動物版 勧善懲悪もの? 芥川龍之介『白』

★芥川龍之介短編小説シリーズ

 

・題名    『白』

・新潮社   新潮文庫  

・昭和    43年11月発行

・発表    大正12年8月『女性改造』

 

登場人物

◆白

ごく一般家庭で飼われた、飼い犬。ある時急に、犬の毛が白から黒に変わる。色が変わった事で、飼い主一家から見捨てられ、全国を放浪する。

 

◆白の飼い主:お嬢さん

白の飼い主一家の娘。或る日飼い犬の白の毛が黒に変わり、飼い犬の白と分からず、白を家から追い出す。

 

◆白の飼い主:坊ちゃん(春夫)

同じく、白の飼い主一家の息子。姉と同じく、黒色に変わった白が分からず、白を家から追い出す。

 

あらすじ

飼い犬「白」は、ごくありふれた平凡な家庭で飼われた犬だった。或る春の日の午後、いつも通り静かな街中の道をぶらぶら歩いていた。

ある角を回った時、白は思わず立ち止まった。目の前に、犬殺しがいた。犬殺しは黒い犬に罠をしかけ、捉える寸前だった。

 

現場を目撃した白は思わず黒犬を助ける為、吠えようとした。

吠えようとした瞬間、犬殺しが此方(白)に気づき、白を威嚇した。

 

威嚇された白は思わず立ち竦み、黒犬が犬殺しに狙われているのを見過ごした。見過ごした黒犬は、隣の家の飼い犬で、白とは顔馴染みだった。

白は臆病風に吹かれ、その場を立ち去った。遠くで黒犬の鳴き声が聞こえた。

 

一目散に逃げた白は、飼い主の家に戻った。家に戻ったのはよいが、飼い主一家の様子が何やら何時もとは違う。

どうやら白毛が黒毛に代わり、飼い主の娘と息子は白と気づかない様子。あろうことか白を野良犬と勘違いして男の子は、白を棒で追い回す有様。

白はたまらず、家を飛び出す。白は今日から宿無しの野良犬となってしまった。

 

野良犬になった白は考えた。此れは臆病風に吹かれ、黒を助けなかった報いであると。そう思った白は全国を放浪。自分の勇気を絞り、善行を尽くした。

 

善行を尽くした末、身も心も疲れ果て白は懐かしさのあまり、元の飼い主の家に戻ってきた。

家に戻った白は元の飼い主から、家出してきた白が戻ってきたと歓迎された。

何故か黒毛から、また元の白毛に戻ったのである。白毛に戻った為、漸く元の飼い主の娘と息子が白と認識できた。

3人?の心に、以前のような安らぎが戻った。

 

 
犬殺しとは
犬殺しとは、野犬の害から人を守る為、捕獲を行った人の事。昔は狂犬病予防の為、存在した。

 

要点

昔子供向け絵本・アニメなどによく見られた、「勧善懲悪」ものと言えば良いであろうか。

犬殺しに殺されかけた馴染みの黒犬を、自分の勇気の無さで見捨てた罰として、白は見捨てた黒犬のように毛の色が変わってしまう。

まるで殺された黒の生き代わりのように。その為優しい飼い主であった家族が自分に冷たくなり、家を追い出されてしまう。

 

白は途方に暮れ、絶望する。絶望する中、此れは偏に自分の犯した卑怯さに対する罰と受けとめ、白は全国を放浪しながら、勇気をふるい善行を尽くす。

或る秋の夜、善行を尽くし、身も心もボロボロになった白は、懐かしさのあまり嘗ての飼い主の許に戻った。

家に戻った時、今迄の善行が功を奏したのか。黒色だった犬の毛が白に戻る。

嘗ての飼い主だったお嬢さんと坊ちゃんは、舞い戻ってきた犬を漸く白と認め、元の鞘に収まるという話。

 

内容を眺めれば、卑怯ものだった白が勇気を絞り善行を尽くす事で、元の白に戻れたと言える。

確かに勧善懲悪であるが、同時に飼い犬の毛が白から黒に変わった事で、自分の飼い犬と判断できない飼い主をも、作者は僅かではあるが皮肉っているようにも見える。

 

