室町幕府最後の将軍。又の名は、陰謀将軍『足利義昭』
★決して傀儡ではなかった陰謀将軍 『足利義昭』
目次
第15代室町幕府将軍、足利義昭
足利義昭は「抜刀将軍」と言われた第13代室町幕府将軍、足利義輝の弟(次男)として生まれた。
名は「覚慶」と言い、その下の弟(三男)は「周暠」と言った。
1565(永禄8)年、阿波国の有力大名三好家、大和国信貴山の松永久秀が台頭。
久秀は第12代将軍足利義晴の甥にあたる「義栄」を後釜に据え、ロボット将軍化させようと画策した。
1565(永禄8)年5月19日、松永久秀・三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)は、俄に将軍宅(義輝)を襲い、誅殺した。
足利義輝は天下の宝刀を地面に刺し、襲い掛かる暴徒を斬りつけていたが、多勢に無勢。
とうとう討ち取られてしまった。
久秀・三好三人衆は、京にいた三男の周暠を殺害した。
しかし大和国興福寺一条院の門跡であった当時の覚慶(後の足利義昭)には、流石に手は出せなかった。
覚慶は身の危険を感じ、前将軍の臣下だった細川藤孝・一色藤長に護衛され、一条院を脱出した。
脱出後、近江国甲賀郡の土豪和田惟政の宅に入った。
覚慶は其の後、六角承禎の臣下矢嶋氏を頼った。
翌年1569(永禄9)年の還俗。
名を「義秋」と改め、足利家の当主である事を示す為、又は上洛の意思ありと内外に示した。
更に義秋は、「秋」と言う文字は終焉に向かうと意味を含む為、足利義昭と改める。
義昭は自分の保護、上洛の力になってくれる各大名に内書を送った。
だが各大名は、各地の抗争に明け暮れ、とても義昭の求めに応ずることなどできない。
義昭が頼りとしていた越後の上杉輝虎は、甲斐武田家・越中の一向門徒との抗争に明け暮れ、義昭の求めに応ずる事が不可能だった。
義昭は自分の現在の無力さを感じ、矢嶋氏の仮寓を脱出。若狭国の武田義統を頼った。
しかし身を寄せた武田家に内紛が勃発。義昭は越前一乗谷の朝倉義景の食客となった。
1568(永禄11)年2月、三好三人衆・久秀に担がれていた足利義栄が、第1代室町幕府将軍の宣下を受けた。
朝倉義景は上洛の意図はなく、義昭の焦りは日に日に募った。
同年7月、美濃国を統一した織田信長から義昭の許に使者が来た。
義昭は信長の求めに応じ、越前朝倉の許を脱出。岐阜の立政寺で、義昭は信長と対面した。
9月7日、信長・家康軍約6万の軍勢は、上洛を目指す。
上洛の途中、近江観音寺の六角承禎を廃し、上洛した。
京にいた三好三人衆は、京を脱出。
機を見るに敏な松永久秀は、いち早く信長に恭順の意を示した。
三好三人衆・久秀が擁立した義栄は、この間に病死する。
信長軍は東寺に陣を張り、義昭が正式に第15代室町将軍の宣下を受けるべく、待つ。
10月18日、正式に宣下がくだる。
晴れて義昭は、第15代室町幕府将軍に就任した。
義昭は、流浪の身から将軍に迄にして貰った信長を「御父」と呼び、感謝した。
褒美として信長に「副将軍」の位を与えると約束した。
しかし信長は副将軍の職を固辞する。
代わりとして、「堺」を信長の直轄地にする事を確約させる。
義昭は信長の要求に応じた。
この時、義昭は信長を、「何と欲のない人間」と持て囃した。
しかしこれは後に、大きな間違いと判明する。
足利義昭と織田信長の蜜月は、此処までだった。
信長の台頭
上洛した義昭は信長に新居を造営して貰い、将軍の権力の悦に浸っていた。
義昭は自分の権力を堅固なものにする為、再び各大名に内書・御教書を送り自分の権威と強めた。
義昭は自分の家臣を増やすべく、勝手に知行国の褒章を与え、幕府の再興を目指し将軍の名の下、各大名に税を課した。
これには流石に混乱が生じた。
