宋代、科挙に失敗した男が、西域の砂漠で見たもの 井上靖『敦煌』
懐かしい小説を読み返しました。作品は、井上靖『敦煌』です。
1988年のバブル経済華やかなりし時、映画化もされました。
当時を反映、広大なスペクタクル作品となったのを記憶しています。
今回は原作と映画を踏まえ、述べてみました。
目次
登場人物
◆趙行徳
科挙の最終試験「殿試」を受ける為、宋の都開封にやって来た進士。
殿試を受けるため順番待ちをしていたが、自らの過ちで居眠り。殿試の機会を逸し、落第する。
失意の中、開封の街を彷徨う。その際、開封の町で売られていた「西夏女」を何故か助ける。
行徳は助けた御礼として、西夏女から何か文字が書かれたものを受け取った。
行徳は文字を見た瞬間、書かれた文字に何か惹かれ、西域の砂漠の中の新興国、西夏を目指す事を決意する。
◆朱王礼
西夏軍、漢人部隊の隊長。西域で趙行徳と出会い、数々の苦難を供にする。
数々の修羅場を潜り抜けた二人には、やがて深い友情が芽生えた。
趙行徳と供に、密かに惚れたウイグル娘の死の哀しみを分かち合い、いつしか李元昊を討つ決意をする。
◆ウイグル王族の娘
西夏に滅ぼされた、ウイグル王族の娘。甘州城の狼煙台に潜んでいた処、趙行徳に見つかり、匿われる。
次第に行徳に打ち解け、互いに心を交わし合う。
或る日、行徳は西夏文字を学ぶ為、西夏の都興慶(イルガイ)に行く事となる。
娘の身は朱王礼に預けられるも、いつしか李元昊の側室となる。
数年後、行徳と再会。失意のあまり、城壁から身を投げ、落命する。
◆李元昊
西夏の皇太子。西夏の軍事指揮権を握る。父李徳明の死後、王位を継ぐ。
周辺諸国に侵略を繰り返し、大国を築く。征服したウイグル王族の娘を側室にする。
しかし娘は婚礼の最中、自殺する。
娘の死により、趙行徳と朱王礼に恨みを買う。
◆曹延恵
瓜州の太守。西夏に臣下の礼を尽くすも、李元昊に攻められる。
行徳、王礼と供に戦うが敗れ、沙州(現在の敦煌)の兄の許に逃げる。
沙州に逃げるも西夏軍に攻められ、身を炎に包み、自害する。
◆曹賢順
沙州の太守、延恵の兄。弟が守る瓜州が西夏に攻められる。
逃げてきた弟、王礼と供に戦うも敗戦。戦死する。
◆尉遅光
元于闐王族の末裔。粗暴で強欲。度々行徳と衝突する。ハゲタカの如く、儲けようとする。
人間性が全く感じられない悪徳商人。
開封にて西夏女との出会い
西暦1026年、「趙行徳」は科挙の最終試験「殿試」を受ける為、北宋の都「開封」にやってきた。
行徳は最終試験に辿り着くまで、常に優秀な成績を修めて来た。
行徳は最終試験で自分が落第するなど、夢にも思ってなかった。
行徳は最終試験の順番を待っていたが、なかなか自分の番がやって来ない。
なかなか呼び出されない中、行徳は不覚にも睡魔に襲われ、眠ってしまった。
行徳が目覚めた時、既に試験は終わっていた。
眠っている間に自分の番が回ってきたのかもしれないが、行徳は自らの失敗で試験を放棄した。
次の科挙の試験迄、3年。行徳は絶望に打ちひしがれ、あてもなく街を彷徨った。
あてもなく街を彷徨中、何か人だかりが見えた。近づいてみれば、女が売られている現場だった。
女は明らかに、漢人とは違う風貌をしていた。女を売ろうとしている男も、漢人とは違っていた。
女はどうやら、西夏女らしい。男は西夏女を、豚並みの値段で売ろうとしていた。
行徳は何か女のふてぶてしい態度に惹かれ、所持金を男に渡し、西夏女を解放した。
行徳は別に女をどうする訳でもなく、その場を立ち去った。
立ち去った行徳の後を、西夏女が付いてきた。
西夏女は行徳を掴まえ、
「タダで助けてもらうのは嫌だから私が持っている物をやる」
といって持っている小さな布を差し出した。
行徳が布を見ると、何やら文字らしきものが書いてある。しかし、漢字ではない。
