権謀術数蠢く戦国時代 地でいく男『毛利元就』

戦国時代、それは権謀術数が渦巻く社会であった。言葉通り、地でいった男がいた。

安芸国人領主の身分から、戦国時代「中国の雄」と称えられた毛利家の祖となった人物である。

名を『毛利元就』といった。

今回、毛利元就について述べてみたい。

 

経歴

・名前    幼名(松寿丸)、多治比元就、毛利元就

・生涯    1497年(生)~1571年(没)

・主君    毛利興元 →毛利幸松丸 →尼子経久 → 大内義隆  

・家柄    大江氏を祖とする

・縁者    毛利隆元(子)、毛利輝元(孫)

 

尚、毛利家は戦国時代、中国の雄として名を馳せ、秀吉政権下では五大老職に数えられ、関ヶ原を経て改易を免れ、江戸時代の徳川治世を生き残り、明治維新を迎えた。

 

生涯

安芸国国人の毛利弘元の次男として生まれる。幼名、松寿丸。兄の興元が家督を継ぐ予定だった為、幼い松寿丸は父が隠居後、父と一緒に支城の多治比猿掛城に移り住む。

家督を継いだ兄興元は一家お安泰を図る為、当時中国地方で勢力を誇っていた大内氏(義興)の傘下に付く事を決めた。

 

当時大内氏は海外貿易を盛んに行い、経済も栄えた大国であった。京の足利将軍家で暫し後継者争いが勃発していた。応仁の乱等は、その典型。

大内氏は幕府の権力争いに加担、京に暫し出兵した。大内氏の傘下に入った興元も、義興の命令で今日に出陣した。

 

その間隙を突き、後見人の家臣井上元盛が猿掛城を乗っ取り、松寿丸は城を追い出されてしまう。この時既に、父弘元は酒が原因で他界している。

松寿丸が幸いだったのは、放浪の身の際、亡き父の養母(父の側室)が松寿丸を憐み、育ててくれた。松寿丸は生涯、この女性に感謝した。1506年の事である。

 

1516年、長兄興元が急死した。僅か24歳であった。死因は父と同じ、酒。家督は興元の子が継いだが、子(幸松丸)は2歳であった。

当然家臣一同は、動揺する。元就は幸松丸の後見人的立場となる。

 

実質、毛利家の長となる

毛利本家の動揺を狙うかの様に、佐東銀山城を根城とした武田元繁が安芸国人、吉川国経の有田城を攻めた。吉川家は元就の妻の里家にあたる家柄。元就は有田城救援の為、出陣する。因みに国経の後継者吉川元経の母は、元就の妹にあたる。

つまり元就は、吉川元経の伯にあたる。毛利家と吉川家は同盟関係と言える。元就は見事な指揮で武田軍を撃退。おまけに敵の大将武田元繁まで討ち取った。

家臣間にて、元就の評判は高まった。

 

其の後、毛利本家の幸松丸が7歳で亡くなった。その為傍系であった元就が毛利本家を継ぐ事となる。

幸松丸がまだ存命の頃、毛利家は兄興元の大内氏の支配下から、尼子氏の支配に鞍替えしていた。この頃、兄興元の時代に比べ大内氏は、衰えを見せ始めていた。

 

大内氏に代わり台頭してきたのが、尼子氏であった。尼子家では、尼子経久の時代に勢力を拡大。山陰・山陽約11ヵ国を支配下に治める大名にまで、成長していた。

幸松丸の死後、家督を元就が継ぐ事について家臣間で争いが起こった。幸松丸の跡継ぎとして、尼子氏から子を貰えば安泰なのではとの意見が噴出した。

 

更に元就の兄弟(腹違いの弟、元綱)と尼子家と内通している家臣の一部が結託、謀反を企てた。元就はこの動きを察知。弟と家臣を粛清した。更に幸松丸の死後、不思議な事に外祖父であった高橋興光も急死する。

元就は高橋興光の領土をちゃっかり手に入れた。元就は家督争い問題を契機に、尼子氏との関係を絶つ事を決意する。

 

