秀吉に仕えた強かな軍師 『黒田官兵衛:如水』

戦国時代、細川藤孝と並ぶ遊泳術に優れた武将がいた。

武将と言うよりも寧ろ、君子の側近としての参謀と言った方が的確かもしれない。

今回は、参謀(軍師)として活躍した『黒田官兵衛』について述べたいと思う。

 

経歴

 

・名前    小寺官兵衛、小寺孝高、黒田官兵衛、黒田如水

・生没    1546年(生)~1604年(没)

・主君    小寺政職→織田信長→豊臣秀吉→秀頼

・氏族    小寺、黒田

・親族    黒田長政(嫡男)

 

生涯

黒田官兵衛は、黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路で生まれる。赤松晴政重臣で播磨平野に勢力を持っていた戦国大名「小寺則職・政職」父子に仕えた。

此の頃は、小寺官兵衛と名乗っていた。その後1567年頃、父職隆の隠居に伴い官兵衛は、家督と家老職を相続。正式に小寺家の当主となった。

 

官兵衛が家督を相続した時、戦国の世は大きな変化を迎えていた。1567年は織田信長が美濃を攻略した年でもある。戦国の時代は信長を中心に、回り始めていた。

官兵衛自身、大きな歴史の渦に巻き込まれる形となる。

 

信長(羽柴)に臣従

織田信長は足利義昭を奉じ、上洛した信長が近畿をほぼ平定。その後、信長は各方面に重臣を配置。重臣達に各方面の攻略を任せていた。

時代は当に、信長を中心として回り始めていた。

 

官兵衛が城代を務める姫路も、信長の命を受けた「羽柴秀吉」の中国攻略の影響を大きく受ける形となる。

信長の勢力が拡大するにつれ、信長と足利義昭の関係が悪化。

1573年(元亀4・天正元)、足利義昭は信長に反旗を翻し、敗北。

義昭は京を追放され(事実上、室町幕府の滅亡)、毛利を頼り支配下にある備後の「鞆」に逃れた。

毛利が義昭を庇護下ことに因り、信長と毛利との関係は、益々悪化。信長の毛利攻略が決定的となる。

 

官兵衛は日増しに勢力を拡大する信長の力量を見抜き、主君・小寺政職に織田氏への臣従を進言。

1575年(天正3)、羽柴秀吉の取次で信長に謁見、臣従する事となる。

ほぼ同じ時期、龍野城主の 赤松広秀、三木城の別所長治らも信長に臣従した。

 

1577年(天正5)、羽柴秀吉の中国攻略が本格化するに従い、官兵衛は城代を務める姫路城を秀吉に提供。自らは秀吉の参謀(軍師)として働く。

俗に云う、「半兵衛・官兵衛」、秀吉の二代軍師の誕生である。

官兵衛は信長への臣従の証として、松寿丸(後の長政)を信長の許に人質として送っている。此れも歴史の綾として、後々大いに関係する。

 

羽柴秀吉軍の参謀として活躍

以前ブログにて紹介したが、山中鹿之助は秀吉の中国方面攻略の際、尼子氏の遺児勝久と一緒に上月城に城代として籠った。

1578年(天正6)3月、信長に臣従を誓った三木城の別所長治が周囲の土豪を巻き込み、信長に反旗を翻した。

長治は以前から関係が深かった、毛利方に靡いた。

 

秀吉は信長の命令で、鹿之助らが籠る上月城を放棄。鹿之助らを見捨てた。

結果、鹿之助らは毛利の家臣たちにより、始末された。

 

同年10月、秀吉軍の後方にあたる摂津国有岡城の「荒木村重」が謀叛。

秀吉軍は前門と後門に敵を迎える形となった。

 

官兵衛は荒木村重を説得すべく、有岡城(伊丹城)に赴いたが、村重に捕らえられ土牢に閉じ込められた。

信長は村重の謀反の鎮圧に、一年近く時間を費やした。

一年近く土牢に監禁された官兵衛は、あまりにも環境が劣悪だった為、足が不自由になり、皮膚病を患う事になった。

暫し官兵衛の肖像画が頭巾のようなものを被っているのは、この為と思われる。

 