女に聞いてみた処、どうやら西夏の文字という事。しかし女にも何が書いてあるか分からないという。
それだけ告げた後、女は行徳の許を離れ、何処に立ち去った。
行徳は布の文字を見た後、途轍もない衝撃を受けた。
先程までの自分とは、明らかに違う自分がいるのを自覚した。
未知なのもに対する、好奇心とでも言おうか。
科挙に失敗して、落ち込んでいた自分が何かつまらない存在に感じた。
行徳の心の中で何かが囁き、変わってしまった瞬間だった。
行徳は書かれてある文字を解読すべく役所を尋ねてみた。しかし役人の長官も分からないという。
役所の長官は漢語を似せた文字であり、つまらない文字だ。
所詮蛮族が作った文字と馬鹿にした。
行徳は
「一民族が文字を持つと言う事は、大変な事であり、今後宋にとり憂慮すべき事態なのでは」
と長官に述べた。
すると長官は
「西夏は所詮戎の輩であり、恐れるに足らず」
と歯牙にもかけない。
二人はしばし口論するが、そのうち長官は行徳が疎ましくなり、役所から行徳を追っ払った。
行徳は西夏が国として独自の文字を持った事に大変な関心を示し、更に西夏の将来性に魅力を感じた。
行徳は西夏に惹かれ、西夏行きを決意する。
行徳は西夏は此れからの国と感じ、西夏の将来の可能性に賭けた。
西域に向かう行徳
趙行徳は科挙に失敗した翌年、西暦1027年、霊州(現在の寧夏回族自治区銀川あたり)に近い集落にいた。
都(開封)を出てから既に半年が経っていた。
行徳は西夏の都「興慶:イルガイ」に入る為、涼州に向かった。
涼州に向かうウイグル商人の隊商にまぎれていたが、途中で戦禍に巻き込まれてしまった。
行徳は、一人になってしまった。
何も分からず途方にくれていた時、涼州城(現在の甘粛省武威あたり)が見えた。
訳が分からず城に入った処、何処かの軍が駐屯していた。
行徳は駐屯していた軍に捕縛され、無理やり軍に編入されてしまった。
どうやら駐屯していた軍は、西夏軍の漢人部隊の模様。
行徳は西夏軍の一員として、ウイグル軍と戦わされた。
やがて行徳は約一年近く、涼州城でウイグル軍と戦った。
甘州を攻める西夏軍
一年近く西夏軍に所属後、行徳の部隊はウイグル人の本拠地、甘州(現在の甘粛省張掖あたり)を攻める事になった。
一年ちかく部隊で過ごす中、行徳は漢人部隊の隊長「朱王礼」と仲良くなった。
行徳は王礼に、「自分は西夏文字を学びたくて此処までやってきた」と述べた。
行徳は西夏文字を学ぶ為、西夏の都イルガイに行かせてくれと王礼に願い出た。
王礼は行徳に対し、
「今度のウイグルとの戦いが終わり生き残っていれば、興慶(イルガイ)に行かせてやる」
と行徳に約束した。
人伝手に聞いた話によれば、王礼は元々霊州の宋の兵隊だったようだ。ある時、西夏に攻められ捕虜となった。
王礼はそのまま西夏軍に組み込まれ、今の前線に配属されたらしい。
彼はどうやら自分の過去を恥じている様子。
甘州に向かう途中、何度かウイグル軍と戦闘になった。その度、行徳は運よく生き延びた。
幾つかの戦闘後、行徳、王礼の軍は甘州城に着いた。
ウイグル人は城捨て、既に逃げ出した様子。
王礼・行徳は城内を探索する為、50騎の決死隊を編成。甘州に入城した。
甘州城での出会い
行徳は探索軍の先頭になり、城を偵察した。どうやらウイグル軍は西方に逃げ去った模様。
行徳は城の安全を確認。味方の隊を城に引き入れる為、狼煙台に昇った。
行徳が狼煙を上げようとした時、一人の女を発見した。
女は当初、行徳を警戒した。行徳が女を観察すれば、女はどうやらウイグル王族の娘らしい。
後に判明するが、女は一度、一族と供に城を脱出した。
しかし自分の婚約者の言葉を思い出し、一人で城に戻ってきたと行徳に告げた。
行徳は咄嗟に女を匿った。何故匿ったのか分からない。ただ今は、女を匿うのが最善と思われた。