人間やはり、ぱっと見で物事を判断してしまう事が多い。勿論私も然り。

物語は勧善懲悪ものではあるが、もう一方では、見た目に騙され易い人間の愚かを描いている様にも思える。

そう考えてみれば以前紹介した、 フランツ=カフカの作品『変身』も同じかもしれない。

 

カフカの『変身』は、主人公が或る日の朝起きると、人間の姿から得体のしれない害虫に変化していた。

主人公が害虫に変化した為、家族から疎まれ、やがて息絶えて死んでいく。そんな内容の作品を改めて思い出した。

 

芥川の作品が発表されたのが、1923(大正12)年。

カフカ作『変身』は、発表されたのが、1912年の為、大正元年となる。

カフカが15年以上前の作品という事を考慮すれば、芥川はカフカの作品が頭の片隅にあったのかもしれない。

そんな思いがする作品だった。

 

臆病風に吹かれた白の行為も、分からなくもない。子供の頃、一度や二度私を含め、皆様にもご経験があるかと思われる。

例えば、同じ仲良しグループがいて、ある時メンバーの誰かを、メンバーで仲間外れにしようと企む。

自分は仲間外れにしようとする意思はないが、皆が対象となった人物を仲間外れにする為、自分が同じく仲間外れにされたくない為、渋々皆に従うような経験がなかったであろうか。

 

それと似たようなものではないだろうか。自分の本意ではないが、周りに迎合。

自己保身の為、他人を見捨てる行為。

今回の白も同じ。自分が犬殺しから助かりたい為、知り合いの黒犬を犠牲にした。

 

確かにその場は一時凌ぎになるが、その卑怯な行為は後々まで心の片隅に滓となり残り、何かの拍子に時々、顔の覗かせる。

思い出す度、いつも罪悪感に似た感情に悩まされる事はないだろうか。

思い起こせば、私もしばし体験する。

 

此れは別に子供だけに限らない。大人になっても同じ。

会社などの組織にも、しばしみられる事象。そう考えれば、何か心当たりがあるのではないでしょうか。

私も社会人になり、何度も経験した。

 

何度経験するも、やはり後々に思い出せば、何か後味の悪い、苦い思いをする事が多い。

それはやはり、前述した「我身の可愛さあまり、他人を見捨てた」と言えるだろうか。

 

文中の作者の言葉を引用すれば、

白はもう命の助かりたさに夢中になっているのかも知れません。

この言葉がまさしく、正鵠を得ている。

 

しかし罪悪感ばかり苛まれても仕方がない。一方では、こんな考えもある。

それは以前紹介したギリシャの寓話、『カルネアデスの舟板』。

カルネアデスの舟板は今更説明するまでもないが、緊急の一時避難であれば、その行為は決して罪に問われないという話。

 

果たして世の中、何方が正しいとは、一概には言えない。

その時により、良いも悪くもなる。決して正解はない。

 

だからこそ世の中は不合理であると。

「カルネアデスの舟板」を題材にした松本清張の作品の最後に、同じ事が書かれてある。引用すれば、

 

「どうせ現代は、不条理の絡み合いである」

 

改めて此の言葉の深さが、身に染みた。

 

追記

不思議と芥川龍之介作品には、犬が登場する事が多い。以前紹介した『犬と笛』『鼻』などの中に、犬が登場している。

『犬と笛』に関しては、登場する人間よりも寧ろ、3匹の犬が主人公にも思われる。

『鼻』にでは、寺の小僧が棒で犬を追い回す際、登場している。

作者は何か犬に対し、深い思い入れがあったのだろうか。こう考えれば芥川の作品には、生き物が登場する事が多いと気づいた。

 

『河童』『蜘蛛の糸』『杜子春』なども然り。

様々な生き物が登場するが、その生き物は実は人間の投影ではないかと思われた。

登場する生き物(動物)は、現実社会で存在する様々な人間を擬人化したものだと漸く気づいた。

 

そう考えて改めて作品を見つめれば、又違った趣が感じられるのかもしれない。

それは時を経ても決して変わる事はない。時代を超越するとでもいえば良いであろうか。

それが又名作と云える所以であろうか。

 

(文中敬称略)