複雑に絡む3人の関係 斎藤利三、お福(春日局)、稲葉正成
いつもであれば、歴史上の人物を一人ずつ紹介するが、今回は珍しく一挙に3人紹介したい。
何故3人なのかと云えば、3人の関係が互いに絡みあい、複雑な様相を呈している為。
その3人とは斉藤利三、お福(後の春日局)、稲葉正成。
歴史好きな方であれば、3人の名前を聞いただけで、ピンとくると思う。では早速。
目次
経歴
斉藤利三
・名前 斉藤利三、斎藤内蔵助
・生涯 1534(天文3)年~1582(天正10)年(没)
・主君 松山新介→斎藤義龍→稲葉良通(一鉄)→明智光秀
・氏姓 斎藤氏
・縁者 斎藤利賢(父)、蜷川親順女(母)、父親違いの妹(長宗我部元親正室)
・妻 正妻:斎藤道三の娘、継室:於安(稲葉一鉄の娘)
・子 お福(後の春日局)
お福(斎藤福・春日局)
・名前 斎藤福、春日局
・生涯 1579(天正7)年~1643(寛永20)年(没)
・主君 豊臣秀吉→小早川秀秋→徳川家康→松平忠昌→徳川秀忠→家光
・官位 従二位・春日局
・氏姓 斉藤氏→稲葉氏
・縁者 斉藤利三(父)、稲葉於安(母)、稲葉重通(養父:一鉄の庶長子)
・夫 稲葉正成、後に離縁
・子 稲葉正勝
稲葉正成
・名前 稲葉正成
・生涯 1571(元亀2)年~1628(寛永5)年(没)
・主君 豊臣秀吉→小早川秀秋→徳川家康→松平忠昌→徳川秀忠→家光
・官位 従五位下・佐渡守、内匠頭
・氏姓 林氏→稲葉氏
・縁者 林政秀(父)、安藤某娘(母)、稲葉一鉄(義父)
・妻 お福(後の春日局)、後に離縁
斉藤利三
今回の3人の中で一番先に説明しなければならない人物と云える。
斉藤利三は美濃国、斎藤氏の系統。父は斎藤利賢、母は蜷川親順女と云われている。
しばし「美濃の斉藤氏とは何ぞ」と疑問に思う方がいるかもしれません。
分かり易い譬えを挙げれば、関東で有名な氏族と云えば「北条氏」。
下剋上で有名な男「北条早雲」が、此れに該当する。
早雲の本来の名前は、「伊勢新九郎盛時」。
下剋上で伸し上がり大名となった為、その土地の名跡を継いだ経緯(後北条氏と呼ばれる)。
後に述べる利三の主君「明智光秀」は、信長の配下で出世。
後に九州の名跡「惟任:これとう」を継ぎ、「惟任日向守」と呼ばれていた。
※他の例で有名なのは、早雲と同じ下剋上の代表格で、マムシと呼ばれた同じ美濃の「斉藤道三」。
道三の名は、元々「長井秀龍」。美濃でのし上がり、美濃の名門「斎藤氏」を名乗った。
因って道三と利三は、全く別の系統。
史料では斉藤利三の母蜷川親順女と、光秀の正妻熙子とは姉妹だったと記されているものがあるが、はっきりした事は分からない。
ただ云えるのは、後に仕える明智光秀と何らかの関係があったのは間違いない。
利三の母は、後に石谷光政と再婚。利三にとり、父親が違う妹を生んでいる。
妹は後に四国の大名「長曾我部元親」の正室となり、信親・盛親等を生んでいる。
尚、長曾我部元親の許に嫁いだ妹も、後に話す本能寺の変について微妙に関係する。
それは後程。
斉藤利三の生涯
斉藤利三は元々は、幕府の奉公衆だった。その為、上京後摂津国の松山新介に仕えたと伝えられている。
その後、何故か美濃国斎藤義龍に仕えたとされている。この経緯は不明。
利三は西美濃三人衆の一人と云われた、稲葉良通(いなばよしみち)に仕える。
稲葉良道というよりも、稲葉一鉄といった方が分かり易いかもしれない。
良通の性格が頑固だった為、頑固一徹を捩り「稲葉一鉄」と呼ばれた。
斉藤利三は初めの正室は、斎藤道三の娘と云われていたが、後に離縁。
後室として、一鉄の娘を迎えている。当時仕えていた主君の娘は嫁に貰うというのであるから、なかなか将来を見込まれていたと思われる。
利三は後妻との間に、2男1女を生んだ。末の女の子は「お福」の名付けられ、後に有名となる。
