義に拘り、上洛の夢が果てた武将 『上杉謙信』

戦国時代は、日本史上もっとも私利私欲が顕著に表れた時代であった。しかし稀に大義名分を基本として生きた武将がいた。

その人物は「越後の虎」とも呼ばれ、真面に戦えばおそらく、戦国時代最強だったのではないかと言われている。その軍団とは、「越後の上杉軍」と言われている。

今回、最強と言われた軍団を率いた「上杉謙信」を述べたい。

 

経歴

・名前    長尾平三景虎、長尾輝虎、上杉政虎、上杉輝虎、上杉謙信

・生涯    1530年(生)~1578年(没)

・主君    上杉定実→上杉憲政→足利義輝→足利義昭

・幕府職   越後守護代→関東管領

・氏族    長尾家→山内上杉家

・官位    従五位下 弾正少弼

 

生涯

越後守護代・長尾為景の四男、虎千代として春日山城に生まれる。幼名の「虎千代」は庚寅年生まれの為に名づけられたと言われている。

主君・上杉定実から見て「妻の甥」であり「娘婿の弟」にあたる。当時の越後国は内乱が激しく、一族間の争いは絶えなかった。

実はこの争いは、後の謙信亡き後の「御館の乱」まで続く。今回は詳細は省く。上杉家は兄「晴景」が家督を継ぐ為、虎千代は城下の林泉寺に入れられ、住職天室光育の教えを受けた。

 

実父に疎んじられていた為、為景から避けられる形で寺に入れられたとも言われている。しかし家督を継いだ晴景は、生まれつきの病弱で床に臥せている事が多く、とても越後国・家臣を治める力量はなかった。

謙信は14歳の時、還俗。支城の栃尾城に入る。この頃は、景虎と名のる。景虎は林泉寺にて英才教育を受け、誉たかき噂の武将であった。

一族の長尾政景が栃尾城を奪還に襲来した際、見事撃退している。家臣間では日増しに、景虎を守護代に押す声が高まってきた。

景虎の名声が高まるにつれ、兄晴景は景虎を妬むようになる。景虎19歳の折、突如兄晴景は景虎を除こうと謀り、栃尾城を攻める。

攻められた景虎であったが、兄の軍を撃破。主君の守護上杉定実の斡旋により、兄晴景は隠居。守護代の職を景虎が継いだ。

この時、景虎が実質的越後の支配者となった。これ以後景虎は亡くなる寸前までの生涯、戦いに明け暮れる一生となる。

 

家督相続後

景虎が家督を相続して2年後(1550年、天文19)、守護の上杉定実がなくなった。定実には後継者がいなかった為、景虎は室町幕府第13代将軍「足利義輝」より、正式に越後国主として認められた。

同年12月、再び一族の坂戸城主・長尾政景が景虎の家督相続に不満を持ち、反乱を起こす。

景虎は翌年、反乱を鎮圧。鎮圧後、越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳にて漸く越後統一を成し遂げる。 

しかしこの内乱は、景虎(後の謙信)の死後、再び燻り出す事となる。

 

甲斐武田晴信、相模北条氏康と対立

1552年(天文21)、室町幕府関東管領・上杉憲政が相模北条氏康に領国の上野国を侵略され、景虎を頼り越後へ逃亡した。

景虎は上杉憲政を迎え、城下に住まわす。景虎は憲政を庇護した事により、氏康と敵対関係となった。

更に同年、甲斐武田晴信の信濃攻めにより、国を追われた小笠原長時も保護。

翌年、同じ武田晴信に領国を追われた北信濃国主、村上義清も景虎に救いを求めてきた。此処に至り景虎は、甲斐武田晴信を討伐する事を決意。出陣する。

戦いは以後、5回まで続く。今回が、第一次川中島の戦いと言われている。

 

景虎の上洛

今回のタイトルで謙信は、上洛が果たせずと書いたが、正確にいえば景虎は上洛を果たしている。但し上洛を果たしたと言っても、大軍を率い上洛したという意味ではない。

景虎は海路にて、本人を始め家臣を引き連れ上洛している。この時は後奈良天皇および、将軍・足利義輝に拝謁している。

勿論上洛の目的は、天皇と足利将軍に拝謁。自分の地位と名声を高める為。箔をつけて、大義名分を得ると言えば良いであろうか。

天皇・将軍拝謁する為、莫大な貢物をしたのは言うまでもない。この時期、天皇・将軍は戦乱続きで、暮らし向きが逼迫。貢物さえすれば、官位・幕府職も得られるといった状態だった。

