死亡推定時刻の僅かなズレ 松本清張『誤差』
★松本清張 短編小説シリーズ
・題名 『誤差』
・新潮社 新潮文庫
・昭和40年 7月発行 『駅路』内
目次
登場人物
◆大村青年
結核を患い、夏の初めから温泉地で湯治している、地方地主の小倅。
湯治場で、川田屋の女中ふみ江と懇ろになる。
◆ふみ江
温泉地、川田屋で働く女中。
夏の初め頃から湯治している大村青年と、男女の関係になる。
◆添島千鶴子
銀座でバーを経営するマダム。60歳過ぎの某鉄鋼会社重役の愛人。
温泉地の川田屋に宿泊。
3日程、一人で過ごした後、訪ねてきた男と同宿。
2日間、男と過ごす。3日目、部屋にて死体となり発見される。
◆竹田宗一
大手繊維会社の総務部長。添島千鶴子の愛人。川田屋で添島千鶴子と合流。
2日間、同女と過ごす。3日目、外出中に千鶴子が殺害される。
殺人容疑を掛けられるのを恐れ、その場から逃走する。
◆山岡刑事
川田屋で死体となり発見された、添島千鶴子の事件を担当する。
容疑者逮捕の為上京するが、一足違いで容疑者に自殺され、失意のまま地元署に戻る。
あらすじ
東海道本線から少し離れた場所に、鄙びた湯治地があった。
湯治地の川田屋旅館に、季節外れの上客(女性)が宿泊した。
宿泊客は明らかに、洗練された如何にも東京から来た雰囲気を匂わせていた。
その客は明らかに只一人の宿泊ではなく、誰かと落ち合う為、宿泊した様子。
客が宿泊した3日後、案の定、その女性の同伴者らしき男が現れた。
男が現れた後、先に宿泊していたお客(女)は、今迄の様子と一転。
いかにも男の到着を待ちわびていた様子だった。
男が到着して以来の2日間、先に宿泊していた女は、今迄の様相を翻すかのように、はしゃぎまわった。
そして3日目、男は駅の本屋で買い物をする為、外出した。男は外出後、旅館に戻った。
しかし旅館に戻って約40分後。男は仕事で外出しなければならないと旅館の者に告げ、旅館を後にした。
男が旅館を立ち去った後、連れの女が部屋で死んでいるのが発見された。
当然容疑は、立ち去った男に向けられた。
第一容疑者として、所轄の警察が捜査に当たった。
捜査の末、立ち去った男は東京に本社がある、大手の繊維会社の総務部長と判明した。
捜査の担当刑事は、早速東京に向かう。
被疑者逮捕に向かうが、一足違いで被疑者が自宅で、首つり自殺をはかった。
事件はそのまま、被疑者死亡で終了となった。
一年後、当時事件を担当した田島刑事の閃きで、事件は意外な方向に展開。解決へと向かう。
要点
同じ清張の作品『留守宅の事件』は、犯人が故意に死亡推定時刻を遅らせる工作をしている。
今回、故意か無意識かは明確でないが、犯人か死体を発見した人物の何方かが、死体を動かした為、死亡推定時刻が若干ずれた。
更に鑑定する医師の主観次第で、死亡推定時刻が僅かばかりのズレが生じたのが、今回のポイント。
偶然の産物かどうかは分からないが、此の僅かなズレにより、真犯人は初動捜査の段階で容疑者から外された。
結論を先に述べるが、犯人は夏の初めに湯治地にやってきた、大村青年。
大村青年は、湯治地に逗留する中、川田屋女中のふみ子と男女の関係になった。
或る日、川田屋に20代後半と思われる都会風に洗練された、魅力的な女性が宿泊した。
女性はどうやら、自分が先に旅館に宿泊し、後から来る人間を待っている様子。
時期外れだった事もあり、女性は湯治地では注目の的だった。
大村青年も当然、女性客に興味を持つ。
ある時、女性客が旅館の展望台に佇んでいる処に大村青年は出くわした。
大村青年は女性との距離を縮める良い機会と思い、いろいろ話かけた。
