関ヶ原の戦、勝敗を分けた要因 完結(戦後、大名の処遇と天下情勢)
目次
関ヶ原後の動き
関ヶ原の後の家康と各大名の動きを見てみたい。
◆石田三成、安国寺恵瓊、小西行長
捕らえられ六条河原にて斬首、三条橋にてさらし首。領地没収。
◆島津義弘
中央突破をはかり伊勢道を通り堺に着き、船で薩摩に帰還。責任をとり隠居。
島津は加藤清正、黒田如水(官兵衛)のとりなしもあり、何故かほとんど無傷の本領安堵。
◆宇喜多秀家
捕らえられ領地没収、八丈島に流刑。流刑地にて1655年まで生きる。享年82歳。
他の将と違い、斬首にならず流刑地で天寿を全うしたのが、唯一の救いであろうか。
◆長曾我部盛親
領地没収。御家断絶。放浪の身となる。
後の「大坂の陣」でも真田信繁(幸村)と供に大坂城に入城するが、この時も大した戦闘もせず、大坂城に籠り終戦。
関ヶ原同様、本当に何をしたいのか分からなかった男。
◆長束正家
南宮山から退去後、水口城に戻る。9月末、自害。
◆増田長盛
西軍、東軍どちらにも与するが東軍勝利後、領地没収。
東軍に内通していたが、水泡に帰す。
◆上杉景勝
関ヶ原の直前、山形の最上氏を攻め、落とす寸前だった。
関ヶ原にて東軍勝利の報を聞き、撤退。
後に家康に恭順の姿勢をとり赦免され、会津120万石から米沢30万石に減封。
◆真田昌幸、信繁親子
関ヶ原にて東軍勝利の報を聞き、降参。昌幸、信繁は紀伊国久度山に流される。
家康は昌幸に何度も煮え湯をのまされ、今回の秀忠軍の足止めの科もあり本来なら切腹。
だが信幸・本多忠勝の助命懇願もあり、自刃、処刑にならず終了。
大坂の陣で豊臣方に請われ、大坂城入城。家康相手に善戦。戦国の世に一石を投じる。
しかし大坂方の内紛、昌幸ほどの実績もなく軽んじられ、悲憤のうちに敗れ自刃する。
「悲運の名将」とも言えよう。
関ヶ原の大谷吉継と同様、敵味方関係なく「日本一の兵」として賞賛される。
徳川治世、反徳川としても英雄視され、いろいろ話が作られる。
後世に影響を及ぼし今日まで伝わるものが多い。戦国時代の遅れて来た、悲劇の英雄と言えようか。
◆脇坂、朽木、小川、赤座
脇坂安治のみ事前内通にて本領安堵。
朽木元綱は減封、小川裕忠・赤座直保の両名は領地没収。
風見鶏的裏切りは所詮、意味なしと云う事だろうか。
◆立花宗志
領地没収。しかし後に人柄が認められ、大名に復帰。其の後、徐々に加増される。
最後には戦前の旧領、柳川に復帰する。
◆前田玄以
石田、増田、長束と連盟で内府(家康)弾劾状に名を連ねているが、仮病を使い戦いの間、京都にいて日和見。
戦後、河内天野に蟄居。細川忠興の口添えもあり、本領安堵。
しかし2年後没。次男「重勝」が跡を継ぐが6年後、発狂。御家断絶となる。
◆大谷吉継
戦死。首すら何処にあるか分からないが、死して後世に名を残す。
敵味方関係なく、吉継を褒め称える事、限りなし。
藤川台にある吉継の墓碑が、東軍の敵将「藤堂高虎」が建てた事実が如実に物語っている。
小早川秀秋の裏切りに備え配備した脇坂、朽木、赤座、小川隊の約4290人が秀秋裏切り後、秀秋隊の側面を突けば、大谷隊と両方で秀秋隊を食い止める事ができたかもしれない。
それ程、この4将の裏切りは大谷吉継にとり、寝耳に水だった。
裏切り直後で秀秋隊の兵もまだ動揺していた筈。この4人の裏切りが、つくづく悔やまれる。
◆毛利輝元
問題の総大将輝元は、関ヶ原で西軍敗戦の報を聞き、毛利秀元が大坂城にて一戦すべしとの助言を聞かず、戦わずして大阪城を退去。
家康が大坂城西の丸入場後の沙汰を待つ。同族、毛利秀包の筑後久留米13万石、没収。
大坂入城後の家康の毛利家の沙汰は、全領地120万石没収。つまり改易、毛利家断絶。