 

景虎の場合、位と言うよりも大義名分を重んじたと言える。景虎はその後の1559年(永禄2)、再度上洛。正親町天皇・足利義輝将軍に拝謁している。

信長が1560年(永禄3)、桶狭間にて駿河国今川義元を奇襲にて討ち取る、一年前の出来事であった。義元が打ち取られた後、信長が台頭。

信長が松永久秀等に殺害された足利義輝の弟、足利義昭を奉じ上洛。京都を制圧した為、以後景虎は上洛を果たせず、生涯を終えている。

 

川中島の戦い

甲斐武田晴信との有名な川中島の戦いは、以前ブログにて紹介(第四次川中島の際)、更に過去のブログで紹介済みの為、詳細は省き概略だけ述べたい。

 

①第1次川中島の戦いは、前述の通り。

 

②第2次川中島の戦いは1555年(天文24)、約5ヶ月間対陣するが小競り合い程度に過ぎず、

 やがて今川義元の仲介により、和睦。互いに陣を引き払う。

 

第2次から第3次までの間、チョットした事件が起こる。

景虎の突然の出奔。景虎は家臣同士の領土争い、国衆の内紛に嫌気がさしたのか、突然隠居・出家してしまう。

更に景虎の出奔中、家臣大熊朝秀が武田晴信に寝返るなど、越後国内はガタガタだった。

景虎は越後を脱出。高野山を目指す。

景虎の後を追いかけてきた家臣達の必死の説得により、出家を断念。越後国春日山城に戻る。

春日山城に戻った景虎は家臣団に誓紙を書かせ、結束を固めたと言われている。

 

③第3次川中島の戦いは1557年(弘治3)、前年の大熊朝秀の離反等により、越後国内が動揺しているとみた晴信が条約を反故。越後国境まで迫る。

この時はやはり前年の混乱が影響していたのか、聊か景虎軍は苦戦している。

武蔵国の太田氏の仲介によって和睦をしているが、徐々に景虎は武田軍に善光寺平を侵食されていった。

 

次の川中島の戦いは全5回の中で最も激しい戦闘が繰り広げわれたが、その前に景虎の動きを記しておきたい。

前述したが景虎は1559年(永禄2)、再度上洛。

正親町天皇・足利義輝将軍と拝謁。両者から越後守護職の責務、周辺国の秩序安泰を確約させる。実質、お墨付きを得たと言える。

それを証明するかの如く、前述した1560年(永禄3)に桶狭間にて今川義元が織田信長に討たれ、甲相駿の三国同盟が揺れ動いた際、軍を率い小田原攻めを実行する。

小田原攻めは翌年まで続き、小田原城を包囲したが遠征軍の為味方の士気が衰え、更に後方の信濃で武田軍が不穏な動きをとった為、囲みを解き越後に引き上げた。

 

その以後景虎は1561年(永禄4)、北条に領土を追われ保護していた上杉憲政のかねてからの願いであった、関東管領職を相続。

鎌倉鶴岡八幡宮にて、上杉憲政の養子と言う形で山内上杉家と関東管領職を相続した。

同時に名を「上杉政虎」と改める。

 

斯うしてみれば、景虎という人物は戦国時代に稀にみる「大義名分」を重んじ、昔の権威を大事にする人物だと理解できる。

二度の上洛。天皇・将軍に拝謁。室町幕府の役職、関東管領職を相続。

更に各地に割拠した戦国大名に領土を追われた旧領主の願いを聞き入れ、旧領主の領土回復の為、出陣する。

戦国時代稀にみる、義に篤い人物を言え様。

景虎自身、仏門を重んじ、北方の守り神とされている「毘沙門天」を信仰の対象としている。

 

上杉軍の旗印にも毘沙門天の文字が使われている。戦場でも兜をつけず、白衣で頭を包んだ僧衣姿で、陣頭指揮している。

私自身、実際春日山城跡を見学した経験があるが、確かに本丸跡近くに毘沙門堂が建てられ、堂内に毘沙門天の銅像が設置されていたのを記憶している。(春日山城跡は、新潟県上越市)

