武人であり文化人 自由奔放に生きた武将『前田慶次郎』

戦国時代、一風変わった武将がいた。武人で在りながら、文化の嗜みがあった武将。

今回、自由奔放に生きたと云われる『前田慶次郎』を取り挙げたい。

昔の漫画で原哲夫原作:『花の慶次』の主人公と云えば、分かり易いかもしれない。

 

経歴

・名前    前田慶次郎、前田慶次、前田長益

・生涯    1533年(生)~1605年(没)?

・主君    前田利久→前田利家→ 上杉景勝 

・家柄    前田氏(尾張国海東郡荒子城出身、現在の愛知県名古屋市中川区)

・親族    滝川氏(実父)、前田利久(養父)

・官位    不明

 

生い立ち

実父は滝川一益の一族と云われているが、詳細は不明。一益の従兄弟、滝川益氏、甥、滝川益重とも云われている。

尾張国荒子城、前田利久の養子となる。養子となった経緯も不明。利久は元来病弱で、子がなく妻の実家から養子を貰ったとも云われている。

 

生涯

1567(永禄10)年、利久の主君信長の命により、利久は廃嫡。荒子城は利久の父利春の4男として生まれた、前田利家が家督を相続する。

尚、この措置のほぼ2ヵ月前、織田信長が念願の美濃を攻略。斉藤氏を滅ぼしている。

信長が次の事業を見据え、前田家の将来を懸念。利久廃嫡に踏み切った可能性が高い。

信長の次の事業とは、勿論京に上り、天下統一を進める事。

 

前述したが養父利久は病弱で、信長は軍事面での貢献が困難と判断。

信長の小姓を務めていた利家が的確と判断した末、利久廃嫡を決意したものと思われる。

 

荒子城主は信長の命で、利久から利家に交代。この時慶次郎は養父利久と供に、城を退出。

其の後、諸国を放浪。京に上り、当時の文化人などと交流。文化的見聞を深めたと云われている。

 

叔父前田利家が信長から能登一国を与えられた際、利家に仕えたとされているが、仕えた翌年に本能寺の変が発生。

信長死後、秀吉の天下となり、以後利家の家臣として従軍。秀吉の小田原征伐まで付き添ったと云われている。

 

其の後、前田家督を継いだ利長とそりが合わず、再び出奔する。

出奔後、かねてから心酔していたと思われる会津上杉景勝の許に身を寄せ、会津で没したとされている。

 

性格と逸話

慶次郎の出生・没年には、色々諸説がある。生まれが1541(天文10)年とするものもあり、没年が1612(慶長17)年とする説もある。

何れもはっきりした事は分からない。慶次郎の事は、戦国時代に詳しく述べられたものは少なく、加賀藩・米沢藩に残る資料を集め、明治・昭和時代に纏められた。

現在伝えられているイメージが、当時とはかなり異なっている可能性も否定できない。歴史において後世の歴史家が、かなり人物像を歪めている事象が多々ある。

 

それを念頭に置きながら、慶次郎の歴史を振り返ってみた。

やはり前述した如く、荒子城主だった前田利久が城を退去後、慶次郎も一緒に城を退去した為、主だった記録が残っていない。

前田家の家督が利家に移行した後、利家に仕えたとされるとの諸説もあるが、此れもはっきりしていない。

私は出奔から本能寺の変までの間、慶次郎はおそらく京あたりを放浪。京の文化人たちと交流していたのではないかと推測する。

 

慶次郎は武人でありながら、当時として高い教養を身に付けていた。

当時の文化人、里村紹巴・昌叱父子や九条稙通・古田織部ら多数の文人と交流したとも伝えられている。

本能寺の変後の事であるが、当時隠居して幽斎と名乗っていた、細川藤孝と供に連歌会を催したと伝えられている。

この頃なんらかの形で京の文化人との関係ができたと思われる。

 

慶次郎の性格・奇行を表すエピソードして有名な「水風呂」の話も、この時期にあったと云われているが、逸話も年も定かでない。

水風呂の話とは、普段の慶次郎の行いがあまりにも宜しくなく、前田利家が慶次郎の奇行(慶次郎は当時、傾奇者と呼ばれていた)を窘めた。

すると慶次郎は反省をする振りをして、利家に改心したと見せかけ、お茶を立てて利家をもてなそうと、利家を自宅に招待した。

利家はそれは善い事だと思い、慶次郎の誘いにのった。慶次郎に家についた時、その日はあまりにも寒い日だったので慶次郎は利家に風呂を勧めた。

利家が此れは何よりと風呂に入ろうとした時、風呂は水風呂だったというエピソード。

 

