戦前教育で、必ず教えられる忠臣の代表 『山中鹿之助』

戦前の日本は皇国史観が主流であり、学校での授業では「修身」という科目が設定されていた。

その授業で必ず教わる人物が二人いる。

 

一人は鎌倉幕府滅亡、建武の新政を成し遂げた後醍醐天皇を補佐した『楠木正成』。

もう一人、忠臣として紹介される人物が存在する。

 

戦国時代、中国地方で勢力を誇り、後に台頭してきた毛利元就に滅ぼされた尼子一族の家臣であった『山中幸盛:通称鹿之助』。

今回は二人目の人物である、山中鹿之助にスポットを当ててみたい。

 

・名前    山中幸盛、山中鹿之助

・生涯    1545年?(生)~1578年(没)

・主君    尼子義久、勝久

・氏族    山中氏、後に鴻池

 

経歴

山中幸盛、通称:鹿之助と言われている。

戦国時代、中国山陰地方で権勢を誇った尼子氏の家臣。

 

鹿之助の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。

これは以前紹介した、明智光秀・松永久秀と同じ。

 

戦国時代の下剋上の社会で、実力により歴史に名を残した人物は、その様な例が多い。

生誕も一説によれば、1545(天文14)年、出雲国富田庄(現在の島根県安来市広瀬町)に生まれたと言われている。

 

兎に角、前半生は謎。鹿之助が有名なのは、尼子氏が絶頂期に名を馳せた武将ではない。

主君の尼子氏が台頭してきた毛利元就に滅ぼされてから、有名になった武将という、一風かわった経歴の持ち主である事を先に延べておきたい。

山中家は尼子氏の家老の家柄だった。尼子氏が没落する前に数々の武勲を立て、鹿之助は猛将として知られていた。

 

尼子氏の没落

中国地方では守護大名「大内氏」と並び隆盛を誇った「尼子氏」であった。

戦国時代に台頭した安芸国吉田郡山城、国人「毛利元就」に因り、先ず周防・長門、北九州一部に勢力を誇っていた大内氏が滅ぼされた。

 

其の後尼子氏も新勢力の毛利氏の進出により、居城月山富田城が落とされ、尼子氏は滅亡した。

月山富田城は難攻不落と言われていたが、1567(永禄10)年の正月、毛利軍の包囲の兵糧攻めの末、落城した。

 

1567年とは織田信長が「桶狭間の戦い」で今川義元を奇襲で破り、力をつけた後、美濃国の斎藤氏を滅ぼした時期と同じ。

戦国時代が動き出し、終結へと向かう時期であった。

 

鹿之助の尼子家の再興の動き

尼子氏滅亡後、鹿之助は各地を転々として放浪した。

放浪中、各地の大名を視察。其の後、京に上ったとされている。

各地を転々としている際、各国大名の勢力を分析するというのも、何か足利義昭に仕える前の「明智光秀」に似ているとも言えなくもない。

 

明智光秀も各地と転々とした後、色々な見聞を深め、いつしか足利義昭に仕えた。

後に天下取りの第一人者となる信長の下に、同じ足利義輝の側近だった「細川藤孝」と供に仕えている。

 

京に上った鹿之助は、滅亡した尼子氏の遺児である「尼子勝久」を見つけ出し、他の尼子氏の家臣の残党と供に尼子氏再興の動きを始めた。

1569(永禄12)年、毛利氏が大友氏を攻める為、北九州に兵を派遣。

鹿之助は手薄になった毛利領の出雲国に山名氏の助けを借り、侵攻した。

 

山名氏は嘗て尼子氏と対立していたが、この時は既に尼子氏は滅亡していて、当時暫し毛利の侵攻を受けていた。

所謂、山名氏は自国を守る為、嘗ての仇敵の残党を防波堤と企み、手を結んだ。

 

鹿之助と旧家臣の残党は、占領された月山富田城を奪取しようと試みた。

しかし大内氏征伐に参加していた吉川元春、小早川隆景らが、相次いで帰国。

 

