隠密の伊賀者 『服部半蔵』

今回は伊賀者の忍び、『服部半蔵』にスポットを当ててみたいと思う。

昔の漫画、藤子不二雄氏の作品『ハットリ君』のイメージが強いかもしれない。

 

・名前    服部半蔵(正成)

・生涯    1542年(生)~1596年(没)

・主君    松平清康→松平広忠→ 松平元康(徳川家康)  

・家柄    服部氏(伊賀国阿部郡服部郷の服部氏の一族か?)

・官位    不明

 

経歴

今迄の大名・武将の紹介であれば、経歴を華々しく書き込むが、今回の人物は記録等を見渡す限り、それほど華々しい業績・活躍が伺える訳ではない。

何故なら、今回の人物は隠密、つまり秘密行動を主とする忍者(忍び)と呼ばれる人物の為。

忍びは主に、人知れず自分が仕える主人の為に行動するのが任務。

 

当然秘密を第一とする為、記録など残る筈がない。残る仕事をすれば、逆にそれはヘマをした時。

仕事に失敗した時こそ、記録に残り、仕事に成功した時、当然記録に残らない。

記録に残らない仕事をする事が、優秀な隠密と言える。

 

数少ない記録の中から、服部半蔵の生涯を眺めてみたい。

 

出生

服部半蔵は1542(天文11)年、岡崎城主「松平清康」「松平広忠」に仕えていた半三保長の第五子として生まれた。

尚、先祖は伊賀国阿拝郡服部郷を支配していた、服部氏の一族を云われている。

何故三河国の松平家に仕える事になったのかは不明。

 

只松平家は三河国というあまり肥沃でない土地の為、戦国の世を生き抜く為に情報を重視した模様。

情報を活用する為、隠密を主とする伊賀者(忍者)を召し抱えていたのではないかと言われている。

 

服部家が仕えていた当時の松平家は、清康が織田家との合戦の際、織田家家臣の太刀を浴び死去。享年25歳と言われている。

父清康が死んだ際、子の広忠は僅か、10歳だった。10歳の広忠に三河国を治め力など、ある筈がない。

当然の事ながら、松平家家臣間で争いが起こる。

 

結局、隣国の大国である今川義元(駿河・遠江)に執り成しという形の、介入を認めてしまう。

此れが松平家が後まで、今川家の属国扱いの原因となる。

 

今川家の介在を許した為、人質として竹千代(後の松平元康)を駿河に送る羽目となる。

どうやらこの時、一緒に従属人として駿河に下ったのが、歳も近かった服部半蔵ではないかと言われている。

 

半蔵は家康の一歳年上。丁度、遊び相手として良い年頃。

互いに幼少期に人質生活を送りながら、君臣の信頼関係を深めたと言われている。

 

家康・半蔵、そして三河国にとり不幸な事は、父広忠が清康と同じく享年24歳にて、早世。

一説では、家臣による暗殺とも言われている。

 

兎にも角にも、先祖二代続けて当主が早世。元康(家康)も僅か7歳にて、父広忠を亡くす。

当然三河国を治める力などなく、三河国はそのまま当時「東海一の弓取り」と言われた、「今川義元」の属国として編入される。

 

家康の独立

東海一の弓取りと言われた今川義元は1560(永禄3)年、兵約2万5千に大軍を従え、上洛の途に就く。

その先遣隊として属国であった三河国の世継ぎ、「松平元康」が選ばれた。松平元康とは、後の徳川家康の事。

元康は今川家での人質生活を経て、18歳の青年武士として成長していた。

 

今川義元の仲介で、今川家家臣の娘(築山殿)との結婚、子(後の信康)も誕生していた。

その為、三河国の太守の名目であったが、実質義元の配下の一武将扱いだった。

 

義元は上洛を目指したが、桶狭間にて織田信長の奇襲に逢い、あっけなく討たれる。

これは過去何度もブログで紹介している為、今回は詳細を省く。

 

義元が討たれた事で、今川軍は壊滅。今川軍は本国にそれぞれ、雪崩をうって敗走した。

家康の許に、義元討死の報が届く。家康は初めは義元の死を聞き、一時は切腹を決意する。

 

しかし岡崎城に近い大樹寺の「住職登誉天室」に諭され、切腹を思いとどまる。

其の後家康は、義元の家臣が見捨て空になった岡崎城に入城。そのまま、独立の意思を固める。

これが家康と半蔵が、歴史の表舞台に躍り出た瞬間と言える。

 

其の後の半蔵

家康が独立後、半蔵は伊賀者同心を集め各国の情報探索。敵国の内部攪乱、破壊工作などに従事していたと言われている。

平時は忍者の特殊技術を利用して、土木工事・測量・河川工事・架橋修理・道路敷設等に活躍した。

 

勿論合戦の際は、陣頭指揮をとり奮闘した。

通称:鬼半蔵。手裏剣などの忍者特融の武器などを駆使して、奮闘していたのであろうか。

暫し言われるのが、敵の大将・有力武将等の暗殺等。

 

謀略を得意とした家康の事、さぞかし半蔵ら忍び集団を駆使して、己の目的に利用したと思われる。

しかしこれも前述した通り、記録には残らない為、はっきりした事は言えない。

 

半蔵、最大の活躍

半蔵が記録に残る大活躍をみせたのは、やはり本能寺の変(1582年)にて主君家康の「伊賀越え」であろう。

伊賀越えは、唯一と言っても良い程、忍びを任務とした半蔵の輝かしい記録。記録に残ったのも、後に家康が天下を獲った為とも云える。

 

天下を獲らなければ、やはり他と同様、歴史の闇に埋もれていたと思われる。

では半蔵の輝かしい記録、「伊賀越え」を見てみたい。

 