官兵衛の監禁

使者として赴いた官兵衛がなかなか戻らない為、信長は官兵衛が村重に寝返ったと勘違いし、人質として信長の許にいた松寿丸(後の長政)を処罰しようとした。

その処罰を信長は、秀吉に命じた。秀吉は官兵衛が裏切る筈はないと確信していたが、主君信長の命に逆らう事ができず、官兵衛の子を処罰した振りをして信長に報告。人質(松寿丸)をこっそり匿った。

 

後に村重の謀反が鎮圧され、官兵衛が解放後、無実が判明する。

信長の誤解である事が判明したが、既に官兵衛の子は始末された後だったが、秀吉の機転により官兵衛の子は命を救われた。

 

官兵衛が秀吉に感謝したのは、言うまでもない。信長の早とちりを、秀吉がカバーした形にもなった。

信長も秀吉が自分の命に背いたが、結果として自分のミスを秀吉に救われた。

この時救われた松寿丸が、後の「黒田長政」である。黒田親子が秀吉に臣従を深めたのは間違いない。

 

しかし歴史とは面白いもので、後の関ヶ原の戦いでは黒田官兵衛・長政親子は秀吉側(西軍)ではなく、家康側(東軍)として参加している。

だから歴史(人間の営み)は、面白いと言える。

 

以後秀吉の中国の毛利攻めに対し、官兵衛の手腕は遺憾なく発揮される。

因みに有名な軍師の一人、竹中半兵衛は1579年(天正7)に三木城攻略中、病死している。

因って秀吉の軍師は、官兵衛のみの状態となっていた。

 

小寺氏を捨て、信長に付く

官兵衛は解放された後、秀吉軍に再び加わり手腕を発揮した。

1578年、信長に反旗を翻した別所氏を滅ぼすのに2年近くかかる。

その間官兵衛の主君だった小寺氏も、別所氏と同じく信長に反旗を翻した為、官兵衛は正式に小寺氏を見限り、信長の家臣となった。

此の際、過去の決別の意味もあってか、名前を「小寺」から「黒田」に変更している。

播磨統治には便利な姫路城を、官兵衛は秀吉に譲っている。

 

1582年(天正10)の政変

三木城の別所を滅ぼし、毛利の要所と言われた「鳥取城」を有名な兵糧攻めで攻略。

秀吉は「清水完治」が籠る備中の「高松城」を包囲していた。

 

高松城包囲の際、有名な突貫工事で高松城を水攻めにし、高松城の落城は時間の問題だった。

しかしその時、戦国の世を一夜にして変える大事件が起こった。

1582年(天正10)、「本能寺の変」である。本能寺の変に関しては以前に何度も述べている為、此処では省略したい。

 

本能寺の変を報を聞いた後、秀吉の行動は以前「中国大返し」の際に述べている為、此れも省略する。

只繰り返し述べたい事は、本能寺の変の報を聞いた直後、秀吉は一瞬自暴自棄になった。

 

しかし官兵衛は冷静に秀吉に対し

 

「御運が開けましたな」

 

と秀吉に進言したと言われている。

真偽の程は定かではないが、官兵衛の言葉を聞き秀吉は冷静さを取り戻し、即座に毛利と和議。清水完治の切腹を見届け、中国大返しを実行する。

 

疾風怒濤の進撃にて、京の入り口「山崎」で主君殺しの「明智光秀」を破り、秀吉は信長後継者の一番手に踊り出た。

其の後、秀吉は主家織田家を乗っ取り、天下人になったのは言うまでもない。

官兵衛は1587年、秀吉九州平定の折、功をたて豊後国中津にて約12万石を与えられる。

その際、家督を長政に譲り、目出度く隠居している。

 

