人が不幸な境遇から脱した時、相反する心情 芥川龍之介『鼻』
★芥川龍之介 短編小説シリーズ
・題名 『鼻』
・新潮社 新潮文庫
・発行 昭和43年7月
・発表 大正 5年1月
・原作 今昔物語及び、宇治拾遺物語
目次
登場人物
◆禅智内供
宮中にて仏門に仕える僧の役職。名前ではない。小説に登場する僧は、鼻の長いのが特徴。
長い鼻の故、僧は長年悩んでいた。
◆禅智内供の弟子
文字通り、内供の弟子。内供が食事の際、手助け等をする。
内供が長い鼻を気にしているのを知り、内供の力となる。
◆中童子
寺に仕える腕白小僧。時々禅智内供の弟子に代わり、禅智内供の食事の手伝いをする。
あらすじ
禅智内供は、長い鼻の持ち主だった。小説では、5寸から6寸と書かれてある。
1寸が約3cmとすれば、計算すれば約15cm~18cmか。
それにしても、途轍もなく長い鼻と思われる。
禅智内供は密かに、鼻の長いのを気にしていた。
気にはしていたが、その事を他の人間に悟られまいとし、他人の前では無関心を装っていた。
しかし禅智内供はどうしても自分の鼻が気になった。
巷の噂で中国から渡来した僧がいて、長い鼻を短くする治療法をしっていると聞きつけた。
内供はどうしてもその方法が知りたいと思った。
弟子に中国から渡来した僧から治療法を何とか聞き出すよう、唆した。
弟子は内供の心情を悟り、気の毒に思い、渡来僧から治療法を聞いてきた。
内供は弟子の話を聞き、早速試してみる事にした。
弟子の治療法は内供にとり、甚だ屈辱的ではあった。
しかし内供は今迄の思いに比べれば、何ともないと自分に言い聞かせ我慢した。
我慢の甲斐あり、内供の鼻は短くなった。
短くなった鼻の内供は、もう他人に馬鹿にされる事はないと思い、得意満面だった。
処が内供の意に反し、他人は鼻が長かった時より更に内供を馬鹿にした。
内供は初め他人が何故、短くなった鼻の自分を笑いものにするのか理解に苦しんだ。
理解に苦悩したが、内供は考えた末、ある考えに行き着いた。
他人は人が不幸な時は、同情する。
と自覚した。
不幸だったからこそ同情したが、他人は不幸でなくなれば同情しない。
醜いが他人が不幸だからこそ、自分はましと優越感に浸り、幸せが実感できた。
内供は急に自分の鼻が短くなった事を呪った。
そして嘗て鼻が長かった自分を懐かしむ思いさえ感じた。
その事が分かったからであろうか。
ある寒い夜が明けた朝、内供が起きてみると内供の鼻は以前のように元通りの長い鼻に戻つた。
その時内供は、心の中で安らぎを感じた。
要点
人間には矛盾した感情が心に宿っている。本文中の芥川の言葉を借りれば
人間の心には互いに矛盾したに二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこつちで何となく物足りなりない心もちがする。
更には
少し誇張して云へば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいやうな気ににさえなる。さうして何時の間にか、消極的ではあるが、或敵意をその人に対して抱くやうな事になる。
※芥川龍之介『鼻』原文引用
作者が今回の述べたい点は、上記に尽きると思う。
認めたくはないが、人間誰しも心の中に持ち合わせている感情。
それは多分に漏れず、私も同じ。否定はしない。
もし否定する人間がいるとすれば、それは偽善者に過ぎない。
今回登場する人物とその周囲の人間は、苟も仏に仕える身。
内供が勤める職場?は宮中(御所)であり、決して卑しき身分の人間でなく、それ相応の人間が多いと思われる。
その人間達ですら、その様な態度をとる。他の低い身の人間であれば、猶更であろう。
更に芥川は内供が、「他人の傍観者的利己主義」に気付いたとも述べている。
それを最も端的に示した人間が、内供の弟子。
内供の弟子は鼻を気にしていた内供の心情を察し、治療法を聞きにいく。
治療まで施した。
其処迄は善かったが、其の後内供の鼻が短くなった為、逆に内供を軽蔑。
馬鹿にし始めた。
実は内供の弟子が、その他大勢の人間の感情を最も端的に表している。
もう一つ芥川は、人間の醜い心情を鋭く描いている。
内供の場合は、「鼻」。
内供は仏に仕える身分で世間に対し、「そんな俗世間の事など、気にしていない」と言う態度を殊更強調していた。
本文では、「鼻を気にしているのを、他人に知られるのが嫌だった」と述べている。
又「他人との会話で、鼻と言う言葉が出る事を恐れた」とも述べている。
上記の心情を纏める形で
と作中で記されている。
内供は、コンプレックスを克服する為、色々な方法を試みた。
やがて中国から渡来した或る僧が、鼻を短くする治療法を知っていると聞きつけた。
本当は自分が直接聞きたいが、体裁が悪い。
その為、自分の弟子を唆し、弟子に治療法を聞きに行かせた。
自ら聞きに行けば、プライドが邪魔をして、何か憚れる。
その為、自分の弟子を唆し、何気に渡来僧に治療法を聞きに行かせるのが愉快。
弟子の僧も、内供の心情を察し内供を気の毒と思い(今で言う、忖度)、渡来僧に治療法を聞きにいった。
治療法を聞いた弟子の僧が、内供に治療を施す。
奇妙な治療だったが内供は、自分の鼻を短くする為と云い聞かせ、必死に堪えた。
その描写が何とも滑稽に見える。
内供は弟子のおかしな治療に耐え乍、何か自分の鼻に対し物体の様に扱う弟子の僧に、一抹の反感を覚えている。
人間とは誠に、感情的で不可思議な生き物。
作者はおかしな治療を、さも重要な治療として描く事で、内供のコンプレックスを滑稽に描きたかったのかもしれない。
笑っているが私を含め、皆さまにも御経験があるのではなかろうか。
追記
今回の芥川の作品に関し具体的な例を挙げれば、何かカツラを被った時の状況に似ている。
今迄髪が薄いと認識していた人物が或る日、カツラを被った状況を想像すれば理解しやすい。
本人も他人も、その人物がカツラを被っていることを十分認識している。
認識はしているが、本人も他人も敢えてその事に触れないし、又触れようともしない。
それと同じであろうか。
互いカツラと知り乍も、決して話題に触れないのが、面白いとでもいうのか。
態と知らないふりをする事の、辛さと滑稽さ。
皆様も御経験があるかと思われる。
何もカツラに限らず、似たような事象があるのではないだろうか。
しかし人間の感情とは又、複雑なもの。カツラとは逆に、好印象をもつ場合もある。
それは自分が対象となる人間に対し、好意をもっている場合。
例えば自分が好意をもつ異性が或る日、今迄と違う風貌をした時。
譬えるなら、気になる異性が髪型を変えた時、今迄眼鏡を掛けていたが、コンタクトに変えた時など。
今迄、自分の心の中で異性に対し好感度が高かったが、更に好感度が増す時が多い。
此れはカツラとは全く逆の感情。
何故であろうか?
それはやはりその異性に対し、「好意を持っていた」からに他ならない。
それを気にして振り回されるのも、又人間の性と云えるかもしれない。
(一部敬称略)