慶次郎は利家に悪戯をした後、そのまま前田家を出奔したとの説もある。

因みに慶次郎は当時「傾奇者」と云われていたが、何の事はない。若かりし頃の前田利家も、昔は同じく「傾奇者」と云われていた。

どっちもどっちと思われる。才覚がある者こそ、クセがあると云うのだろうか。

 

このエピソードの様に慶次郎は何か悪戯好きで、人を小馬鹿にした処があった。

そのクセが治らず。利家、嫡男利長とそりが合わず、出奔したと云われている。この性格は、後のエピソードにも大いに関係する。

しかし慶次郎の記録が明確に現れるのは、実は信長存命の時代ではなく、信長が本能寺で討たれた後、慶次郎の記録が頻繁に登場する。

 

本能寺の変の前後

慶次郎は本能寺の変が起こる前年の1587(天正9)年、前田利家に仕えたとされている。例の如く、経緯は不明。

その翌年、本能寺の変が起こる。本能寺の変の際、前田利家は柴田勝家の与力として従軍。おそらく慶次郎も従軍していたと思われる。

 

本能寺の変後、羽柴秀吉が信長の後継者となり、信長の天下統一事業を引き継ぐ。

清洲会議後、秀吉と勝家の対立が顕著となり、翌年戦火を交え、秀吉が勝利する。

前田利家は勝家の与力であったが、賤ヶ岳の戦いで戦場離脱。秀吉勝利の原因となる。その後利家は、秀吉に臣従する。

 

小牧・長久手の戦い

1584(天正12)年、秀吉の織田家乗っ取りを快く思わなかった信長の遺児信雄が徳川家康を誘い、反秀吉の兵を挙げた。

俗に言う、「小牧・長久手の戦い」である。

もともと信長存命時から秀吉とそりが合わなかった富山城主佐々成政は、小牧・長久手の戦いが始まると、秀吉に味方する前田利家の領土に侵攻した。

 

利家の戦歴を語る上で、自慢話の一つである「末森城の戦い」がある。

末森城の戦いとは、加賀・能登の国境にある末森城が、成政の大軍に囲まれた際、少数の利家軍が対戦。勝利した戦いの事。

末森城の戦いは、太平記の中に収められている話の一つ。此の戦いで、慶次郎が奮闘したと云われているが詳細は不明。

 

1587(天正15)年、養父前田利久死去。

前田家から与えられていた扶持米としての封地を、慶次郎の嫡男正虎が引き継ぐ。正虎はその後、前田家に仕える事になる。

因みにこの年は、秀吉が九州征伐を敢行。九州の雄、島津氏を臣従させる。

 

1590(天正18)年、秀吉大軍を率い、関東の雄、北条氏の居城小田原城を攻める。

秀吉は利家に北陸方面の惣職(方面師団長のようなもの)を命じ、出征を命じる。

利家の出陣に従い、慶次郎も同行した模様。しかし小田原攻めは、力攻めは行われず、兵糧攻めににて終結。

この時、東北の伊達政宗も秀秀吉に降った為、小田原攻城の後、秀吉の天下統一事業が完成する。

 

慶次郎、再び出奔

秀吉の小田原攻略を持ち、天下は統一される。統一後、慶次郎と前田家との関係が悪化。慶次郎は前田家を出奔。再び、放浪の身となる。

再びと記したのは、1567年、養父利久の荒子城退去の際、一度養父利久と供に出奔した形跡がある為。

 

其の後慶次郎は、各国を放浪。再び京に上り、文化人たちとの交流を深めたと思われる。

前回の出奔とほぼ同じ行動をとったと思われる。前述したが、当時の当時の文化人たちと連歌の会を催し、交流を深めていた。

この時、まだ秀吉の信が篤かった千利休とも、交流。お茶の嗜みも、身につけたと云われている。

 

もう一つの慶次郎の有名な逸話

前述した水風呂の逸話の他に、もう一つ慶次郎に纏わる有名な逸話がある。

それは秀吉が天下統一を成し遂げた後の、秀吉主催の宴会の席での出来事。

 

天下統一後、関白秀吉主催の各大名が招かれた宴が行われた。

宴たけなわの頃、酒宴の席に前田慶次郎が何処からか紛れ込んできた。

慶次郎は例の如く、悪戯として猿の面を被り、猿楽のような真似をした。

猿楽を演じながら、ふざけて各大名の膝に腰掛け、大名の顔色を伺った。各大名は、酒の席で余興として笑い飛ばしていた。

 