流石に以前から内通、本領安堵のお墨付きを貰っていた、吉川広家は驚いた。
家康は広家に周防・長門36万石を与え、毛利家を潰すと宣言した。
広家は自分の加増はいいから、毛利家を残す事を家康に懇願した。
しかし家康はなかなか首を縦にふらない。
周りの口添えもありしぶしぶ認めたようだが、新築の広島城は没収。
更に便利な山陽道に城を築く事を許されず、山陰の萩に押し込められる羽目となる。
吉川家は岩国3万石。責任をとり、輝元は隠居。嫡男「秀就」に家督を譲る。
普通であれば、毛利家は吉川家に感謝したと思う筈。しかし毛利家は吉川家を恨んだ。
客観的に見れば毛利家は御家断絶、改易が当然だったが、吉川広家の助命懇願で生き延びた。
感謝されども、憎まれる理由は何もないと吉川家は言いたいだろうが、毛利家は明治維新になるまで憎んだ。
やはり人間は感情の生き物と言う事であろうか。
西軍を勝たせる為の工作も、散々といった処であろうか。
しかし不思議なもので、この時の恨みが幕末運動に繋がり、明治維新を迎え今日に繋がる。
それは薩摩、土佐も同じ。関ヶ原の恨みと云う事であろうか。
同じ関ヶ原の敗者でも冷や飯をくった上杉家は江戸時代を経、幕末全く異なる道を進む事になる。
主だった東軍の将
◆福島正則
清洲から旧毛利領、安芸広島に転封。20万石→50万石に加増。
江戸幕府後、武家諸法度の無断改築違反で処罰。改易。
幕臣本多正純に届け出を出すも、握り潰される。後に許され川中島4万5千石となる。
その本多正純も後に宇都宮にて秀忠暗殺を企てたとの謀議の疑惑で、本多家改易。
正純は失脚となった。
既に実権を土井利勝に握られ、政争の末の失脚といえる。(1622年、宇都宮釣り天井事件)
◆細川忠興
丹後宮津18万石→豊前小倉39.9万石に加増。のちに肥後熊本に転封加増。
54万石となる。江戸時代を経て、明治維新を迎える。
◆黒田長政
豊前中津18万石→筑前福岡52.3万石転封加増。
江戸時代を経て、明治維新を迎える。
◆黒田如水
上杉討伐から関ヶ原までのどさくさまぎれの間、天下を狙う機会とし、九州で挙兵。
西軍の将の領土を掠め取る。関ヶ原がたった一日で終わった為、野望を諦め本当に引退する。
関ヶ原の論功行賞の後、大幅加増され意気揚々と帰った息子長政に対し、馬鹿者と叱りつけたのは有名な話。
自分の息子の働きの為、如水の野望が潰えたのを詰(なじ)ったからと云われている。
◆真田信幸
東軍の味方する功により、本領安堵。後に松代藩に転封。
徳川家に臣従の意もあってか、名を「信幸」から「信之」に改める。
享年93歳まで生きる。
真田家は、江戸時代の徳川の治世を生き抜き、明治維新を迎える。
尚、家康は余程上田城が憎いと見え、徹底的に破壊。現存する上田城は当時とは全く別の城。
◆藤堂高虎
宇和島8万石→20万石加増。(今治12万石加増)
◆前田利長
日和見をしていた弟、利政の没収領地を加増される。83.2万石→119.5万石となる。
江戸時代を経て、明治維新を迎える。
◆加藤清正
肥後熊本25万石→肥後熊本52万石と加増される。
しかし大坂の陣の前に急死。三男「忠広」が跡を継ぐも1632年領地没収。御家断絶。
◆田中吉政
三河岡崎10万石→筑後柳川32.5万石、転封加増。
大幅加増であるが東海道に比べれば、やや遠国。
岡崎が家康初めての居城と東海道沿いと考えれば、何気に追いやられた感も拭えない。
◆小早川秀秋
筑前名島35.7万石→備前岡山51万石、転封加増。
関ヶ原の東軍の功労者であるが、西軍にとり裏切り者。
秀秋の官職をもじり、「裏切り中納言」と陰口を叩かれた。旧宇喜多領の影響もあっての事か。
元々好きだった酒が更に深酒になり、おまけに素行も良くなかった様子。