信長も見るに見兼ね、1570(元亀元)年、義昭に対し「殿中御掟」を突き付けた。
内容を要約すれば、
・将軍が誰かと面会する際、信長の派遣する目付の許可を得る事。
・将軍が書状を送る際、信長の許可を得る事であった。
これは実質、今迄のロボット将軍化となんら変わりのない。
流石に義昭は怒った。この時義昭は、今迄猫を被っていた信長の正体を悟った。
此処からが、陰謀将軍と言われる義昭の本領が遺憾なく発揮される。
信長包囲網
信長から「殿中御掟」と突きつけられた義昭は怒った。
すると義昭は又、各大名に密書を送り、自分が中心となり「信長包囲網」を結成させる。
信長包囲網に参加した大名は「浅井・朝倉・武田・三好・六角・本願寺・毛利」など。
1570(元亀元)年、嘗て義昭が寓居していた越前朝倉を、信長が攻める事で対立は決定的となった。
信長が越前朝倉攻めにて金ヶ崎まで侵攻した際、齟齬が生じた。
以前お市の方で紹介した、義弟「浅井長政」の裏切りである。
長政は信長の妹、お市の方を娶ったにも係らず、積年の恩義がある朝倉氏に付いた。
夫長政の裏切りを兄信長に知らせる為、信長の陣中に「両脇を縛った小豆の袋」を届けたのは、有名な話。
兎にも角にも長政は、信長を裏切った。
長政の裏切りを知るや否や信長は、一目散に逃げ出し、朽木谷を通り京に逃げ延びた。
京に逃げ延びすぐさまの体制を整え、姉川にて浅井・朝倉軍を撃破した。
同年、義昭の求めに応じ蜂起した「顕如」の伊勢長島の一向一揆で信長は、弟信興を亡くしている。
1571(元亀2)年9月、信長は突如、比叡山を攻めた。
比叡山は姉川の戦いの際、浅井・朝倉軍に陣を提供していた。
つまり信長とは明確に、対立していた。
更に桶狭間で今川義元が討たれ、武田軍が駿河に侵攻。
「甲相駿の三国同盟」は破綻していたが、武田家と北条家の関係が修復され、武田晴信は公然と信長の対立する姿勢を取った。
武田家が旗幟鮮明に反信長勢に回った事を一番喜んだのは、「陰謀将軍義昭」に違いない。
義昭は信玄が何時、上洛の兵を挙げるのか、心待ちにしていた。
信長最大のピンチ
1572(元亀3)年、信長にとり桶狭間依頼の最大のピンチだったかもしれない。
近江で六角氏、大和信貴山の松永久秀は、嘗て対立していた三好義継と和解。
公然と信長に反旗を翻した。
そしてとうとう積年の願いであった武田晴信が同年10月、約2万5千の軍を率い、上洛の途に就いた。
武田軍は三方ヶ原で徳川・織田軍を撃破。信長の運命は、風前の灯かと思われた。
義昭は1573(天正元)年、信長打倒の兵を挙げたが、事前に察知した信長軍に邸を包囲され、すぐさま降伏。
しかし7月、槇島城にに籠り、再び反信長の旗を挙げた。
再度、信長軍が義昭を屈服させ、人質をとった。
義昭は三好義継の若江城に退去させられた。
そのまま信長は軍を切って返し、8月に宿敵浅井・朝倉氏を滅亡させた。
この勢いに恐れをなした松永久秀は、あっさり信長に降伏した。
この時信長が何故、久秀の助命を聞き容れたのかは謎。
陰謀将軍の末路
浅井・朝倉氏の滅亡後、久秀の降伏。
更に義昭が最も信頼を寄せていた甲斐武田晴信が上洛の途中、死去した為、信長包囲網は脆くも崩れた。
包囲網が崩れた為、1575(天正3)年、武田家の家督を継いだ「勝頼」を、長篠で撃破。
伊勢長島では、弟信興を殺された相手、一向衆を大量虐殺した。
一方、義昭は若江城から堺・紀伊由良を転々。
最後は西国の雄と言われた、「毛利氏」を頼った。
毛利を頼り備後の「鞆」に移り、信長を恨みながら生涯を閉じた。
鞆に移った義昭は、相変わらず反信長の書状を書き続けた。
義昭が晴れて枕を高くして寝る事が出来たのは、1582(天正10)年6月の「本能寺の変」にて、信長が家臣の明智光秀に討たれた時かもしれない。
(文中敬称略)