元就は再び兄興元と同様、大内氏の支配下になる事を決意する。しかし此処で一つ気になる事は、こうも都合がよく兄興元、嫡男幸松丸、外祖父高橋興光が急死したものと思われる。元就自身、余程運が強かったというのであろうか。

偏に、決して只運が良かったとは思えないのだが。隠して元就は毛利家の本家を継ぐ事になった。

因みに家督相続の際、異母兄弟(元綱)を殺害したのは謀略。送り込んだ琵琶法師に聞き入った異母兄弟を自分の意を含んだ家臣に殺害させた。

 

家督相続後

家督相続後、元就は積年敵対関係であった宍戸家と、関係を修復。同じく国人熊谷家とも関係を結び、着々と安芸国人衆との関係を築いていった。

従属している大内家は義興から義隆に代替わりしていた。義隆は積年対立していた北九州、少弐氏を滅ぼした。

 

九州の憂いがなくなり大内義隆は、矛先を尼子に向けた。尼子の傘下であった武田家を攻める。大内家は武田家を若狭国に逃亡させた。

翌年の1540(天文9)年、尼子経久から家督を相続した尼子詮久に本拠地吉田郡山城を攻められる。元就約3千の兵に対し、尼子詮久約3万の兵を言われている。

元就は前述した宍戸家、大内家の援軍もあり、見事尼子家の軍勢を撃退したいる。尼子家に支援されていた安芸武田家は、完全に滅亡する。

 

この戦いを機に、元就の名声は高まり、安芸国人の中心的存在となる。尚、この時大内家の援軍の率いた武将は、陶隆房という。この人物は後も登場し、元就にとり重要な人物となる。

因みに元就の長男隆元は、当時元就が大内家の従属していた為、人質として大内義隆の許に送られていた。隆元の「隆」は、義隆の隆をとったもの。

 

第一次月山富田城攻め

1542年(天文11)、大内義隆は尼子家の本拠地月山富田城を攻めた。元就も当然従軍した。しかし味方の武将(吉川興経)の裏切りや、敵陣深く攻め込んでいた為、兵站が延び切り補給もままならず、おまけに元就も戦にて敗退した。

大内軍は大敗、後撤退した。元就自身、命からがら逃げ、這う這うの体で吉田郡山城に逃げ帰った。しかし此処で引き下がる元就ではない。

 

1544年(天文13)、強力な水軍を抱える備後の小早川家に、三男徳寿丸(後の隆景)を養子として送り込む事に成功した。

小早川家には、繁平をいう男子がいた。しかし繁平は目が不自由だった。その為、小早川家の家臣が相談。毛利家から養子縁組の申し出があったとされている。

 

しかし此れも何か上手く出来過ぎているような気がする。記録によれば、繁平は途中まで健常者であり、突然目が不自由となったとされている。

更に養子縁組となれば、小早川家から血筋が近いものが養子として迎えられても良いと思われるが、何故かそうなっていない。此れも不思議な事と思われる。何やら謀略の匂いがする。

 

3年後の1547年(天文16)、元就は前述した元就の妻の実家、吉川家に次男元春を養子に出す事に成功する。

吉川家には、当時御家騒動が勃発していた。吉川家は尼子と国境が近い事もあり、尼子に従軍していた。しかし元就が大内と手を組み、尼子詮久軍を撃退した為、大内家についていた。

しかし前述したが、大内義隆が尼子の月山富田城攻略に失敗した為、再び尼子に翻っていた。その時に都合よく、御家騒動が起こった。

家臣間では尼子を支持する者、元就を支持する者に別れた。元就から養子を貰う事で、元就との関係を強化しょうと試みたのである。

 

此処でも上手い具合に、吉川家に御家騒動が起こり、次男元春を送りこむ事に成功した。何やら此れだけタイミングがよければ、作為的なものを感じざるを得ない。

これが元就の謀略が上手いと言われる所以かもしれない。元就は次男元春を吉川家に養子に出す事で、後の毛利家の確固とした礎を築いた。

 

二人は成人後、吉川元春、小早川隆景となり、『毛利の両川』と呼ばれる。小早川家・吉川家を取り組んだ事で元就は、ほぼ安芸国を手に入れた。

 