主君家康の伊賀越え

家康の伊賀越えは、以前のブログでも紹介している。重複するが、敢えて述べてみたい。

1582(天正10)年、一夜にして戦国の世を翻す事件が起きた。有名な「本能寺の変」である。

何度も述べている為、詳細は省くが、織田信長の家臣明智光秀が主君織田信長を本能寺に宿泊中、襲撃。

信長を抹殺した。

 

飛ぶ鳥を落とす勢いであった織田政権は、一夜にして崩壊した。

信長の横死後、信長の領土であった近畿地方は治安が悪化。家康と雖も、いつ土民から落ち武者狩りに遭うかわからない状態だった。

家康は同年春、長年の宿敵武田家を滅ぼした後、信長の本拠地安土に僅か数名の家臣を引きつれ、祝賀に赴いていた。

 

家康は安土にて信長の饗応をうけた後、数名の供と軽装で堺を遊覧中だった。

その時、本能寺の変が起きた。家康の周りには、本多忠勝、酒井忠次、服部半蔵、穴山梅雪らの数名しかいない状態。

 

家康一行は、堺を遊覧後、京都にいる信長の許を訪ねる予定だった。

先遣隊として本多忠勝を京に向かわせていた。

 

その途中、京から豪商茶屋四郎次郎が、本能寺の急報を告げに来た。

茶屋は先遣隊の忠勝と合流。本能寺の変と信長の死を忠勝に告げると、忠勝は仰天。

そのままもと来た道を引き返した。

 

引き返した後、再び家康と合流。家康に本能寺の変を告げる。

本能寺の変の報を聞いた家康は、もはやこれまでと観念。一時は切腹も考えた。

 

しかし周囲の者の諭され、切腹は思いとどまった。

そして皆と善後策を図った結果、京都に行くと見せかけ、伊賀国を越え伊勢に渡り、船にて本国三河に帰る計画を立てた。

 

半蔵は伊賀国出身である為、家康の先遣隊として働いた。

勿論路銀は、京とから本能寺の急報を告げた茶屋四郎次郎が用立てたと思われる。

これも商人の先行投資であろう。

 

半蔵は伊賀・甲賀を問わず、協力を求めた。

甲賀では有力者「多羅尾光俊」に協力を求めたとされている。

 

更にお斎峠に狼煙を上げ、伊賀者の協力を求めた。

伊賀・甲賀衆約300人程、協力したとされている。

家康は伊賀・甲賀の協力を得て、命からがら伊勢白子に辿りつき、船にて三河国に着いたとされる。

 

これが家康最大の危機と言われた、「伊賀越え」の全容とされている。

諸処に異論もあるが、凡そは間違いないと思われる。

 

因みに何故か途中で別行動をとった穴山梅雪は、京近くの宇治田原で土民に襲われ、落命している。

梅雪は元々、旧武田家家臣。武田滅亡の際、家康に寝返った輩。

ある意味、家康の囮(影武者)だったのかもしれない。

 

家康はこの時程、忍びの有難みを感じたのは間違いない。

家康は嘗て属国であった今川義元の領土、駿河・遠江を併呑。本能寺の変後、旧武田領甲斐も手に入れた。

 

信長亡き後、後継者となった羽柴秀吉に仕え、秀吉が小田原征伐後、秀吉に関東転封を命じられる。

家康は北条氏滅亡後の関東に転封後、多くの伊賀・甲賀の忍び衆を召し抱えた。

その動機はおそらく、伊賀越えの際に感じた、忍びの価値を高く評価したからに他ならない。

 

半蔵の死後

半蔵は家康が関東転封後、1596年で死去したとされている。死因は又もや、不明。

服部家では服部半蔵の活躍にあやかり、家督を相続した者には「服部半蔵」の名前が襲名されている。

つまり「何代目服部半蔵」という様に。言うなれば、歌舞伎の襲名の様なものであろうか。

 

半蔵の活躍で服部家は、代々徳川家を陰で支える役割を担う。その証左として今でも半蔵の名前は、現代でも残されている。

地下鉄の「半蔵門線」。これは旧江戸城(現皇居)の半蔵門にちなんだもの。

半蔵の業績にちなみ、江戸城を警護する意味で「半蔵門」と名付けられた。

 

半蔵門のもう一つの役割は、もし江戸城で何か変が起こった時、将軍家を逃がす為の通路とも云われている。

現在「甲州街道」と言われている「国号20号線」が存在する。此れは名前の通り、甲州つまり甲斐国に通じる道。

甲斐国は江戸時代、徳川家の直轄地だった。

 

江戸の将軍家に何かが起きれば、将軍家は甲斐国に逃げる算段だったと言われている。

その警護・お供をする役が、伊賀越えと同じく、服部家だったと言い伝えられている。

何か納得がいく話と思われた。

 

簡単に服部半蔵の活躍を見てきたが、感想としてはやはり、不明な点が多い。

繰り返すが、不明な点が多くて当然。それが隠密を任務とする、半蔵の優秀さの証明と云える。

伊賀越えも、家康が天下を獲った為、華々しく記録として残ったに過ぎない。

 

尚、冒頭でも述べたが、私にはやはり、幼少の頃見たアニメ「ハットリ君」のイメージが強い。

アニメのキャラは原作者「藤子不二雄」の意向が強いのか、忍者のイメージである、陰の隠密で負のイメージはない。

何か目がクリっとして、憎めない愛嬌のあるキャラとして描かれている。

時々ヘマもして、愛嬌のあるキャラとして描かれており、何か人間臭く、親しみがあったと記憶している。

 

何はともあれ服部半蔵に関しては、このまま永遠の謎のままで良いのではないかと思われる。そんな人物だと私は感じた。

 

(文中敬称略)