此れも後程、お話したい。
利三が仕えた稲葉一鉄は、後に主君の斎藤義龍と関係が悪化。
他に西美濃三人衆と呼ばれた「安藤守就・氏家卜全」と供に、斎藤家を離脱。
当時日の出の勢いであった尾張国、織田信長に寝返る。
織田家に寝返る際、当時織田家で頭角を現した木下藤吉郎(後の羽柴秀吉、豊臣秀吉)の調略があったとされるが、定かでない。
兎も角、稲葉良通は信長に寝返った。
信長に寝返った良通と利三は、其の後関係が悪化。利三は良通の許を出奔する。
出奔後、先程述べた光秀の正室、利三の継室が姉妹関係であったのか、明智光秀に仕える。
光秀の許で、最終的に筆頭家老まで進む。
其の後の活躍は、主君光秀の出世に呼応するが如く、利三も出世した。
光秀が信長の命で、丹波・丹後平定。その功績として、丹波黒井城1万石の城主となる。
此処迄は、ほぼ順調な人生だったと云える。
しかしその後、利三の命運を分ける大事件が発生する。
光秀の家老、利三の運命を変えた「本能寺の変」
今迄ほぼ順調だった利三に転機が訪れた。云わずとしれた「本能寺の変」である。
本能寺の変の場合、利三は傍観者というよりも、当事者と云って差し支えなかろう。それ程、利三は重要な役を果たした。
その役割とは。
本能寺の変とは過去に何度語り尽くしてきた為、詳細は省く。
1582(天正10)年、家臣の明智光秀が、主君織田信長を京都にて急襲。信長を自害に追いやった出来事。
斉藤利三は、謀反の張本人光秀の筆頭家老であった。本来ならば主君の暴走を諫める立場にいた。
しかし光秀が謀反に及び、利三が諫めた形跡はなく、寧ろ光秀を唆したようにも思われる。
その理由は、光秀謀反の主な動機の一つにも挙げられている。
では、その理由とは。
前述した利三の妹が、土佐の長曾我部元親の正室だった事が理由に挙げられる。
本能寺の変の直前、信長が四国制覇を決断。信長の三男信孝・重臣丹羽長秀を中心として、難波に兵を結集。
当時四国を支配していた長曾我部家を討つ為、渡航寸前だった。
信長が急遽、四国攻めを決断した為、当時長曾我部との折衝に当たっていた明智光秀の面目は丸つぶれの状況。
当然利三も元親の許の妹を嫁がせており、微妙な立場にいた。
更に利三が、稲葉一鉄の許を出奔。
その後光秀に仕えた事を、主君信長から詰問されていた。
利三の不義に信長は光秀に利三の切腹を申し付けていたが、光秀が利三を庇った事実があった。
その為、利三は信長の事をあまり良く思っていなかったと推測される。
当時光秀と信長の関係は、冷え切りつつあった。
後世の作り話もあるだろうが、何か信長と光秀の関係はギクシャクした関係だった。
光秀は武田家戦勝祝いに訪れた家康の饗応役を突然解任され、急遽毛利攻めを敢行していた羽柴秀吉の援軍を命じられた。
その時、戦国時代の最大の事件が発生した。
一説に因れば、陰の黒幕が斉藤利三とする説も存在するが、此れも以前検証したが、甚だ無理がある。
詳細は省くが、光秀の家老の身であったが、いくらなんでも光秀を唆すまでの力はなかったと思う。
利三の当時の立場としては、光秀が謀反を考えた後、光秀が逡巡。
最後の決断で後押しが欲しい為、利三に相談。利三が光秀に最後の背中を押したと予測する。
何はともあれ、利三の主君光秀は「魔王」と呼ばれた織田信長を本能寺で襲い、自害させた。
本能寺の変後、利三の運命
明智光秀は本能寺で、見事に信長を討ち取った。
しかしその後、光秀の誤算が続く。
中国大返しを成功させた羽柴秀吉と、京の入り口の山崎にて決戦。光秀はあっけなく羽柴軍に敗れる。
明智軍は敗走後、利三は逃走。
逃走後、琵琶湖湖畔堅田で捕らえられ、処刑されている。首は本能寺で晒された。
父が謀反人となった為、息子二人は各地を放浪したと伝えられている。