大内家の内紛

1551年(天文20)、元就が従属していた大内家があっけなく倒れた。それは大内家の家臣であった陶隆房が謀反を起こし、主家を乗っ取ってしまった。

経緯を説明すれば、大内家では武断派と文治派で対立が起こっていた。武断派の家臣の代表格は前述した、陶隆房。

 

一方文治派の代表格は、元々北九州の土豪であったが、後に大内義隆に仕え、重用された相良武任という人物だった。

主君の大内家(義隆)は前述の通り海外貿易で栄え、義隆自身、京の都の文化に憧れを抱き、進んで京文化を受け入れた。

応仁の乱以後、京は荒び、京の文化人・公家等は地方の裕福な大名の食客となっていた。義隆もその一人だった。義隆の住む町は京都御所になぞらえ、「山口の山の館」と呼ばれる程、文化が発達した。

 

義隆は京文化に染まるにつれ、徐々に文化人的生活に遊蕩する。文化的生活を送れば、当然「武の面」が疎かになる。

文化人となった義隆は、当然文治派である相良武任を重用した。重用された武任は文治面に限らず、終いには「武の面」にも口を出し始めた。

武断派に人間としては、面白くない。軍事に専門外の人間があれこれ口を出せば、当然武断派の不満は鬱積する。

 

これは以前も紹介したが、天下統一を果たした豊臣政権時、秀吉亡き後の武断派・文治派の対立と同じ。秀吉の死後、三成の後見人であった前田利家までもが死んだ後、武断派の連中が石田三成を殺害しようとした事例と全く同じ。

現代の会社でも同じ。会社社長の側近間で、意見が対立。派閥争いを繰り広げる構造は、何も変わらない。しかし何時の時代も、組織内の争いは、組織を弱体化させる一番の理由と言える。大内家も多分に漏れず、そうなった。

前述したが義隆は1542年(天文11)、尼子氏を攻めた折、敗戦している。その時から武断派の陶隆房とは関係が悪化していた。

義隆も尼子との敗北後、政治に関する意欲が失せ、益々文化に陶酔していった。武断派の中心であった陶隆房は怒りが爆発。

1551年(天文20)の夏、反乱を起こした。国内の兵は隆房に味方した。今迄、冷や飯を喰っていた腹いせもあろう。

義隆は周防から長門に逃亡するが力尽きこれまでと悟り、長門の大寧寺にて自刃した。義隆の嫡男義尊も殺害さた。

 

一族が滅亡した大内家では、大内家の血縁者である豊後国大友宗麟の弟晴英を養子として迎え、大内家を継いだ。陶隆房は、名前を陶晴賢と改めた。

養子として迎えた晴英は後に、大内義長と改めた。だが実際に大内家の実権は晴賢が握り、義長は晴賢の傀儡に過ぎなかった。

元就は初めは即かず離れずの関係を続けていたが、2年後の1553年(天文22)、領土問題が拗れ、明確に晴賢と対立する様になった。

 

奇襲で有名、厳島の戦い

1553年(天文22)、陶晴賢は同じ義隆の家臣であった、石見津和野城の吉見正頼を攻めた。先の主君であった義隆は長門に逃げた際、吉見正頼を頼り逃げたが力尽き、大寧寺で自刃した経緯があった。

その為、晴賢とは当然険悪な関係だった。晴賢は正頼を攻め滅ぼそうとした。吉見攻めの為、晴賢は元就に援軍を求めて来た。

元就は家臣との協議の末、吉見滅亡後、大内家は将来的に毛利家と仇となると判断。明確に晴賢との対立する決意を固める。

 

翌年の1554年(天文23)、元就は石見津和野城を包囲していた晴賢軍を攻めた。晴賢は仰天して、一時的に和を請い、兵を退き上げた。

しかしこの事が余程、頭に来たのであろう。晴賢は直に大軍を編成。毛利を討とうと進軍してきた。

厳島の戦いを述べる前に、その前哨戦とも言うべき出来事を述べたい。前哨戦とは、勿論元就の得意な謀略。晴賢は元就と戦う前、元就に謀略を仕掛けた。

 