処が慶次郎が上杉景勝の許にきた際、何もせず景勝の側を過ぎた。

後日慶次郎の言葉によれば、何か景勝殿の側にいった際、景勝殿の雰囲気に圧倒され、何もできなかったと伝えられている。

この体験が影響したかどうか知らないが、慶次郎は後に会津の上杉景勝に仕官。召し抱えられている。

実際に、景勝の家老直江兼続と前田慶次郎は仲が良かった。

 

上杉景勝、徳川家康に反旗を翻す

1598(慶長3)年、太閤秀吉が63才の生涯を終えた。その直後から、内府家康の専横が目に余るようになった。

五大老の一人、上杉景勝は家康を嫌い、大坂を離れ領国会津に帰国した。

 

帰国した景勝は、反家康を鮮明する。

家康と一戦交える覚悟で、城の改修・道路の整備を始めた。更に武具・浪人などを集め始めた。

 

この事を熱心に内府(家康)に告げ口したものがいる。

それは景勝の代わりに越後の新領主となった、堀秀治。堀は旧領主上杉の動きを、逐一家康に報告していた。

 

景勝は越後から、会津に転封となっていた。

何故堀秀治が家康に報告したのかと言えば、堀は景勝と移封の際、年貢でトラブルを起こしていた為。

さぞかし恨みがあったと思われる。その為、仕切りなしに景勝の行動を上方の家康に報告した。

 

堀を始め家康に阿る大名から、景勝の反家康の動きが次々に報告される。

家康は景勝の出方を伺う為、景勝に対し、「大坂に赴き事の次第を弁明せよ」との手紙を景勝に差し出した。

 

景勝から家康に来た返書が、世に有名な「直江状」である。

何故直江状と云われるのか。それは景勝の返答に家老の直江兼続が辛辣さを加え、家康に返答からだった。

景勝からの返書を読んだ家康は激怒。側近に対し、「今迄自分はこの様な無礼な手紙を貰った事はない」と吐き捨てたと云われている。

 

家康は上杉謀反の動きありと判断。

豊臣政権に盾突くものとの名目で秀頼からお墨付きをもらい、会津討伐を決意。討伐の為、各大名に号令。兵を結集させた。

この後の動きは、過去何度もブログで紹介している為、詳細は省くが、この会津討伐がきっかけとなり、天下分け目の「関ヶ原の戦い」の流れとなる。

 

関ヶ原の戦いと景勝の動き

上杉討伐として家康を筆頭として各大名が会津を目指している時、以前から反家康の急先鋒だった元豊臣政権の奉行石田三成が、家康排斥の兵を挙げた。

上杉討伐軍は、石田三成を中心とした豊臣政権を保持する勢力(西軍)と戦う為、上野小山で引き返した。

 

家康は兵を西に引き返す際、上杉軍の攻撃に備え、会津周辺の家康派の大名に上杉家を牽制させた。

上杉対策の中心として宇都宮の次男、結城秀康に守りを固めさせた。家康は後続を固め、各大名を引き連れ兵を西に返した。

 

関ヶ原の結果は、言うまでもないが東軍の圧勝。それも勝負は、半日で片が付いた。

その頃、景勝はどうしていたのか。

景勝は家康が西軍と戦い、負ければしめたもの。もし家康が勝てば、近い将来必ず会津に攻めてくると予測。

それまでに勢力を拡大する為、周辺国を攻めた。景勝は庄内の最上義光を攻めた。

上杉軍は、破竹の勢いで勝ち進んだ。この時、慶次郎も従軍。武功を立てたと云われている。

 

あと一歩で最上義光の居城長谷堂城にまで迫った時、上杉軍は関ヶ原での西軍の敗戦の報を聞く。

西軍敗戦と聞き、上杉軍は直ちに撤退を決意。

撤退の際、殿を慶次郎と直江兼続が努め、追いすがる最上軍を退け、無事撤退したと云われている。

 

景勝、米沢減封

西軍が関ヶ原で敗戦。西軍に味方した各大名は、家康の手で厳しく処罰された。

関ヶ原のきっかけとなった景勝も、家康から厳しい処罰を受けた。景勝は会津120万石から、米沢30万石に減封となった。

確かに大減封となったが、西軍の他の大名に比べ改易、切腹にならなかっただけで良かったと云える。

景勝は米沢に移封となった。慶次郎は景勝と供に、米沢に従事した。

 

米沢に移った慶次郎は、米沢郊外の堂森(現在では、慶次清水と呼ばれる)に隠棲し、和歌・連歌などをつくり、悠々自適な生活を送る。

米沢藩の記録によれば、1612(慶長17)年、前田慶次郎は隠遁の場でなくなったとされている。

生年1533とすれば、79才と云う事になるが、他の記録では、1605(慶長10)年、亡くなったとも云われている。

何方が正しいのかは、不明。

 