末娘のお福は、福は母方の実家稲葉家に引取られ、稲葉重道の養女となる。
お福は成人するまで美濃の清水城で過ごしたと云われている。
父が有名な武将に仕えていた為、本能寺の変までは、おそらくお福は何不自由なく暮らしていたであろう。
しかしお福の人生は一変した。
処が、人生何が幸いするかわからない。
お福は母方の親戚に当たる三条西公国に養育された。これによりお福は、公家の嗜みである書道・歌道・香道等の教養を身につける事ができた。
この出来事が、後のお福に大きな影響を齎す。一言で言えば「芸は身を助ける」とでも謂おうか。
それは後のお福の章に説明したい。
斉藤福(春日局)
お福と云われてもピンとこない人が多いと思われる。後の「春日局」と云えば、分かると思う。
後の春日局は、斎藤利三の娘、つまりお福の事。
お福は徳川幕府成立後、3代将軍徳川家光の乳母となり、大奥の基を築き、将軍家で絶大な権力を誇った。
其処に行くまでに、お福の幼少からの歩みを見てみたい。
お福は1579(天正7)年に生まれる。本能寺の変の3年前である。
お福の父利三は当時、丹波黒井城1万石の城主だった。つまり城持ち武将の大切な娘として育った。
3年後、当時4歳のお福の人生を一遍させる出来事が発生する。
本能寺の変である。本能寺の変後、お福の生活は一変した。
本能寺の変後のお福
明智光秀の謀反に加担した家老の父利三は、捕縛され処刑される。お福は、反逆者の子として世間から後ろ指をさされる事になった。
お福は母於安と供に、比叡山に隠れ住んだと云われている。
その際、父利三と親交があった真如堂東陽院の僧長盛、画家海北友松などの庇護を受け暮らした。
其の後、於安の実家稲葉家に引き取られ、過ごした模様。
成人まで、美濃の清水城で過ごした。清水城で過ごす中、どうやら伯父の稲葉重通の養女となったと伝えられている。
お福、稲葉正成と婚姻
成人したお福は稲葉氏の縁者で、小早川秀秋の家臣である稲葉正成の継室となる。正成の前妻は病気で死去していた。
夫正成は、小早川の付け家老の立場だつた。同格として平岡頼勝がいる。
結婚時期は正確には分からないが、長男正勝が1597(慶長2)年に誕生している為、その1~2年前と思われる。当時17~18才だったのではなかろうか。
2年後、関ヶ原の戦いが発生する。
お福の夫正成は小早川秀秋の家老で前述した同格の平岡頼勝と供に、秀秋を東軍に寝返らせ、東軍を勝利に導く。
東軍勝利の暁、正成の主君秀秋は、備前・美作51万石の大封を得る。
関ヶ原後、正成と離縁。将軍家に仕える
関ヶ原後、東軍勝利の切っ掛けを作った秀秋は論功行賞で大封を貰ったが、二年後急逝する。
秀秋21才無嗣の為、御家断絶。正成は、浪人の身となった。
正成は美濃に戻り、谷口の里に閑居した。お福は家老夫人から、浪人夫人となった。
その後、福は正成と離縁する。この離縁には、理由があると思われる。
何故なら離縁後お福は、将軍家の乳母として登用される。経緯は不明。
福が時の将軍秀忠の子誕生に伴い、乳母として選出された為、協議離婚したと云われている。
お福、当時29才の出来事。
おそらく福が将軍家に仕える見返りと思われるが、正成はお福と離縁した3年後、越後高田藩松平忠昌の家臣として召し抱えられる。
最終的に糸魚川2万石を与えられている。
浪人の身を考えれば、破格の待遇である。やはり離縁したお福が将軍家に仕え、初めての誕生した男子の乳母に就任した事が大きい。
将軍家の長子は、後の将軍となるお方。当然乳母のお福は、絶大な権力と名誉を与えられた。
乳母になるきっかけは、当時お福が二番目の子を産んだばかりだった事。
昔は男子が誕生すれば、強い子に育って欲しいとの願いから、乳母の父が武勇に優れていた娘を選ぶ風習があった。
