武田信玄、三方ヶ原で鎧袖一触、徳川家康を蹴散らす

  • 1572年(元亀3)10月3月、武田信玄は上洛の途に就いた。兵力約2万5千人と云われている。武田軍は北遠江に侵攻。徳川家康の領土に侵入した。武田軍は12月上旬、家康の居城「浜松城」に迫るが、何故か浜松城を素通り。そのまま西進。武田軍が素通りした後、家康軍が浜松城から出陣。両軍、三方ヶ原と呼ばれる場所で激突。武田軍が徳川軍を、散々蹴散らした戦いである。今回は「三方ヶ原」の戦いについて述べたいと思う。

武田信玄、上洛の途に就く

1572年(元亀3)10月3日、甲斐国武田信玄は約2万5千の兵を率い、上洛の途に就いた。

兼ねてからの信長包囲網に参加している、浅井・朝倉・本願寺・三好、包囲網の中心的人物、足利義昭の要請に応じたものだった。

信玄の上洛を期に信長包囲網に参加している各大名は信長を除かんと、一斉に動き出した。

信玄は桶狭間で今川義元が討たれた後、今川家の弱体化に乗じ、1568年家康と共謀。今川領に侵攻した。駿河は武田領、遠江は徳川領の分断された。信玄は一度は北条氏康から甲相駿の三国同盟を破棄されていたが、北条氏政と関係を修復。約2千ほどの援軍を得ていた。

越後上杉に備え、越中に一向一揆を起こす謀略を仕掛け、上杉軍を釘付け。後顧の憂いなく、上洛の途に就いた。既に先遣隊の山県昌景は4日前、9月29日に出発した。

武田軍は領土である駿河を通り遠江に侵攻するのではなく、諏訪から高遠を経由。天竜川沿いに南下、遠江に侵攻した。

武田軍、遠江に侵攻

武田軍は信濃・遠江の国境、青崩峠を越え、犬居城に進んだ。犬居城城主「天野景貫」は、既に調略済み。そのまま二俣城攻略に向かった。二俣は要害堅固の城だった。

1572年10月下旬、武田(諏訪四郎)勝頼を中心として二俣城の攻略にかかる。城はなかなか落ちず、12月に入る。徳川方の掛川城・高天神城から二俣城を孤立させる為、信玄は援軍ラインを遮断。同様に別働隊の山県昌景を東三河に派遣。二俣城の援軍を遮断した。

更に天竜川からの水の補給を遮断。流石に此れまでと観念した二俣城城主「中根正照」は12月19日、開城した。

秋山隊、岩村城攻め

武田軍本隊とは別に行動していた「秋山信友」隊は、二俣攻撃と時を同じくして岩村城を攻撃した。岩村城とは、東美濃にある土豪「遠山氏」が守る城。遠山氏は以前から武田家と織田家のどちらかにつくか悩み、当時微妙な立場にいた。

城主「遠山景任」は信玄が甲府を発した頃、病死していた。信長はいち早く臣下の河尻信広・秀隆兄弟を送り、城主未亡人を城代に祭り上げ、守りに当たらせた。

しかし武田軍は河尻兄弟(織田軍)が城から退出したタイミングを見計らい、攻撃した。城は落ちず、秋山信友は未亡人城主と婚姻するという名目で、城を開城させ、人質をとり甲斐に送らせた。

その後、信玄がなくなり勝頼の時代に移るが、勝頼が長篠にて惨敗。再び織田軍が岩村城を攻略。善戦虚しく、敗北。嘗ての未亡人は秋山信友共々、処刑された。

武田軍・徳川軍、三方ヶ原で激突

二俣城を攻略。武田軍は12月22日、徳川家康の居城「浜松城」に迫る。信玄来るの報は、忽ち家康の許に届いた。家康自身、武田軍を迎え撃つ心算であったが、家臣に諫められ籠城を決意した。

武田軍は浜松城を素通りする形で通過。西進した。所説では、家康をおびき出す為、敢えて無視した振りをして家康をおびき出したとある。

しかし武田軍としては、二俣城の手こずりもあり、浜松城を攻略する時間・兵力の損害を避けたと言える。武田軍は進路を変え、浜名湖岸の堀江城を目指し、進行した。家康自身、堀江城を救援する意味で出陣したとも言われている。

武田軍は三方ヶ原台地の祝田坂を昇り始めた。家康軍は背後から攻撃を仕掛けようと計画、武田軍に襲い掛かろうとした。

武田軍は家康軍の追撃を予期していたのであろうか。軍を翻し、家康軍の迎撃に備え「魚鱗の陣」で待ち伏せていた。

予期しなかった家康軍は、慌てふためいた。家康軍は「鶴翼の陣」で武田軍を迎え撃った。

武田軍兵力、約2万5千人。家康軍・信長軍の援軍を合わせ、約1万3千人程と云われている。鶴翼の陣は包囲殲滅型の陣。相手より兵数が多い際、有効とされる。当然人数が多い武田軍には不利。

小雪が降る中、夕暮れに開始された三方ヶ原での戦いは、緒戦は善戦するが、次第に徳川軍は苦戦。僅か1時間半足らずの戦いで、徳川軍は総崩れとなり、大勢が決する。

戦闘中、家康軍は有力な家臣を失った。鳥居忠広、成瀬正義など。家臣「夏目吉信」は家康に撤退を進言したが、家康はなかなか応じない為、夏目は家康の馬の尻を叩き、浜松城に撤退させたと言われている。その後夏目は、自分が家康だと敵に告げ、身代わりとなり討ち死にした。