晴賢は伽来衆(君主の側にいて、話をする人間)の天野慶安に命じ、元就に謀略をしかけた。謀略方法は、慶安が大内家に冷遇され、無実の罪で大内家を追放されたとの設定。

追放されたとの謀略で慶安は、元就の許に走った。慶安は今迄の経緯を告げ、元就に大内家の内情を暴露した。

内情を暴露した後、大内家に不満をもつ岩国の江良房栄を攻める様、進言した。

 

処が元就は慶安の話を聞き、江良は既に寝返る起請文を提出していると慶安に告げた。焦ったのは、慶安である。江良が寝返る約束をしていたと知るや否や、慶安は狼狽した。

おまけに慶安に江良の起請文まで見せた。しかし此れは全くの偽物。慶安は元就の謀略に、まんまとひっかかった。

元就はとうにスパイである事を、見抜いていた。元就は更に慶安に、もし晴賢軍が厳島に出陣すれば、我が軍は苦戦するであろうとも述べた。

 

慶安は元就の話を聞き、そのまま陶の山口に逃げ帰った。慶安の話を聞いた晴賢は、江良が元就と内通していると疑い、処罰する。

更に晴賢は慶安の話に従い大軍を率い、厳島に侵攻した。元就が何故、晴賢の大軍を厳島に誘い出したのか。それは仮令大軍であっても、狭い島内では思うように動きが取れない為であった。

 

厳島の戦いは、後の織田信長の桶狭間の戦いに匹敵す程、奇襲による少軍が大軍を打ち負かした戦いで有名である。厳島の戦いでは、陶軍約2万の兵に対し、毛利軍約3千の兵と言われている。

今回は戦いがメインでなく、謀略が主体の為、戦いの詳細は省くが、機会があれば述べてみた。簡単に戦いのあらましだけを述べたい。

 

元就は大軍を厳島におびき寄せ、陸と遮断。水軍を遣い、陶軍を孤立させた。瀬戸内海は有力な水軍が存在していた。毛利軍は水軍を利用した。

水軍を云えば思い出される、備後小早川家。元就は三男隆景を小早川家に養子として、送り込んでいた。その事が、此処で生きた。

 

更に伊予国の河野一族である、能島・来島・因島の三島村上水軍を味方につけた。村上水軍がどうして毛利方についたのか。それは村上水軍が徴収していた関銭の徴収権を、陶晴賢が禁止していたからであった。

村上水軍としては、今迄入って来た銭がはいってこない為、当然晴賢を恨む。元就が村上水軍を抱き込むのは、容易い事だった。

 

1555年(弘治元年)9月、陶軍は厳島に上陸した。陶軍は厳島の宮ノ城を攻撃した。

陶軍、厳島上陸の報を聞き、元就は厳島上陸を目指した。暴風の夜半、元就は陶軍は陣取る背面に上陸。早暁、陶軍に襲い掛かった。

一方陶軍は暴風と夜であった為、よもや毛利軍が攻めてくるとも予想だにせず、篝火も灯さず、寝入っていた。仮令毛利軍が攻めてきても、上陸する水際で防げばよいとタカをくくっていた。

その時、毛利軍が陶軍に襲い掛かった。晴賢軍は大軍であったが、夜の奇襲、大軍であるが故、狭い島内で身動きが取れず、忽ち毛利軍に討ち取られた。

手勢僅かで戦場を脱出した晴賢であったが、大之浦と言う処まで来たが、もはやこれまでと観念。自害した。

毛利軍は島内で、晴賢軍の残党を掃討。隠されていた晴賢の首も発見した。元就、見事な大勝利だった。

 

厳島合戦後の陶晴賢亡き後、大内家では再び内紛が勃発。内紛に乗じ元就は1557年(弘治3)、大内義長を討ち、大内家を滅ぼした。

元就は本州の大内家の旧領土を手に入れた。元就既に当時としては長老と呼ばれる、60歳の時であった。

 

第二次月山富田城攻め、宿敵尼子を滅ぼす

従属していた大内家を滅ぼした元就は、長年の宿敵尼子討伐に着手した。尼子は大内家より更に、大国である。

元就が尼子攻略に使った手はやはり、謀略であった。尼子では晴久が家督を継いでいた。当時尼子家には、「新宮党」という有力な一族がいた。

新宮党のの中心人物は、尼子国久と言った。国久は先代経久の次男で、晴久とは伯父にあたる。国久の妻の実家は、元就の妻の実家と同じ吉川家であった。

 