初めは警戒していた女も、徐々に警戒心を解き、幾つかの言葉を行徳に話すようになった。
女を匿った一週間後、行徳は王礼から西夏文字を学ぶ為、興慶(以下イルガイ)に行くよう朱王礼から命令を受けた。
行徳はこれ以上女を匿うのはムリと判断。女の事情を、王礼に話した。
そして自分は、
「一年以内に西夏文字を習得して戻ってくる。それまで待っていてくれ」
と告げ、女の処遇を王礼に託した。
かくして行徳は西夏文字を学ぶ為、西夏の都イルガイに行く。
行徳との別れ際、娘は自分がしていた2つの首飾りの1つを、行徳に渡した。
その時、後に首飾りが重要な意味を持つ事になろうとは、行徳自身も知る由もなかった。
興慶(イルガイ)での行徳
行徳はイルガイで、必死に西夏文字を学んだ。必死で文字を学んだ故、西夏の役人から優秀さを認められ、西夏文字と漢語の辞書を作る業務に携わった。
仕事に携わった後、既に約1年半の年月が流れていた。
行徳の現在の生活は前線で荒んだ生活していた時に比べ、全く隔絶された世界だった。
辞書を作り終えた行徳は、開封からはるばる夢見た西夏を見聞する事ができた。
西夏文字を学んだ事で、行徳の当初の目的は達成された。
宋の都で西夏女にあってから、既に3年の月日が流れていた。
行徳は逡巡した。今後甘州に戻ると言う事は、再び前線に身を置くことを意味する。
今更、宋に戻る気はない。
そうこうする中、また1年が過ぎた。
行徳は決してウイグル女・朱王礼の事を忘れた訳ではないが、何か遠い過去の様に思えた。
行徳は当てもなく街をぶらついていると、偶然にも3年前、開封の街で助けた西夏女に出会った。
結果は自分の勘違いであった。
勘違いだったが、行徳の胸には何か忘れかけていた感情が湧き起こった。
何かが行徳の心を揺さぶった。
帰らねばならない。ウイグル娘と王礼との約束を果たさなければならない。
前線の甘州に戻った行徳
甘州城に戻った行徳は、王礼と再会した。
早速ウイグル娘の身を聞いたが、王礼はただ娘は死んだと云う。
行徳は詳しく聞こうとするが、王礼は死んだと繰り返すのみ。
行徳は不思議に思い乍も、今度の吐蕃との決戦に備える必要があった。
戦の前、西夏皇太子「李元昊」の検閲を受ける為、甘州城に向かった。
行徳は甘州城に入る。
入場後行徳は、ウイグル娘と過ごした思い出を目に焼き付けておこうと思い、一人で城内を徘徊した。
城内を徘徊している時、期しくも李元昊の一団の出くわした。
行徳はその一団の中に、思わぬ人物を発見した。
あの娘である。行徳がイルガイに行く前、王礼に託したウイグル娘である。
行徳は確かめようと、女に近寄った。確かめた結果、間違いなくあの娘だった。
相手もどうやら行徳の存在に気付いたようだ。
女は気付いたが、何食わぬ顔をして、そのまま通り過ぎてしまった。
行徳は隊に帰り、王礼を責めた。
「ウイグル娘は生きていた。生きていて、李元昊の側にいた、どうしてだ」と。
王礼は行徳の問いに冷静さを失った。しかし何も答えなかった。
ウイグル娘の死
甘州城で李元昊の検閲後、甘州城壁から李元昊の今度の戦いの訓示があった。
しかし李元昊の訓示は城下の兵の声・雑音にかき消され、行徳には全く聞こえなかった。
その最中、何やら城壁から黒い点が飛んだのが見えた。行徳には一瞬の出来事だった。
翌日行徳は王礼から、ウイグル娘が本当に死んだ事を聞かされた。
娘は李元昊の訓示中、城壁から身を投げたらしい。
行徳は自分の非力・無力さを悲しんだ。
何故イルガイから、早く帰らなかったかとの自分を責めた。
行徳と同様、何故か王礼も一緒に悲しんだ。
理由はともわれ、二人は供にウイグル娘の死を悼んだ。
戦いの為、各地転戦
行徳・王礼隊は、甘州から粛州(現在の甘粛省酒泉あたり)に兵を進めた。
宋とは既に数千里はなれ、まさに化外の地であった。