伝えられている処によれば、家康は撤退する際、恐怖のあまり馬上で粗相をしたと言われている。浜松城に着いた時、馬の鞍をみた家臣が家康に指摘した際、家康は「腰弁当の味噌」と苦しまぐれに言い訳したと言われている。

三方ヶ原の戦いは家康の生涯で最大の敗北であり、家康に貴重な教訓を残した。家康はこの時の敗北を忘れず、後の人生の戒めとする為、有名な「しかみ像」を書かせたと言われている。

浜松城に這う這うの体で逃げ帰った家康は、三国志の諸葛亮孔明の逸話を真似て、浜松城の城門を開け「空城の計」を装い、武田軍の来襲に備えたとあるが、これは後世の作り話の類と思われる。

三方ヶ原で負けた家康は一矢報いる為、武田軍に夜襲を仕掛けたとあるが、大した影響はなかった。かくして最初で最後の家康の大敗北の戦いは終わった。

野田城陥落、武田軍進軍止まる

家康軍を三方ヶ原で鎧袖一触で撃破。その後武田軍は正式に織田軍と断交。侵攻を開始するが、12月24日、信玄の病が悪化。侵攻が止まる。

年明けの1573年(元亀4)年1月11日、再び侵攻を開始した。城主「菅沼定盈」が守る野田城を包囲した。野田城は僅か400人の兵。

しかし野田城も天然の要害に囲まれた堅古な城。武田軍は野田城を攻めあぐねた。落城したのは、2月15日だった。その間、信玄の病状は益々悪化。

野田城を落城させた時点の3月中旬、突如武田軍は甲斐に向け、撤退を始めた。岡崎城を目の前に撤退せざるを得なくなった。勿論撤退の理由は、信玄の病悪化の為。

武田軍撤退の途中、信州駒場で武田信玄、53歳の生涯を閉じる。遺言は「喪を3年伏せよ。瀬田に武田の御旗をたてよ」であったが、半年もたたず「信玄死す」の報が、各大名に伝わる。

信玄が生きていれば、織田信長と武田信玄の一騎打ちが実現したが、とうとう一戦も交える事なく、武田信玄はこの世を去った。織田信長・徳川家康はまさに命拾いした。桶狭間同様、信長最大の危機だったかもしれない。

信玄死後の時代の趨勢

武田信玄死後、織田信長は息を吹き返し、畿内の反対勢力の撲滅に力を注いだ。武田家が信玄の死を伏せていた事で、信長包囲網の中心人物である足利義昭は、信玄が上洛するものと信じていた。義昭は、反信長の兵を京で挙げていた。

信玄死すの報が伝わり、義昭は信長に鎮圧されてしまう。再度挙兵したが、鎮圧され、とうとう信長から京を追放されてしまう。事実上、室町幕府が滅びたのがこの時と云われている(1573年)。

京を追放された義昭は、西国の毛利氏を頼り、備後の「鞆」に移り住む。

1570年「姉川の戦い」で織田・徳川軍に撃破された浅井・朝倉軍であったが、未だ勢力は健在だった。しかし信玄の死で、武田軍の上洛の望みはなくなった。

信長はすかさず1573年8月、朝倉家の一乗谷を攻め、朝倉を滅ぼし、勢いで浅井家の小谷城を攻め、浅井を滅ぼした。

信玄なき後の武田家

信玄なき後の武田家は、諏訪頼重の娘との間にできた「諏訪四郎勝頼」が名を改め「武田勝頼」とし、勝頼が家督を継いだ。勝頼の子「信勝」の後見人との名目で。

何故四郎かと云えば、長男「義信」は謀反の廉で廃嫡・幽閉後自殺。次男「信親」は目が不自由の為、仏門入り。三男「信之」は夭折。因って側室の子である四郎勝頼が継ぐ結果となる。

以前「長篠の合戦」でも述べたが、勝頼は父信玄が落とせなかった「高天神城」を落とすなど、一時武田家最大の版図を拡大する。しかし膨張策が祟り、国力・兵力が疲弊。信玄死後の2年後、長篠城近くの設楽原で織田・徳川連合軍に惨敗を喫す。

兵力・多くの重臣を失い、以後武田家は没落の道を辿る。7年後の天目山にて武田一族は自刃。名門武田家は滅亡する。

三方ヶ原の戦いの意義

歴史の流れを見れば、三方ヶ原の戦いは後に天下統一を果たす家康にとり、貴重な財産を与えたと思われる。家康は敗戦後、自分の驕りを戒め、自軍の弱点を補強。2年後の長篠の合戦で、見事借りを返す。

更に7年後の武田家滅亡の際、旧武田家の家臣を多く採用している。武田家滅亡の際、信長から駿河一国のみの賞賜であったが、同年起こった本能寺の変後、武田家の旧領をほぼ手中におさめている。

その後、北条家との領地の切り取りで争う。両家紛争中、間隙をぬい旧武田家の家臣「真田家」が台頭する。真田家は本能寺の以後、戦国時代を左右する重要な役目を果たす事になる。

 

・参考文献一覧

【逆説の日本史9 戦国野望編】井沢元彦
(小学館・小学館文庫 2005年6月発行)

【週刊新説戦乱の日本史 11三方ヶ原の戦い】
(小学館・小学館ウイークリーブック 2008年4月発行)