元就はこの関係を利用。尼子国久と関係を続け、尼子家当主晴久にも態と分かるように公言した。関係が長く続いた後、元就は尼子城下で偽の密書をもった死体を、尼子に分かるように手配した。

殺された男がもっていた密書の中味は、元就と国久が示し合わせ、月山富田城を乗っ取るというもの。晴久は初めは相手にしなかったが、徐々に疑心暗鬼になり、とうとう何も知らず登城した新宮党一派を殺害、粛清してしまった。

これも大内家と同じで、実は一家の御家騒動が、その家を崩壊させる一番の原因である事を物語っている。新宮党が一掃された事で、尼子家の弱体化が加速した。

 

頃合いよしと見た元就は、積年の敵である尼子家を滅ぼす為、1565年(永禄8)に約3万の軍勢で尼子の本拠地月山富田城を包囲した。

元就は前回の失敗に凝り、力攻めでなく、兵糧攻めを用いた。尼子家は、晴久から義久に代替わりしていた。兵糧攻めの結果、一年後の1566年(永禄9)、遂に当主尼子義久は元就に降伏した。

山陰地方の大国尼子は毛利元就の謀略により、滅亡したのである。大内・尼子を滅ぼした元就は、中国地方を8ヵ国を支配する、大大名と成長したのであった。

 

元就の晩年

尼子を滅ぼした元就の晩年は織田信長がそうであったように、一代で大国を築い歪として、以前紹介した尼子家再興を目指す「山中鹿之助」、大内家の残党の敵対・抵抗、豊後の大友家の侵攻などに悩まされる。

更にこの時元就は、既に60歳を超え、病気がちになった。度々体調を崩し、寝込んでいる。1563年であるが元就は嫡男隆元を、無くしている。

毛利家の家督は、元就の孫輝元が継いでいた。因みに隆元の死因は、元就の父弘元を同じ酒が原因との事。どうやら毛利家では、酒に弱い体質だった様だ。

その為、元就自身は酒をの飲まなかったと言われている。しかし子の隆元は酒を好み、なくなった。元就は家訓として子孫に対し、酒を飲まぬよう諭している。

英雄も寄る年波に勝てず、1571年(元亀2)に吉田郡山城で亡くなった。

 

しばし元就の遺言として死の直前、枕元に孫の輝元、次男元春、三男隆景を呼び、

「一本の矢は直におれるが、三本の矢が揃えば、そう簡単におれない」

その事を弁え、力を合わせ毛利家の安泰を図るように諭したとあるのは、後世の作り話。

しかし三本の矢が作り話を思えないのは、其れほど元就が人間の結束が脆いものであると実感していたからであろう。

実感していたからこそ、三人の対し「結束の大切さ」を諭したのもと思われるエピソードと言える。

 

元就の生涯は当に、「謀略の歴史」だったと言って過言でない。毛利家の次男として生まれ、兄が早逝。兄の遺児も早逝。

従属していた大内家を謀略で弱体化させ、内紛に乗じ大内家を滅ぼす。同じく謀略で尼子家を弱体化。頃合いをみて、尼子家を滅亡させ、「中国の雄」と呼ばれる大大名に成長する。

力攻めはするが、相手が強いとみれば、謀略で弱体化させる。戦国時代の弱肉強食の中、お手本のような武将だったと思う。

これだけ阿漕な事をしてきた元就だが、不思議と当時から悪くいう人間はいない。

 

毛利家はその後、織田信長なき後、天下統一の意思を継いだ秀吉と和睦。豊臣政権下では五大老の位置を占める。尚、五大老には同じ毛利家ゆかりの小早川隆景も、五大老の一角を占めた。これは誠に不思議な事と思える。

毛利家はその後、関ヶ原での危機の乗り越え、徳川治世を乗り切り、目出度く明治維新を迎えたのである。明治維新後、現在まで続く毛利家の礎を築いたのは、紛れもなく謀略の天才「毛利元就」であった事は間違いない。

 

(文中敬称略)