粛州から撤退したウイグル族は、更に西に撤退。行徳・王礼隊は戦う事無く、粛州に進んだ。
粛州にいる間、行徳はウイグル王女の死、更にいつ死ぬとも分からない人間の無常さを感じた。
心を癒す為であろうか、行徳は次第に仏教に傾倒していく。
行徳は戦のない時、寺から仏典を借り読み漁った。
西夏が吐蕃戦に勝利した。
その後、瓜州(現在の甘粛省瓜州県安西あたり)の太守「曹延恵」が、西夏に臣下の礼を取る為、西夏に降った。
兄賢順は沙州(現在の敦煌)太守であったが、西夏に攻められるのをおそれ、西夏に降って来た。
粛州城が西夏の手に落ちた為、瓜州・沙州は名目上は宋の支配下だったが、既に「飛び地」となっていた。
西暦1032年、西夏国王「李徳明」が死去、皇太子「李元昊」が即位した。
李元昊は父と違い、積極的に周辺諸国を侵略。版図を広げる政策を執った。
王礼隊は、2年半過ごした粛州城を出立。瓜州に進駐した。名実供に、瓜州は西夏の配下となった。
瓜州の城下にて
粛州城から瓜州に進軍中、王礼は行徳に聞いた。
「お前は何故、こんな処にいるのだ」と。
王礼にしてみれば、此処は戦の最前線、いつ死んでも可笑しくない。お前の様な文人(知識人)がいる処ではない。
「イルガイから戻って来なければ、戦う事もなかった。ウイグル王女の死に対面する事もなかったろうに」
と言いたいのであろう。
・それに対する行徳の答えは、
「併し、来てしまったからには仕方がないではないか」
・王礼が答える
「そうだ、来てしまったからには、仕方がない。お前は一生この白く草の中で老い朽ちる決心をするために戻ってきたのだからな」
・行徳が王礼に尋ねる。今後どうするのかと。王礼が返答する。
「俺にはまだ為さなければならぬことがある」
行徳には此の時、王礼の言葉の真意が分からなかった。
しかしこの言葉は後に重要な事を意味する。
瓜州に入った王礼隊は、太守延恵から手厚い饗応を受けた。瓜州に駐屯中、行徳は延恵と親しくなった。
戦うのみの兵と違い、もともと行徳は文官的気質で、延恵もまた文化人であり、互いにウマがあったのであろう。
やがて延恵は行徳に色々な仏典を漢語から西夏文字に書き写し、西夏に献上したいと言い出した。
西夏に胡麻をする意味もあったであろう。
行徳は延恵の意見に賛成する。
「しかし一人ではできない、一度西夏の都イルガイにいき、事業の為の人を集めたい」と願い出た。
延恵は行徳の願いを、心良く引き受けた。
延恵はイルガイに行く隊商があるので、隊商に交じりイルガイに行ってはどうかと提案した。
行徳は承諾した。隊商の長は「尉遅光」という人物。
尉遅光は強欲で抜け目がなく、おまけに粗暴な人間だった。
行徳を自分の隊商に加える見返りとして、早速王礼と延恵に物品を集った。
どうも行徳は尉遅光とそりが合わず、イルガイに行く間、度々衝突する。
再び興慶(イルガイ)へ
行徳は再びイルガイの土を踏んだ。イルガイは行徳がいた3年前とすっかり様子が変わり、街は活気に溢れ、大国の様相を呈していた。
行徳はイルガイで事業を手伝ってくれる6人の有志を集めた。
人を集めた後、行徳は瓜州に帰る為、再び尉遅光の隊商に加わった。
尉遅光の粗暴は相変わらずであった。
或る日尉遅光は、行徳が身に着けている首飾りに目を付けた。
どうやら首飾りは強欲な商人の目にとり、とても高価なものらしい。
この首飾りが実は最後迄、行徳と尉遅光との争いの種となる。
瓜州の城にて
瓜州に戻った行徳は隊を離れ、延恵の許で翻訳の仕事に没頭した。
その間、王礼の隊は瓜州を出て戦う事が何度かあった。王礼が無事戻る度、行徳は王礼を訪れた。
いつの日か行徳が王礼の許を訪ねた時、王礼が自分と同じ首飾りを持っていることを知った。
行徳は王礼に理由を尋ねたが、王礼は何も答えなかった。