隠居後、官兵衛は「如水」と名乗っている。実はこの隠居も、官兵衛の策略・処世術ではないかと言われている。

秀吉が天下人となった後、秀吉が側近との談笑していた時の話。

太閤秀吉亡き後、天下を取る人間は誰だと話題が上った時、太閤秀吉は、本音か冗談かは分からないが、

 

「わしの亡き後、天下を狙う男は、官兵衛であろう」

 

と延べたと言われている。

 

それを聞いた官兵衛は、「すわ一大事」と思い、隠居したと言われている。

何故なら古今東西、天下人となった人間は、大概次は天下獲りに一緒に働いた人間を処罰すると言われていた為。

 

これは徳川の治世になっても同じ。徳川家が天下掌握後、嘗ての功臣が次々に処罰されたのを見ても分かる。官兵衛は、身の安全と黒田家の将来を懸念し、隠居したと言われている。

秀吉の統一後、朝鮮出兵は行われたが、官兵衛は積極的に戦闘に加わる事なく、軍監的役割のみ果たした。

そして1598年、天下を統一した英雄「豊臣秀吉」が死去。2年後に関ヶ原を迎える。

 

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いも過去に何度も述べている為、省略したい。

官兵衛(如水)は関ヶ原の際、東軍に味方する振りをして、九州の地にて最後にもう一旗挙げようと野望を起こした節が見られる。

 

概略を述べれば、如水は東軍に参加する武将に連絡をとり、東軍に参加すると言う名目で兵を集め、西軍に参加する武将の城を攻めた。

西軍の後方攪乱の名目だが、怪しいものだった。巧みな自己勢力の拡大が目的だったと言われている。

此の時、武断派であった「加藤清正」も国元(隈本)に帰っていた為、ほぼ同時に西軍の城を落としていた。

 

当時九州の地では関ヶ原の報が届くのは、約一ヶ月かかった為、如水は自己の勢力拡大を急いだ。

東軍西軍何方が勝っても、後々の為、少しでも勢力拡大をしておこうと言う腹だったと思われる。

 

やがて関ヶ原の報が届き、東軍(徳川勢)が勝利。一日で決着が付いたと知った後、如水はあっさり軍を解散した。

自分の思惑と異なり、関ヶ原の戦いがあっけなく一日で勝敗が決した事で気落ちし、もはや此れまでと観念。野望を諦めたと言われている。

 

此れも又、如水のふてぶてしさを物語る、エピソードとして伝わる話。

東軍の小山の陣の会議にて、豊臣恩顧の筆頭大名「福島正則」を東軍の味方に付ける工作をした黒田長政に対し家康は、関ヶ原後、長政のの手を握り、

 

「この御恩は子々孫々、黒田家を疎略にはしませんぞ」

 

と述べたと伝えられている。

事実長政は、豊後国中津藩18万石(後に12万石から加増)から、筑前国福岡52万石に大幅加増されている。

 

家康に加増され意気揚々と帰国した長政は、父如水に報告した。その時如水はにこりともせず、無言だった。

長政は耄碌して、如水が耳が遠くなったのかと思った。長政がもう一度話した処、父如水は意外な質問をした。

如水の質問は

 

「内府殿(家康の事)がそち(長政)の手を握ったのは、右手か左手か」
と。

 

長政は奇妙な質問をするものだと思いながらも、

 

「内府殿が握られたのは、右手でした」

 

と答えた。

すると如水は長政に対し、

 

「何故空いる片方の手で、内府殿を刺し殺し、再び戦国の世にしなかったのか」

 

と述べたと伝えられている。如何にも如水らしいエピソードと言える。

 

流石に戦国の時世、度々主君を変え、政変を生き抜いてきた人間。

或る意味、忠臣を装いながら、強かに自分の勢力を拡大、生き延びてきたと英傑と言える。

 

同じ戦国の遊泳術の天才であった「細川藤孝」「藤堂高虎」等にも、通ずるものがある。

又そうでなければ天下人となった秀吉の軍師など務まらなかったとも言えようか。

 

(文中敬称略)