そして次はいよいよ川中島の戦いで、最も激戦と言われた第4次川中島の戦いとなる。

 

④第4次川中島の戦いは1561年(永禄4)、8月に行われた。第4次川中島の戦いは過去に詳しく述べたので、今回は省略する。

稀にみる激戦となったのは、時間的な制約があった為。

武田軍は啄木鳥戦法で妻女山の上杉軍を奇襲しようと試みたが、上杉軍がそれを読み、妻女山を下山。

八幡原の霧が晴れた時、二手に軍を割いていた正面の武田軍と衝突。妻女山の奇襲軍が戻ってくる迄の間、両軍激戦となった。

 

よく言われるが、前半は上杉軍の勝ち。後半は武田軍の勝ちと言われている。

しかし両軍あまりにも死傷者をだし、この戦いは上杉・武田にとり、大きな国力の損害に繋がった。

結果論とも言えるが、両軍川中島の戦いで「兵力・労力・時間」を費やしている間に、尾張の織田信長が台頭。

晩年に上洛を決意するも、寿命が尽き間に合わなかったと言えるかもしれない。

それだけ両軍にとり、激しい戦闘だった。そしてこの戦い以後、北信濃の武田軍の支配はほぼ確立した。

 

第4次川中島後も政虎は、関東を狙う北条氏康と対立。

関東諸国の大名は政虎が出陣すれば、上杉に付き、上杉軍が撤退した後、北条が侵攻すれば、北条に靡くといった事を繰り返した。

まさにいたちごっこだったと言える。

それ程、当時の関東の諸大名の帰属は曖昧だった。これも謙信が生涯休むことなく戦い続けた、原因の一つとも言える。

 

⑤第5次川中島の戦いは1564年(永禄7)、此れが川中島の最後の戦いとなる。

殆ど決戦らしきものはなく、約60日ほど対陣し後、両軍とも引き上げている。

両軍が引き上げた事で、北信濃の武田軍の支配は確立。村上義清は旧領土を奪還できずに終わる。

 

以後、輝虎の戦い

甲斐武田とは1564年(永禄7)を持ち、ほぼ終了する。その後輝虎は(この時期には政虎から輝虎に改める)、関東支配を狙う北条氏、越中一向宗門徒との抗争に明け暮れる。

おおよそ1565年(永禄8)~1569年(永禄12)の間、関東周辺・越中に出陣した。此れも戦力と時間を分散させ、晩年の輝虎の寿命を縮ませたと言えるかもしれない。

 

輝虎が戦いに明け暮れていた頃、かつて川中島で干戈を交えた武田家は、今川義元なき後、家督を継いだ氏真が国を支えきれない状態を見抜き、盛んに駿河国を狙っていた。

武田としても上杉の後顧の憂いがなくなった為、矛先を嘗ての同盟国に向けたと言える。

弱肉強食の戦国時代、甲相駿の三国同盟は崩壊寸前で、甲斐武田・相模北条の関係は悪化していた。

1568年(永禄11)、甲斐武田は駿河に侵攻。駿河を制圧する。因って三国同盟は崩壊。相模北条は武田と断交した。

 

断交した北条は、今迄敵であった越後上杉に同盟を求めてきた。互いに手を組み、面前の敵武田を牽制する狙い。

交渉は難航したが、翌年の1569年(永禄12)、越相の同盟は成立した。

此れも戦国の習い。数年前まで互いに干戈を交えていた者同士が、共通の敵に対抗する為、手を結ぶ。現代でもよくある事。

北条との同盟を機に輝虎は、越中制覇に兵を進める。しかし信長も一向宗門徒に手を焼いたと同じく、輝虎も越中門徒に手を焼いた。

2年後の1571年(元亀2)になっても、なかなか越中を制圧できなかった。同年、同盟を結んでいた相模の北条氏康がこの世を去る。

 

家督を継いだ北条氏政は翌年の1572年(元亀3)、武田家との関係を修復。謙信(更に謙信と改める)に同盟破棄を伝えた。

武田信玄(晴信から改名)は上洛の途につく為、北条家との関係を修復。氏康が死去した事で、修復はすんなり進んだ。氏政は氏康と考えが異なり、関東制覇を目指していた。

武田は更に後顧の憂いを絶つ為、越中門徒を嗾け(けしかけ)一揆を誘発。上杉軍を信濃に出てこさせないように越後に釘付けにさせた。

 