※位の高い家柄になれば成程、出産した実母は誕生した子には、直接乳を与えない習慣があった。
お福の父は、斎藤利三。
前述したが、お福は清水城に暮らしていた時、母方の親戚に当たる公家の三条西公国に養育された。
この素養が、将軍家乳母に選出される大きな決め手になった可能性が高い。
「芸は身を助ける」とのべたのは、此の事を指す。
更に元夫正成の関ヶ原での功績が挙げられる。
家老として秀秋を東軍に寝返らせた結果が大きいと推測される。
以上の条件が揃い、お福は間もなく誕生する将軍家の乳母として抜擢されたのではないかと推測する。
誕生した男子(1604年に誕生)は後の3代将軍徳川家光となり、お福の子正勝は将軍家の小姓として採用されている。
将軍家男子誕生を最も喜んだのは、当時まだ将軍職にあった徳川家康と云われている。
嫡男秀忠の正室、お江の方(お市の方の三女)は、此れまでの4人全て女子であった。
家康の喜びも一入であったと思われる。
春日の抜け参り
将軍家の乳母となったお福は、絶大な権力を誇った。後の徳川治世の裏組織と云われてた「大奥」の基礎を作った。
繰り返すが幼少の頃、公家の嗜みの書道・歌道・香道等の教養を身につけていたのが大きい。
大奥の教育係・目付の様な役目を果たした。
家光誕生後、絶大な権力を誇ったお福であるが、その力の大きさを示したエピソードが存在する。それを紹介したい。
将軍家に男子誕生後した二年後、新たに男子が生まれた。男子の名前は「国松」といった。
因みに初子の男子(後の家光)は、松平家の家督を継ぐべき人間としての代々の幼名「竹千代」と名づけられていた。
此の頃将軍職は既に2代将軍「秀忠」に禅譲され、初代将軍家康は「大御所」として駿府に隠居していた。
現将軍秀忠と正室お江は長子の竹千代より、容姿端麗な国松を寵愛した。
将軍秀忠も次第にお江に引きずられる形で、国松を次期将軍に据えようとした動きがあった。
※秀忠はお江が名門出身と年上と云う事もあり、恐妻家として知られていた。
此れに危機を感じたお福は、伊勢参りと称し大御所家康が住む駿府を訪ね、家康に事の次第を話し、家康に直訴した。
この出来事は、「春日の抜け参り」と云われている。1615年の話。
※当時はまだ、春日の尊称ではない。
事の次第を把握した家康は、駿府から江戸に赴く。
将軍秀忠とお江の面前で竹千代と国松を呼び、態と国松を冷遇して「長子相続の理」を諭したと云われている。
真相は明らかではないが、有名なエピソードとして語り継がれている。
お福の尽力の甲斐あり、1623年家光は3代将軍に就任する。
就任した家光は、武家諸法度の制定。参勤交代の確立。鎖国の完成などの政策をおこない、徳川幕府の実質的支配を確立した。
お福の名誉・権力が増したのは、言うまでもない。
子正勝は小姓から老中の取り立てられ、其の後小田原藩主となる。
お福、春日局の称号を得る
家光が将軍に就任した為、お福は「御乳母様」と呼ばれた。
お福が後に「春日局」と呼ばれるようになったのは、1629(寛永6)年の事。当時お福、50才であった。
春日の尊称は、朝廷から授かったモノ。この時期、朝廷と幕府の関係は悪化していた。
原因は以前皇位継承権の際、紹介した1627(寛永4)年に起こった「紫衣事件」が関係している。
紫衣事件の際、即位していた後水尾天皇は幕府の処遇にいかり、当てつけに退位を仄めかしていた。
お福は将軍の名代で天皇に拝謁する為、伊勢詣での際に上洛。
天皇に参内を願い出ていた。
因みに秀忠の8子和子は、幕府のごり押しで、無理やり後水尾天皇に入内させられていた。
その和子が生んだ子「興子内親王」が、後水尾天皇が退位後、即位した明正天皇。
幕府は融和の一環としてお福を将軍名代にし、妹和子に拝謁する目論見を立てた。
お福が天皇に拝謁する際、問題が生じた。