尚、慶次郎の嫡男正虎と妻は、慶次郎に随行せず、正虎はそのまま前田家に仕えた。

こう振り返れば、慶次郎は出生時から時代に翻弄され、自らの人生の意義を求め、自由気ままに生きたのではないかと思われる。

人生のほぼ晩年期、上杉景勝の家老直江兼続と親しかった事実を考えれば、慶次郎は心の拠り所を家族・親族ではなく、気心の知れた友に人生の安らぎを求めたのではないか。

慶次郎の奇行・悪戯好きは、最後まで直らなかったと伝えられているが、それは慶次郎の何か満たされない心の投影ではなかったのではないかと推測する。

 

追記

慶次郎の歴史を簡単に見つめたが、慶次郎の特徴である「悪戯好き」と「奇行」は、何か慶次郎の幼少期に形成された気がする。

慶次郎は滝川一族に生まれたが、実父は分からない。実父がはっきりしないまま、荒子城主前田利久の養子となる。

 

本来であれば、養父利久の跡を継ぎ、荒子城主となっていた。しかし時は戦国時代。実力が物をいう社会(下剋上)。

実力社会の為、養父利久のように元来病弱であれば、主君への奉公、家の存続などままならなかったであろう。

 

もし江戸時代のような平和な時代であれば、可能であったかもしれない。だが時代が許さなかった。

これは兄が病弱で、弟が家督を継いだ越後の長尾家(後の上杉家)に似ている。戦国時代には、決して珍しい事でなかった。

 

しかし廃嫡となり養父と供に城を出た慶次郎にしてみれば、本来城主になるべきであったが、追い出されと思っても無理はない。

廃嫡は1567年の為、慶次郎が1533年生まれとして換算すれば、当時すでに34才。1541年としても、26才。

当時の社会であれば初陣を済ませ、とっくに家督を継いでいても可笑しくない年齢。その年齢で城を追われたのであれば、放逐されたと思っても仕方がない。

 

因みに1533年生まれ説とすれば、利家とは4才年上と云う事になる。利家が荒子城を継いだ際、利家は30才となる。利家自身も、やや遅い。

利家の場合、以前と利家を紹介した際にも述べたが、利家は若かりし頃、信長の寵愛する僧を斬った為、数年出奔していた時期がある。

此れも若かりし頃の慶次郎となんら変わりはない。

 

自分とそれほど年も変わらず、若かりし頃に同じく「傾奇者」と云われていた利家が家督を継いだ時、慶次郎としては、何となく面白くなかったのであろう。

その裏返しとして、大人になっても悪戯好き、奇行のクセが直らなかったのではないかと推測する。

 

偶に自分の周りに、似たような人物がいないであろうか?

幼少の頃、あまり家庭環境に恵まれず、大人になっても子供のような言動をする人間が。何か満たされなかつた心の裏返しとでもいうのであろうか。

いつまでたっても、大人になり切れない人間が、一人や二人、自分の周囲で思いつくかもしれない。

 

慶次郎はおそらく、そのような人間だったと思われる。

大概そのような人間は、亡くなるまでその様な行為を繰り返す。私の思い当たる人物も、亡くなるまで悪戯・奇行の類を繰り返した。

拗ねた行為というのであろうか。

 

慶次郎の出生に纏わるエピソードが存在する。

養父利久が滝川一益の宅に招待を受けた際、たまたま宴会の席で見た女性に、利久が一目惚れをした。

 

利久はその女性を何とか自分の正室に迎えたいと強引に一益に迫り、無理やり一益から女性をもらい受けた。

実は女性は一益の側室で、その時既に一益の子を身籠っていた。

利久は女性の妊娠を承知で、更にお腹の子を自分の子として育て、家督を相続させてもよいと述べ、必死に一益と女性を説得したと云われている。

 

この逸話は、冒頭で紹介した原哲夫原作「花の慶次」でも取り上げられていた。本当かどうかは、やはり不明だが。

もし本当であれば、やはり慶次郎の何処か歪んだ行動が、なんとなく理解できる。

 

何れにしても前田慶次郎は、心の中で何か満たされないものが存在。

武将としては優秀だったが、あまり世間に認められる事なく、一生を過ごした人物と思われた。

「無冠の帝王」とでも言えば良いであろうか。そのような気持ちになりながら、慶次郎を歴史を振り返った。

 

(文中敬称略)