他の大名、世間の評判も宜しくなく、精神的にもかなり追い詰められていた。
関ヶ原の2年後、原因不明の病で急死する。日頃の深酒が祟ったのだろうか。
秀秋に実子がいなかった為、無嗣断絶の改易。多くの家臣が浪人となる。
何か運命的なものを感じずにはいられない。
徳川家としては、秀吉の血縁者でもあり、願ったり叶ったり。
尚、現存する秀秋の肖像画の所蔵は「高台寺」となっている。
高台寺と云えば、北の政所「ねね」が出家、居住した寺。
元々甥っ子と云う事もあり、その繋がりで高台院が関係しているのであろうか。
東西各将の戦後、政局の様相
関ヶ原から2年後、徳川家康が朝廷から「征夷大将軍」の宣下を受け、幕府を開く。
各大名を眺めれば、1615年「大坂の陣」にて豊臣家が滅ぶまでに改易、大坂の陣後に改易になっている大名が、何気に見られる。
関ヶ原後の論功行賞にて加増を受けた者も「転封加増」の名目で、今までの領地から遠方、西国、あまり重要でない土地に追いやられた者が多い。
関ヶ原で東軍に味方した大名と雖も、豊臣家恩顧の大名が何気に徳川家から遠くに追いやられるか、西軍で改易された大名の領土等で、まだ民情穏やかでない土地などが宛(あて)がわれている。
仮令、一時期領土を与えても一揆などが起これば、すぐさま口実として御家取り潰しの沙汰でもする算段があったのかもしれない。
伊達家は日和見な動きを疑われ、僅かながらの加増に終わる。
更に家康は、大坂方・西国大名の抑え、御三家尾張家の城となる「名古屋城」普請のお触れを、各大名に発令している。
城普請の為、各大名に人員・金を拠出せよとの沙汰。
昔は現在の公共事業とは違い、普請を命ぜられた大名が資金・人員を負担せねばならなかった。
江戸時代では河川工事などで各藩の大名が指名され、かなりの負担をしいられ、各藩の財政を圧迫させていた。
城普請は、加藤清正・福島正則・池田輝政などが中心だった。
冗談ではなく江戸時代では自分の藩に工事の割り当てをさせない為、各藩の江戸在住の屋敷に担当の役人がいた。
つまり幕府側にの役人を接待・饗応して、普請工事の指名をさせないのが役目。
当然、外様大名には何度も負担命令があり、薩摩・長州などは苦しめられた。
島津・毛利はかなり虐められた。その怒りが後の倒幕運動に繋がったとも云える。
いずれにせよ関ヶ原以後領地は与えたが、決して各大名を太らせる真似はしなかった。
陰険と云えば、陰険。
結局、関ヶ原は東軍の勝利で終了したが、所詮徳川家の繁栄を築いただけ。
他の大名にとり以後は、あまり楽な行く末でなかったと思われる。
江戸時代は各大名が御家存続の為、ひっそり息を潜め将軍家の顔色を窺い、生き延びた。
それがっ各大名にとり良かったのかどうかは、分からない。
ただ関ヶ原の戦いをもう一度振り返れば、確かに東軍勝利の直接の原因は、「小早川秀秋の裏切り」だったかもしれない。
しかし私は秀秋の裏切りを招いた間接的原因は、
南宮山に布陣した「毛利・長曾我部・安国寺・長束隊」が何もしなかった」
事に原因があると思う。
これ等の部隊が南宮山を駆け下り、東軍の池田・山内隊に切り込めば、戦局は全く違ったものになったと想像する。
吉川広家隊が邪魔だったとすれば、毛利本隊が広家を斬り、吉川隊を掌握すればよかっただけ。
もし毛利の名代総大将が「秀元」でなく「秀包」であれば、そうしたかもしれない。
毛利隊が動けば、つられて長曾我部・安国寺隊も褒章に目が眩み、動いたと思われる。
長束隊は予測不可能だが、所詮日和見の為、西軍有利だと思えばやんわり動いた筈。
南宮山を下り池田・山内隊を突けば、打ち破る事はできなくとも、東軍の家康本陣にかなりのプレッシャーを与えた。
家康は吉川広家の内通により、決して背後を突かれることがないと確信していた。
