただけにも関わらず。

 

文中では、

 

皆は、悪徳な連想で彼女たちを瀆すことに陶酔した

 

と書かれてある。

此れは穢れたものを見る目と好奇心が入り乱れた感覚。

現代風の言葉で言えば、「視姦」であろうか。

 

尚、現代のマスコミにて「従軍慰安婦」なる文字が暫し登場する。

今回の作品は慰安婦という文字が使われているが、「従軍慰安婦」とは全く違った意味で使われている為、注意が必要。

 

従軍慰安婦とは未だに、歴史的に決着がついおらず、曖昧な言葉である。

今後も数々の論争が必要な案件。安易に使うべきではない。

作品中では、ただの慰安婦として書かれてあるのみで、一言触れさせて頂いた。

従軍慰安婦は国際情勢などが大きく関与する為、安易に言及しない方がよいと判断。

今回は、敢えて何も触れずにおきたい。

 

更に作品は、従軍慰安婦が国際問題になる前に描かれている状況を鑑みれば、清張本人は作品を書いた当時、あまり深い考えはなかったと推測する。

しかしあくまで、私の個人的な意見だが。

 

私が暫し歴史の事象・人物をブログで紹介する事が多いが、いつも注意している事は、現代の常識・感覚で昔の歴史を解釈してはいけないという事。

 

現代の感覚で歴史を解釈すれば、おそらくどれもが異常と云う事になりかねない。

つまり過去の歴史を紐解く際、常に注意すべきことは、できるだけ当時の常識・感覚で歴史を見つめる事が肝要と思われる。

 

(文中敬称略)