秀吉の二大軍師、もう一人は半兵衛『竹中半兵衛』
群雄割拠する戦国時代、天下統一を果たした豊臣(羽柴)秀吉。
彼の功績は今更語るに及ばないが、秀吉の功績を陰で支えた家臣がいた。
その家臣は主に智謀をもって君子に仕え、「軍師」と呼ばれた。
優れた英雄の傍には必ず、知恵を武器に主君を盛り立た家臣がいた。
秀吉も多分に漏れず、優れた軍師が二人存在した。
一人は、以前紹介した「黒田官兵衛」。もう一人は「竹中半兵衛」。
二の名前を捩り、「両兵衛」と言われた。
今回は半兵衛と呼ばれた、竹中半兵衛を紹介したい。
目次
経歴
・名前 竹中重虎、竹中重治、竹中半兵衛
・生涯 1544年(生)~1579年(没)
・主君 斎藤義龍→浅井長政→ 羽柴秀吉
・家柄 竹中氏(美濃国大野郡大御堂城出身、現在の岐阜県揖斐郡大野町)
・親族 竹中重元(父)、竹中重門(子)
・官位 不明
美濃斎藤氏に臣従
半兵衛(重治)は1544年、美濃国大野郡大御堂城主・竹中重元の子として生まれる。
幼名は重虎。父は美濃国を治める斎藤氏に仕えた。
重虎が生まれた頃美濃は、マムシと云われた「斎藤道三」が隠居。
義龍が家督を相続していた。その後、義龍と道三が対立。
斎藤家は、御家騒動となる。
意外にも重元は、敗れた道三に味方している。
道三との戦いで、義龍は道三勢力を一掃。美濃を完全に掌握する。
父重元が1562年に死去するに伴い、重虎は家督を相続している。
その後、どういう経緯かは知らないが、道三に勝利した義龍に仕えている。
この頃には1560年、桶狭間にて今川義元を奇襲で破り、勢いを増してきた尾張の織田信長の美濃侵攻が盛んになる。
しかし道三を滅ぼした義龍も、なかなか優秀な主君だった。
その為、信長の美濃攻めは困難を極めた。度々、信長の侵攻を防いだと言われている。
処が、なかなかの名君と云われた義龍が死去。若い義興が家督を継いだ。
若い義興には、当然の如く美濃を治める力はない。
当然、斎藤家の家臣間に動揺が走った。
半兵衛、一時稲葉山城を占拠
この時期、如何に斎藤家の家臣が揺れていたのかを示す半兵衛のエピソードが残されている。
半兵衛は或る日、稲葉山城に出仕した。
その時、半兵衛の頭上から何やら水のようなモノが流れてきた。流れてきたのは、雨ではなく人の小便だった。
半兵衛は当時の武士としては、優男のような風貌をしていたらしい。
斎藤家の家臣団が揶揄い半分で、上から半兵衛に小便をかけたのである。
その時半兵衛は我慢して、何食わぬ顔をして過ぎた。
その後半兵衛は正室の父(舅)であった安藤守就と供に、僅か数名で半年ほど稲葉山城を占拠。
主君である義興を、一時城から追放した。1564年の頃。
半兵衛としては城を占拠するつもりはサラサラなく、ただ主君の戒めの為とされている。
しかし僅か数名で半年間も城を占拠されていたと言う事は、如何にこの時期斎藤家の家臣が緩んでいたと思われる。
半年城を占拠した後、半兵衛は城を放棄。隠遁生活を送る。
隠遁生活
半兵衛は美濃での隠遁生活の3年後の1567年、織田信長が美濃に侵攻。
稲葉山城を攻略、斎藤氏は滅亡した。
西美濃三人衆と云われた稲葉良通(一鉄)、氏家卜全(直元)、そして先程の安藤守就はとうに義興を見限り、新興勢力の信長に就いた。
斎藤家滅亡を目のあたりにした半兵衛は美濃を離れ、一時期北近江の浅井長政の食客になったと言われている。
しかし北近江の生活も長く続かず、再び美濃に戻ったとされている。
秀吉との出会い
半兵衛は僅かばかりの期間、長政の北近江にいたが、再び美濃に戻り隠遁生活を続けていた。
当時信長の家臣で、めきめき頭角を現していた羽柴秀吉が半兵衛の噂を聞きつけた。
是非家臣にしたいと思い、半兵衛の隠遁場を訪ねてきた。
しかし半兵衛は幾ら隠遁した身とはいえ、旧主君斎藤家を滅ぼした信長の家臣となる事を拒み、秀吉との面会を拒否した。
拒否された秀吉は三度半兵衛の宅を訪ねた。
漸く半兵衛を説き伏せ、家臣となる事を決意させたと伝えられているが、此れは後世の作り話と思われる。
中国の三国時代、蜀の劉備玄徳が当時まだ新野で荊州の太守劉表の食客であった時、隠遁していた諸葛亮孔明の話を聞き、その寓居を3度訪ね、漸く家臣とする事ができたエピソードを捩ったものであろう。
俗に「三顧の礼を尽くす」と云われている。
権力者となった暁に、此のような作り話の類は多い。
秀吉の場合、特に下層階級からのし上がった為、箔をつける意味もあり、話を盛ったと思われる。
「墨俣の一夜城」も同じ。
何はともあれ、かくして竹中半兵衛は当時日の出の勢いにあった、秀吉の家臣となる。
秀吉と供に、各地を転戦
秀吉の家臣となった半兵衛は秀吉と伴い、各地と転戦した。