その為家康は、敵に囲まれる様な形で陣を布いた。
前半は西軍の有利の為、家康本陣の背後で互角の戦いをしていれば、最後まで情勢を見極め、どちらに就こうか迷っていた秀秋の裏切りはなかったかもしれない。
もし秀秋の裏切りがなく東軍が負けていれば、秀秋の不穏な動きはうやむやに終わった筈。
言い訳は後から何とでもなる。
更にもう一つ、今まで心に引っ掛かっていたが、家康がなぜ中山道の秀忠本隊の到着を待たず、戦ったのかと云う事。
それはやはり、 人の心の移ろいやすさ・脆さを熟知していたから と思われる。
いくら吉川広家・小早川秀秋が裏切りを約束していても、いつ心が変わるか分からない。
幼少時、今川家の人質として過ごし、桶狭間後独立。織徳同盟を経て、本能寺後に秀吉に臣従。
その間、人の心の移ろい易さを見てきた家康にすれば、人の心は当てにならないと云う事が、身に染みて分かっていたのではないかと思う。
勝負所を間違えなかったと言えるかもしれない。
本能寺の変後、毛利とすぐさま和睦。中国大返しを実行した秀吉の様に。
そう考えれば、今迄何か心に引っ掛かっていたものが取れたような気がした。
実際、関ヶ原の地に立ち
過去に関ヶ原を2度訪れ、実際に其々の大名が布陣した陣跡に立ち、当時の各大名の立場で色々戦況を考えた末、上記の考えが頭に浮かんだ。
現地に行き笹尾山の三成の陣跡に立った時、三成の旗印が見えた。
「大一、大万、大吉」と呼ぶらしく、
意味は「一人が万人に、万人が一人に尽くせば皆幸せになる」と言う意味らしい。
確かにそう解釈するのが妥当かもしれない。しかし今回、敢えて私なりの勝手な解釈を試みた。
西軍石田三成本陣笹尾山からの旗印(写真:個人撮影)
「豊臣政権、何世代も栄え、君臣下々みな大平の世を過ごす」。
見事に三つが達成され「三つが成る」。三成に懸けたものであろうか。それを補佐するのが私の役目だと。
三成の旗印を見た時、ふとこの考えが頭をよぎった。
豊臣家は220万石から、摂津・河内・和泉の60万石の一大名に落された。
更に家康は豊臣家が直轄していた重要都市、金山、銀山などを全て没収。徳川家の直轄地とした。
豊臣家が保持していた政治的権力も全て剥奪した。
大坂方は当初反対の意を示したが、西軍敗戦でどうする事もできず、しぶしぶ従った。不満は燻り続け、豊臣家滅亡となる「大坂の陣」に繋がる。
豊臣家滅亡をもち、長く続いた戦国の世が終わりを告げる。
最後に歴史家であり思想家でもある「徳富蘇峰」の言葉を引用し、締めくくりたい。
およそ関ヶ原役の如く人間の弱点を露骨で赤裸々に発言したものはない。陰険なりと云はん乎、武悪なりと云はん乎。両天秤でなければ必ず表裏ある。二枚舌や、二重腹は云ふまでもない。人は人と相疑ひ、人は人と相欺く。中立を装ふて形勢を観望せざえば、必ず内通して、逃げ道をこしらへておく。裏切る者もあれば、またその裏を掻く者もある。真にあさましき人心は、遺憾なく、この一場の葛藤に暴露せられた。公義に託して、私怨を報ずる如き、公事を名として、私利を営むが如きは、ほとんど尋常の茶飯であった。
まさに現代にも通ずる言葉と云えよう。
前回:関ヶ原の戦、勝敗を分けた要因3(各大名の思惑が入り乱れ、決戦へ)
・参考文献一覧
【逆説の日本史12 近世暁光編】井沢元彦
(小学館・小学館文庫 2008年7月発行)
【私説・日本合戦譚】松本清張
(文藝春秋・文春文庫 1977年11月発行)
【CG日本史シリーズ ⑪決戦関ヶ原】
(双葉社・双葉社スーパームック 2008年10月発行)
【真相謀反・反逆の日本史ー歴史を動かした事件の真実】
(晋遊社・晋遊社歴史探検シリーズ 2012年4月発行)
(文中敬称略)