何故なら「無位無官」の身である者は、御所へ昇殿が許されなかった為。
朝廷は内心激怒したが将軍の名代の為、無碍にできず、お福の母方の三条西実条の猶妹(ゆうまい)の形をとり、「春日局」の称号を下賜する。
尚、3年後の1632(寛永9)年の再上洛の際、福は従二位の官位を賜る。
春日局死去
将軍家に奉公し、絶大な権力を誇った春日も、1643(寛永20)年、死去する。
享年64才の波瀾万丈の人生だった。
春日局は息子正勝に先立たれる。晩年、孫正則を養育した。
1635(寛永12)年、家光の命令で義理の曾孫、堀田正俊を養子に迎えた。
更に家光は春日局の死の直前、孫の正則の娘3才と養子の堀田正俊を婚約させ、子孫を盤石なものとさせた。
将軍家光としては、乳母に対する最大の報いだったのかもしれない。
稲葉正成
稲葉正成と云っても、イメージが思い浮かばない方もいるかもしれない。
本人には甚だ失礼だが、元春日局の夫と云えばイメージが湧くであろうか。
あまりにも元妻が有名すぎ、正成自身の影が薄れてしまったのかもしれない。私自身、そう思いながら正成を紹介したい。
稲葉正成は西美濃清水城城主、稲葉家の一族。
西美濃と云えば斎藤家がまだ美濃を統治していた時代、有名な3人衆がいた。
稲葉良通、安藤守就、氏家卜全の3人であるが、その3人の中の一人、稲葉良通(一鉄)の縁の者と云えば、分かり易いかもしれない。
正成は、良通の一族の一人だった。
良通はお没落しかけた美濃斉藤家を見限り、当時日の出の勢いであった尾張織田家に他の2人(安藤・氏家)供に寝返った。
その為、稲葉家は信長の配下となった。
正成は元服時すでに本能寺の変の後だった為、必然的に本能寺の変以後権力を継承した羽柴秀吉の配下となる。
初陣は1584年、「小牧・長久手の戦い」と云われている。
因みに本能寺の変当時、正成は12才。後に妻となるお福は4才。計算すれば、正成とお福は8才違いとなる。
お福の章でも明記したが、お福の母於安は良通の娘。良通の正室は、三条西実枝の娘。
その為、お福の父斉藤利三が謀反人の家臣として処刑された際、伯父の重通(良通の庶子長男)は姪のお福を引き取った。
お福は清水城で、母方の親戚に当たる三条西公国に養育された。その為お福は、京譲りの素養を身に着ける事ができた。
正成、お福と婚姻
正成はその後、秀吉の正室「おね:北の政所」の甥、小早川秀秋の付家老となる。
前述したが、同格で平岡頼勝がいた。
この時期どうやらお福は、正成と結婚したと伝えられている。正成には前妻がいたが、病死したらしい。
その後添えとして、一族のお福が選ばれた。
お福は当時の権力者太閤秀吉の義理の甥である、小早川秀秋の家老夫人となった。
結婚後の1597(慶長2)年、長子正勝を生んでいる。
お福が正勝を生んだ3年後、関ヶ原の戦いが勃発する。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いでは正成の主君秀秋は、当初西軍に属していた。
しかし叔母高台院(北の政所の事、秀吉の死後出家)の助言、家康の調略もあり、戦いの最中西軍を裏切り、東軍に勝ちを齎した。
秀秋の家老であった正成と平岡頼勝は、家康から直々に功を称された。主君秀秋は論功行賞の結果、備前・美作51万石の大封を貰った。
しかし秀秋はその2年後、急逝する。
裏切り後の他大名の中傷が気に障り、精神がふれた。気を紛らわす為の深酒が祟ったとも云われている。
21才であった秀秋には継嗣がなく、小早川家は御家断絶。改易となった。
家老であった正成は失職。浪人生活を送る羽目となる。
同じ家老であった平岡頼勝は秀秋と仲違い。一足先に小早川家を去っていた。一説では正成も、突然出奔したとも云われている。