詳しい記録は、あまり残されていない。
秀吉が中国方面の軍団長に指名されるまでの間、1570年姉川の戦い、1570年叡山焼き討ち。
1573年、浅井・朝倉家滅亡の折、秀吉に従軍したと思われる。
意外に秀吉の軍師でありながら、あまり半兵衛に関する資料が少ない。
後の大軍師、黒田官兵衛の台頭もあり、竹中半兵衛の功績が隠されたのかもしれない。
子重門は半兵衛の死後、家督を相続。1631年の死により、天寿を全うする。
関ヶ原後も生き抜いた武将であるが、やはり官兵衛・長政親子に比べれば、格下と思われたのかもしれない。
秀吉が中国方面の攻略の際、官兵衛が台頭してくるが、それまでの秀吉の活躍は知恵袋であった半兵衛の功績による処が多いと思われる。
繰り返すが、それだけあまり記録が残されていなく、逸話の類が多いのも半兵衛の特徴かもしれない。
半兵衛のもう一つ有名なエピソードとして半兵衛・重門の話が有名。
半兵衛・重門親子に纏わるエピソード
半兵衛と子重門の有名な逸話が残されている為、紹介したい。
或る日半兵衛は、子重門に戦について話をしていた。
話の途中、重門が中座した。
戻ってきた重門に対し半兵衛は、重門に厳しく詰問した。
何故、話の途中に席をたったのかと。
息子の重門が答える。小水の為、中座したと。
その答えを聞いた半兵衛は、即座に重門と罵倒した。
と窘めたと言い伝えられている。
此れも後々の、創作と思われる。しかし半兵衛の性格を示すものとして、格好の逸話かもしれない。
秀吉、中国方面の軍団長となる
秀吉は上杉攻略の為、北陸方面の軍団長、柴田勝家の指揮下にあった。
しかし秀吉は勝家とそりがあわず、勝手に戦線を離脱。
離脱後、信長から謹慎処分を受けていた。
本来、信長の性格であれば、即座に秀吉は打ち首になったに違いない。
しかし秀吉の才能・性格を信長が高く買い、秀吉を赦免。
信長は中国の雄「毛利」を攻める為、秀吉を軍団長に指名した。
秀吉は中国方面に転戦となった。秀吉に従い、半兵衛も中国戦線に赴いた。
半兵衛は播磨の宇喜多氏の支城、八幡山城の調略に成功。秀吉の中国方面攻略は順調にいくかと思われた。
1575年、秀吉の中国攻めの際、もう一人の軍師、黒田官兵衛が秀吉の幕下に加わる。
まさに「両兵衛」が誕生した瞬間だった。
三木城、別所長治の反乱
しかし1578年、一度は信長に臣従を誓った三木城の別所長治が周囲の土豪を巻き込み、信長に反旗を翻した。
更に摂津国有岡城の荒木村重も、信長に反旗を翻した。
前後に敵を構える形となる秀吉軍は、荒木村重を説得する為、官兵衛を派遣する。
しかし官兵衛は逆に捕らえられ、土牢に閉じ込められた。
官兵衛がなかなか戻らないのに業を煮やした信長は、官兵衛が寝返ったと思い、人質の松寿丸の処罰を秀吉に命じた。
秀吉は官兵衛が裏切る事はないと分かりながらも、信長の命に逆らう事ができず、命令に従う振りをして全く違う子を処罰。
首実験に差し出した。
官兵衛の子松寿丸は、密かに匿われた。官兵衛の無実が証明された後、無事解放された。
官兵衛が秀吉に感謝したのは云うまでもない。
信長も早とちり故、危うく松寿丸を処分してしまう処だった。
もし処分されていたら、後の黒田長政は誕生せず、関ヶ原の行方も違った結果になったかもしれない。
半兵衛、陣中にて没す
1579年、秀吉軍三木城攻略の最中、半兵衛は病気に罹り、そのまま病死する。
享年35歳。当時としても若すぎる死かもしれない。
因って半兵衛は高松城水攻め。本能寺の変以後、山崎の戦いに参加していない。
勿論九州征伐、小田原攻城も参加しておらず、秀吉が天下と統一した事など、知らないまま亡くなった。
前述した子重門は、目出度く天寿を全う。徳川の治世を見届け、1631年まで生き延びた。
もし半兵衛が生きていたとしても、きっと同じ運命を辿ったであろう。
子孫は幕府の旗本となり、将軍家に仕えた。
庶子の一人は、縁があったのか福岡の黒田藩に仕えている。
秀吉に仕え僅か10年程であったが、半兵衛の残した功績は大きい。
それは半兵衛が秀吉に仕えてから、秀吉の出世ぶりを見ても、明らかであろう。
本章とはあまり関係ないが、本日は期しくも、5月5日の端午の節句(子供の日)。
私が子供の頃、強い子に育って欲しいと、鎧兜の人形を床の間などに飾り、庭には鯉のぼりを上げたものだった。
時代は流れ、今では価値観、住宅事情も異なり、五月人形・鯉のぼりなどはめっきり見かけなくなった。
何か日本独特の文化が見られなくなったのが、少し淋しい気もする。
しかし人間、食に関しては衰えないのか、粽の習慣だけは不思議と続いている。
4月の花見は、団子。5月の節句には、粽。当に日本の伝統文化と云えるかもしれない。
(文中敬称略)