しかし、大村青年の目論見は外れ、軽く女性にあしらわれた。
展望台から見える景色は、湯治地までの道筋だった。
つまり女性は、明らかに自分を訪ねてくる誰かを待ち侘びている様だった。
それを悟った大村青年は敗北感を味わい、その場を去った。
後日、大村青年の予感は的中した。
女性が逗留した3日後、女性が待っていた男性が現れた。
男性は40代後半、中々の身なりと風貌だった。
宿帳では夫婦となっているが、誰も二人が夫婦とは見做さなかった。
男性が到着してからの女性は、今迄とは全く異なり、はしゃいだように見えた。
湯治地の注目は専ら、二人に注がれた。
二人の部屋の担当は、女中のふみ江だった。
ふみ江は、他の女中から二人の様子について、根堀り葉堀り聞かれた。
ふみ江は他の女中には適当に返事をしていたが、大村青年には二人の様子を詳細に話した。
ふみ江は大村青年が面白おかしく聞くのかと思いきや、寧ろ怒ったかのような態度になったのが意外に感じた。
随分勝手とも思われるかもしれないが、男には往々にして、その様な処がある。
譬えるなら、自分の好きなタレント・女優がいたとする。
独身なら当然だが、相手に恋人の存在が発覚。又は結婚報道などが出た際、祝福する処か、何か悔しい(残念な)・負けたような気持ちになる。
あれと同じ心境であろうか。
別に男でなくても、女でも似た心境だと思う。
まして大村青年は、後から現れた中年男性より、ずっと若い。
大村青年は女性と会話中、さり気なく自分は学生の頃東京にいて、東京の本郷近くにいたと少し自慢げに話している。
東京本郷と言えば、大概は「東京大学」の事。
つまり東大のイメージが浮かぶ。
大村青年は何か同伴の中年男性に負けたのが、悔しく感じたのではなかろうか。
その当てつけ(当て馬)として、大村青年はふみ江と逢引したと思われる。
大村青年の犯行は同伴の男性が外出中、行われた。ほんの僅かな時間帯。
男性が外出中、大村青年が女性の部屋に忍び込み、情交を迫ったが、激しく抵抗され、犯行に及んだ。
外出していた男は、部屋に戻ると女が死んでいた。
男は自分の社会的地位・家庭を守る為、慌ててその場を立ち去った。
嘘をつき、現場から立ち去った事。
死体検視を行った監察医の若干の死亡推定時刻のズレで、立ち去った男が容疑者として捜査が開始された。
捜査の結果、男は東京の大手繊維会社の総務部長(竹田宗一)と判明。
殺害された女は、銀座でバーを営むマダムだった。
二人は案の定、不倫関係だった。
男は女と不倫、男は社会的地位・家庭を守る為に逃走した。
逃走はしたが、其の後罪悪感・良心の呵責に悩み、遺書を残し自殺する。
容疑者が死亡した事により、事件は被疑者死亡のまま終了となった。
一年後、当時事件を担当した田島刑事は、事件当時の様子を洗い直した。
法医学書を調べた末、監察医により若干、死亡推定時刻に差異がある事。
殺害後、死体を動かす事で死亡推定時刻により、若干の誤差が生じる事を突き止めた。
その事を念頭にもう一度、被疑者とされた男(竹田宗一)の遺書を検討。
その結果、どうやら自殺した男は殺人を犯した事による自殺ではなく、社会的地位の喪失・家庭崩壊をおそれ自殺したと判断した。
再捜査により、事件当時の宿泊客を徹底的に洗い直した結果、容疑者として大村青年が浮上。
尋問の末、大村青年はあっけなく事件を自供した。
作品が発表されたのが約55年前。その事を考慮すれば、当時の作品の推理が成り立った。
しかし当時と比べ、格段な進歩を遂げた現代医学では、死亡推定時刻もほぼ正確に割り出される。
今となっては、何か懐かしさを感じさせる作品とも云える。そんな作品であろうか。
(文中敬称略)