謙信は再び関東で北条氏政、越中にて一向宗門徒と戦う。

この頃、織田信長と足利義昭の関係は悪化。義昭は各大名に御教書を送り、信長包囲網を結成。各大名に上洛を促していた。

義昭の書状は勿論謙信にも届いていたが、上記の状態にて上洛の目途が立たずにいた。その間隙をぬい1572年(元亀3)、信玄が上洛の途に就いた。

 

信玄の上洛の詳細は、過去のブログ(家康との三方ヶ原の戦い)で述べた為、詳細は省く。

上洛の結果は、信玄が上洛の途中に死去。上洛の目的が果たせず、頓挫する。

信玄も謙信と同じで、川中島で時間・労力・兵力を費やし過ぎた結果と言える。

 

参考:武田信玄、三方ヶ原で鎧袖一触、徳川家康を蹴散らす

 

尚、後世の司書にて謙信が信玄の死去を聞いた折、

「よき敵を失えり」

と涙を流したとされているが、此れは作り話の類と思われる。

 

謙信は天正と改められた1573年(天正元)~1575年(天正3)迄、ほぼ関東地方にて北条氏政と戦いに明け暮れる。

この時、中部地方・幾内で織田信長の勢力が拡大。1575年(天正3)、「長篠の戦い」にて武田家の家督を継いだ武田勝頼に大打撃を与え、日増しに勢力を拡大していた。

信長は信玄亡き後、反旗を翻した足利義昭を京から追放(1573年)。事実上、室町幕府は崩壊していた。

 

越中・能登平定

謙信に転機が訪れたのは1576年(天正4)。日増しに勢力が拡大する信長に対抗する為、甲斐武田・相模北条、更に信長に攻撃され弾圧されていた本願寺(一向宗)が歩み寄りをみせた事であった。

武田家は前年の長篠にて信長に散々やられ、北条家も相次ぐ戦乱の為、家臣団の不平不満が溜まっていた。

本願寺も越前・加賀を信長に制圧され、信長は越中まで食指を伸ばし始めた為、今度は仇敵であった謙信に援助を求めてきた。

謙信は本願寺の講和を受諾。武田・北条との同盟は成立しなかったが、間接的に謙信の行動を黙認する形となった。

 

此処にも謙信の人間ぶりが表れている。以前干戈を交えた人間であれども、相手を赦しを乞うてくれば、心良く赦免する。

過去に幾度も裏切った人物も、帰参を許している。

信玄が死去する寸前、自分(信玄)が死去した後、家督を相続する息子勝頼に対し、今迄ライバルであった「謙信を頼みとせよ」と遺言しているもの何か頷ける。

元々信玄と戦った川中島も、信玄に領土を追われた旧領主たちの願いを聞き入れ、出兵したのも。

関東で北条氏と戦ったのも、北条家に関東を追われた山内上杉家の庇護したのが理由。

 

謙信という男は、現代風で譬えるなら「つくづく欲のない、他人の為に働く、お人よしな男」と言える。

此れも謙信が晩年上洛を決意した際、時間が足りなかった要因の一つ。

 

1576年(天正4)、長年かかった越中国に平定に成功した。謙信はそのまま、山城の堅城で名高い「七尾城」に兵を進めた。

七尾城では信長につくか、謙信につくかで意見が分かれていた。

謙信は上洛の際、七尾城が後顧の憂いとなる恐れがある為、どうしても落としておきたい城だった。

 

しかし再び関東の北条軍が暗躍。謙信は一時春日山城に撤退せざるを得なかった。謙信が撤退後、再び織田軍が侵攻。謙信が落とした城を、次々に攻略した。

これも関東で北条氏と謙信との間で繰り広げられた過去と同じ構造。

謙信はこの報を聞くや否や、信長軍討伐を決意。再び軍を編成。能登国七尾城攻略を目指した。

七尾城を包囲した謙信であったが、前回同様力攻めは困難と判断。城内の家臣と内通により、開城する作戦をとる。

 

謙信の調略の末、城内で内乱が勃発。難攻不落と言われた七尾城は落城した。

七尾城落城後、謙信が作ったとされている有名な『十三夜』の詩(七言絶句の漢詩)が伝えられている。前述した春日山城跡の林泉寺境内に、詩を記した看板が建てられていたと記憶している。