関ヶ原以後の主君秀秋の堕落ぶりをみて、将来はないと思い、そうそうに見切りをつけたのかもしれない。
それとも秀秋の堕落ふりを諫め、勘気にふれ放逐となったのかもしれない。
何れにしても小早川家が改易となり、正成夫婦は浪人生活を余儀なくされた。
正成、浪人生活中、お福と離縁
正成は浪人となり、一族ゆかりの美濃谷口の里に戻り浪人生活を送っていた。
実は正成は稲葉家とは、血縁関係が薄かったと云われている。
正成は林政秀の次男として生まれ、稲葉重通の娘と婚姻。つまり正成は稲葉重通の婿養子、つまり婿殿だった。
前述したが、正成は正室つまり稲葉重通娘に先立たれ、稲葉の姓であったが、稲葉家では宙ぶらりんの状態だった。
その為、稲葉家の血縁であったお福が、正成の後添えに選ばれたとみた方が無難と思える。
実際正成とお福との間に生まれた子正勝の方が、結果的に父よりも出世している。
正勝が出世したのは、後に実母(お福)が後の将軍家光の乳母になったのも大いに関係はしているが。
兎も角、正成とお福の婚姻の背景には、この様な経緯があった。
正成は浪人生活中、何故かお福と離縁している。
一説では、たまたま将軍家の次期将軍秀忠の正室が懐妊。
乳母を募集した際、お福が募集に参加。結果、お福が採用されてと云われているが、此れは極端に可能性が低いと思われる。
何故ならその後の正成の処遇をみれば、なんとなく想像がつく。次期将軍正室懐妊時、お福は二子を出産したばかりだった。
その為、将軍家に目が留まったのではないかと思われる。
それとも夫が浪人中であった為、お福が将軍家に奉公している際、将軍家に見初められた可能性が高い。
つまり夫正成の再仕官の為の、バーター取引だったのでないかと推測する。
お福が将軍家に仕える事で、夫正成を幕府に引き立ててもらう算段だったのではないかと思われる。
その為の正成とお福の「協議離婚」ではないかと推測する。
一説では、正成とそりが合わず、離縁したとするものあるが。
兎にも角にもお福は乳母として、将軍家に仕える事になる。
正成、再仕官
お福と離縁した正成は後に家康に召し出され、以後は徳川氏の家臣として仕える。
家康としては、関ヶ原で勝たして貰った秀秋の元家老であり、元妻が次期将軍家を継ぐ孫の乳母と云う事もあり、何かしら正成を放っておけなかったのもあろう。
1607(慶長12)年、正成は美濃国内に1万石の領地を与えられ大名となった。
その後、家康の孫に当たる松平忠昌の家老に就任。清崎城主となった。
更に1618(元和4)年、越後糸魚川2万を与えられ、忠昌の附家老となった。
浪人生活を送っていた正成は、お福と離縁した後に異例の出世を遂げている。
関ヶ原以後、殆ど合戦らしきものもなき時代、不思議な昇進とも云える。
やはりこれは、お福の力が大きいと予測される。
お福の力なしでは正成も子正勝も、幕府内で出世する事など、覚束なかったであろう。
浪人としては、破格の待遇だった。
正成のその後
1624(寛永元)年、主君松平忠昌の越前移封に従わず、何故か出奔。再び浪人となる。
この時、正成既に54才。
前年には、お福が乳母を務めた子の家光が3代将軍に就任している。
この正成の行動も謎とされている。正成は無断出奔の責にて、子正勝の許で蟄居となる。
しかし再び1627(寛永4)年、大名として再び召し出され、下野真岡2万石を与えられる。
此れもやはり、将軍家に仕えていたお福の力添えがあり、将軍家の威光が働いたと思われる。
そして翌年の1628(寛永5)年、正成死去する。享年58才。
翌年、元妻お福は上洛。天皇家から「春日局」の名を下賜される。
正成としては、元妻が将軍家の乳母として大出世。心の何処かで、何かやりきれないものがあったのかもしれない。
晩年の奇行に、なにかそう感ずるものがある。