翌年の1570(元亀1)年、毛利軍の反撃にあい、鹿之助を始めとする尼子再興の軍は徐々に後退を繰り返し、敗退した。

以後、尼子再興の軍は衰退していく事になる。

 

鹿之助、再び挙兵

敗退した鹿之助は一旦、隠岐島に逃れ、潜伏した。

1572(元亀3)年、秘密裡に但馬国に潜入。

瀬戸内海の村上水軍、美作の三浦氏の家臣等と連絡をとり、反撃の機会を伺った。

 

再び山名氏の援助を得、毛利領を攻め立てた。

更に毛利氏を攻略しようと企む近畿地方の覇者、織田信長と連絡を密にし、毛利領を攻めた。

 

しかし、後に毛利の脅威を感じた山名氏に裏切られ、両者に攻められ敗退。

鹿之助は信長を頼り、京に逃げた。

 

丁度その頃、1573(元亀4)年に足利義昭が信長から京を追われ、義昭は毛利氏を頼り、備後の鞆に逃れる。

もはや織田軍と毛利軍との全面対決は目前だった。

 

三度目の尼子再興軍

織田信長に謁見した山中鹿之助は1576(天正4)年、丹波・但馬方面を攻略する明智光秀軍に従軍した。

翌年の1577(天正5)年、羽柴秀吉が正式に中国方面(毛利氏)攻略の担当になった後、今度は秀吉軍に従軍した。

 

秀吉軍は播磨の上月城を攻略すると、鹿之介と尼子勝久は上月城を任された。

しかし翌年の1578(天正6)年、三木城の別所長治が信長に反旗を翻し、毛利側に付いた。毛利軍は上月城を奪還すべく、城を包囲した。

 

一方、信長の命で秀吉軍は、三木城攻略を優先した為、上月城は見捨てられる形となった。

包囲され城内の兵糧も尽き、降伏。

遂に尼子勝久・鹿之助は、毛利方に降った。

 

この時、勝久は自害。鹿之助は一旦降伏したが、後に毛利氏の家臣により殺害されている。

此処にもって、鹿之助の尼子氏再興の夢は潰えた。

 

鹿之助の子孫の其の後

鹿之助は殺害された。鹿之助の長男「山中幸元」は武士を廃し、一平民となった。

摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市)に移住し、造酒屋を始めた。

造酒屋で財を成した後、大坂に移住。

江戸時代には豪商となり、後の「鴻池財閥」となった。

 

鴻池財閥は、現在も脈々と大商人の家として受け継がれている。

山中鹿之助は、滅亡した尼子再興しようと尽くした忠君として、建武の新政時の「楠木正成」に並ぶ、大忠君として伝えられている。

 

鹿之助は江戸時代、主君の再興を願う美談として「大石良雄」の忠臣蔵と同じく、又悲運の名将として庶民に持て囃された。

明治時代の教科書には必ず、鹿之助の有名なエピソード

 

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」

 

と鹿之助が月に願ったと言う逸話が掲載されていた。

何故、鹿之助と言われていたのかは、三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑をしていたからと言われている。

 

尚、上月城落城の際、主君勝久は自害したが、鹿之助は自害しなかった。

何故自害しなかったのかは、未だに理由は謎。

 

関ヶ原の戦い後、石田三成が刑場にて処刑される際、喉が渇いた為、護送兵に水を所望した処、

 

「水はないが干し柿ならある」と兵に云われ、その時三成は、

「干し柿は喉に悪いから」と断った。

 

三成が断ったのを見た護送兵が、

 

「今から処刑されるのに、喉に悪いもあるか」と罵った。それを聞いた三成は、

忠君とは、死の間際まで主家の事を思い、健康に気遣うものだ」と述べたと伝えられている。

 

ひょっとして鹿之助も再び生き延びて、尼子家再興を考えていたのであろうか。

 

(文中敬称略)