頼山陽の『日本外史』にも掲載され、遍く知られている。尚、頼山陽は第四次川中島の戦いを詠んだ「鞭声粛々夜河渡る」でも有名。

 

信長軍と最初で最後の直接対決

謙信が七尾城を包囲していた1577年(天正5)、信長軍は七尾城救援を決意。

重臣柴田勝家に命じ家臣、羽柴秀吉、丹羽長秀、前田利家、滝川一益、佐々成政などの錚々たるメンバーで総勢約3万の軍で七尾城救援に向かった。

しかし遠征の途中、羽柴秀吉と柴田勝家との意見がかみ合わず、秀吉は勝手に戦線離脱。軍を引き上げてしまった。

これが原因で秀吉軍は中国方面の毛利攻めに回される形となる為、人生何が幸いするか分からない。

此の時の秀吉と勝家との対立が本能寺の変以後、清洲会議を経て、秀吉と勝家の直接対立「賤ヶ岳の戦い」に繋がる。

勝家軍は七尾城目指し進軍するが、七尾城の陥落を知らず加賀国の手取川を渡河。水島(現石川県白山市)に陣を布く。

 

一方謙信は織田軍が加賀国に侵攻した報を聞くや、織田軍撃破する為、七尾城を出立。加賀国に軍を進める。

勝家軍が手取川を渡河後、七尾城の陥落の報が入る。勝家軍は七尾城が陥落したと聞くや、撤退を決意。

撤退の際、再び手取川を渡河しようとするが手間取り、もたもたしている織田軍に上杉軍が襲い掛かり、織田軍を撃破。散々撃ち破ったと伝えられている。

此れが最初で最後の謙信と信長の直接対決だった。

 

謙信の急死と、その後

織田軍を手取川の戦いで撃ち破った翌年の1568年(天正6)、大軍を率い関東平定を目指すべく大動員をかけている最中、謙信は厠で倒れ、そのままなくなった。

軍神と言われた英雄としては、誠にあっけない死であった。元来の酒好きが祟り、脳卒中で死んだと言われている。現代の医師の所見では、胃癌・食道がんも誘発していたと言われている。

 

英雄謙信は死んだ。その影響は国内外に大きな影響を及ぼした。国外では織田信長が謙信からの北の脅威がなくなり加賀・能登を制覇。

北条家は後述するが、これ幸いと関東制覇を目指し、謙信亡き後の越後国の内乱に乗じ武田家を誘い、一時は越後国の一部も占拠した。

 

越後国内では謙信は後継者を定めていなかった為、養子の息子たちの間で後継者争いがおこった。上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こったお家騒動で「御館の乱」と言われた。

謙信の養子である景虎は、謙信と北条家が同盟中、北条氏康の実子を養子として迎えた経緯がある人物。

謙信は今迄述べてきたように、義に篤い人間であり、北条氏と同盟破棄後も北条家から養子として迎えた景虎を処分、又は北条家に帰す事なく重用していた。

此れが謙信死後、火種となったのである。北条家は謙信亡き後、北条家出身の景虎を救うとの名目で、関東の謙信の領土、越後国内まで侵攻した。

 

結局、後継者争いは景勝が勝利。景勝が後継者として家督を相続したが、越後国内・家臣団に生じた亀裂は計りしれないものであった。

尚、謙信に関東管領職を譲った上杉憲政は、景虎に味方。戦いの末、戦死した。全く歴史とは、皮肉なもの。

 

こうして謙信の一生を眺めてみれば、領土拡張を目指した武田・北条との戦い、加賀・越中の一向宗門徒との戦いに明け暮れた一生と言える。

謙信は領土拡張の戦いが目的でなく、朝廷・幕府を重んじ、幕府職である関東管領職を継承したのをみれば、大義名分の下、戦いは常に「義」よる戦いだったと言え様。

此れが災いして時間・労力・兵力をとられ、織田信長の台頭を許し、晩年には時間が足りず信長を除く為の軍事的な上洛は果たせず、生涯を閉じてしまった。

 

謙信は「義の為、他人の為に自分の人生を遣い果たし」、自分の望みを果たせなかった「悲運の名将」と言えるかもしれない。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献

【逆説の日本史9 戦国野望編】井沢元彦

 鉄砲伝来と倭寇の謎

(小学館・小学館文庫 2005年6月発行)