正勝の子孫は山城淀藩、外孫の堀田正盛(お福の孫)の子孫は、下総佐倉藩として明治維新まで生き残った。
最後に
この様に3人の人物を長々と紹介してきましたが、最後までお読み頂けましたでしょうか。
正直な処、途中どころか、最初から読むのを止めてしまった方が大半だと思います。
仮令最後まで読んでもなかなか関係が複雑で、一度読んでも御理解いただけないとおもいます。
私も把握するのに、かなりの時間を要しました。
時間がある際、所々を読んでいただければ幸いです。
処で3人と云いましたが、実は3人の中で最も重要なのはもうお分かりだと思いますが、お福「春日局」だと思います。
確かに「斉藤利三」も有名ですが、それ以上に娘のお福が有名になりました。
それはやはり将軍家に仕えたからだと思います。
以前も申し上げましたが、歴史というものは古今東西、生き残ったもの、強者によって創られるという事。
最後まで生き残った者が自分に都合よく、何とでも歴史を書き換える事が可能である事を強調したい。
それは否定できないと思う。
証拠として、将軍家にお福が仕えた後の稲葉家の扱われ方をみれば、一目瞭然。
お福が将軍家中で権力者でなければ、元夫正成・子正勝・その子孫の繁栄はあり得なかった。
お福の父斉藤利三も同じ。もしお福が出世しなければ、父利三は江戸時代では「石田三成・由井正雪」と並ぶ、大悪人と呼ばれていたかもしれない。
お福がいたからこそ、父利三の名が残ったとも云える。
もう一つ例を挙げれば、将軍家の長子相続の件。
2代目将軍秀忠が正室お江の意向を汲み、次男国松を次期将軍にしようとした。
お福は家康を担ぎだす為、お伊勢参りと称し、家康の隠居場駿府を訪ねた。
此れは「春日の抜け参り」と云われ、お福の忠誠心を示す美談として取り上げられている。
しかし少し考え方を変えれば決して美談ではなく、なかなか強かな行動とも云える。
何故なら、お福が乳母を務めた家光が将軍に就任できず、次男国松が将軍職を継いでいれば、お福を始め、お福の係累はどうなったであろうか。
おそらく直ぐにではないが、徐々に力を削がれ、やがて粛清されたと思われる。
現に家光が将軍職を継いだ後、家光は弟国松を処分。切腹に追い込んだ。
国松は成人後、祖父家康が隠居していた駿府100万石を継いでいた。
家光は実弟である忠長(幼名国松)にいろいろ難癖をつけ、挑発。忠長が怒り爆発した時、家光は忠長の不義を申し立て、改易と追いやったと云われている。
勿論家光本人の計画ではなかろう。
家光の計画というよりも、側近の土井利勝・松平信綱の案と思われる。
家光本人は、決して人間的資質が優れていたと伝えられていない。
確かに幕府の礎を固めた将軍の評価を得ているが、此れは前述した土井利勝・松平信綱の補佐が大きい。
その為、乳母であった春日局も、家光を将軍職に就かせる為には必死だったであろう。
私も、美談でも何でもないと思う。
こう考えれば分かり易い。ある企業で次期社長として長男を推す勢力。次男を推す勢力があったとする。
所謂後継者争いである。
対象を長男・次男にしなくても、副社長派・専務派、或いは専務派・常務派なんでもよい。
兎に角、次期社長を狙う、二つの勢力があったと考えればよい。
現社長は次男を可愛がり、次期社長に次男を据えようとしていた。
此れを憂いた長男派の側近が、前社長で現会長職(現社長の父)にあたる人物に現状を訴えた。
現会長は長男を推していた為、会長が次期社長問題を懸念して会社に乗り込み、現社長に対し、次期社長は長男にしろと命じたと同じ。
此れは何も、幕府の将軍相続問題に限った話ではない。
会社・一般家庭でも十分起こりえる出来事と云える。
そう考えれば、今も昔も人間の考える事は、左程変わりがないのかもしれない。
そう思いながら、今回のブログを綴ってみた。
(文中敬称略)