行徳もそれ以上は尋ねなかった。
其の後、西夏の李元昊は本格的に吐蕃を討つ為、大軍を擁し西域に進軍した。
王礼もそれに応じ、出撃命令が下り、瓜州城を出立した。
行徳も従軍する事を希望したが、王礼は行徳に城の留守を命じた。
王礼が出立した後、度々王礼から戦況報告の書が届く。
約10ヶ月後の王礼の書にて此の度、吐蕃との勝利にて瓜州城に凱旋。
西夏本隊と瓜州城にて、合流するとの旨が書かれてあった。
とうとう本格的に瓜州、沙州を配下に治める為、西夏本隊の李元昊がやって来る。
城下は俄に慌ただしくなった。王礼隊を迎える為、西夏本隊を迎える為。
行徳・王礼、憎しみの謀反
王礼は瓜州城に凱旋した。行徳は凱旋した王礼から、意外な言葉を聞いた。
「明日瓜州城は戦闘状態になる為、太守延恵と城内の住民は全て退去しろ」
と行徳に命令した。
行徳は意味が分からず、佇んでいると王礼は
行徳は王礼の言葉に仰天した。しかし冷静に考え、すぐに王礼の言葉を理解した。
今まで王礼の中に燻っていたものが、爆発したのだと。
甘州から粛州に向かう際、王礼が呟いた「やらねば為らぬ事」の意味を漸く理解した。
王礼は表に出さなかったが、ウイグル王女の死で、李元昊に激しい憎悪を燃やしていた。
王礼から初めて、ウイグル王女との関係が語られた。
女の気持ちは分からないが、自分もあの女が好きだった。それを無理やり李元昊が女を奪い、死に追いやった。
女が自分の許を去る時、女から首飾りを受け取ったと行徳は聞かされた。
行徳は王礼の考えに同意した。
延恵も「もはや逃れる術はないと観念」、同意した。
いよいよ李元昊に対し、恨みを果たす時が来た。
朱王礼・趙行徳、反乱軍となる
日が昇った。運命の日、反乱軍となる日である。
王礼は李元昊の本隊が城に近づいた際、一斉に弓を撃ち射殺す作戦を立てた。
狼煙の合図で、西夏本隊が近づいてきた。
弓の射程距離に入った瞬間、城壁から一斉に弓が撃たれた。
一瞬の出来事であったが、確実に西夏本隊の兵を射殺した。
この瞬間から王礼の隊は、西夏軍漢人部隊から「反乱軍」となった。
弓の射出後、夥しい西夏兵の死体が転がった。
城から撃ってでた王礼軍は、必死に李元昊の死体を探したが、李元昊の死体はなかった。
反乱は失敗した。この時を境に王礼軍は、西夏軍に追われる身となった。
沙州の城にて
王礼軍は瓜州城を捨て、延恵の守る沙州に逃げ延びた。沙州の太守曹賢順は王礼・行徳の話を聞き、積極的に協力した。
「どうせ西夏に攻められる立場であり、それがただ早まっただけ」と述べた。
沙州に移動する途中、例の尉遅光に出会った。
尉遅光は行徳から話を聞き、自分が商売ができなくなった事を、行徳に詰った。
相変わらず自分の事しか考えない男。屑とでも言おうか。
王礼・行徳・賢順は、来るべき西夏軍の襲撃に備えた。行徳は戦い備え、眠りについた。
起きた後、行徳は再び尉遅光に出会った。例の如く、しつこく首飾りをよこせと迫る。
この男は、これから迫りくる大乱よりも、首飾りの方が大事らしい。
尉遅光は
「自分はこれから財宝を、皆がわからない処に隠す。お前の首飾りを一緒にかくしてやるからついてこい
と宣う。
行徳は呆れはしたが、財宝の隠し場所だけ聞いた。尉遅光は、鳴沙山の千仏洞と答えた。
石窟の穴に隠せば分からないと述べた。
隠し場所だけ聞き、行徳はその場を離れた。
行徳は街の寺が密集している一角に、足を止めた。
寺を覗けば3人の僧が経典を持ち出す為、荷作りをしていた。
これから戦禍に見舞われるであろう状態で、経典を持ち出そうとする僧たちの姿が行徳の眼に切なく映った。
夜一人になった時、行徳は思った。
そんな気持ちであろうか。
彼是考えている時、王礼から呼び出しがあった。
西夏軍が近くまで来たとの報告があり、王礼と賢順の軍で迎え撃つ為、城を出るとの事。
王礼はこの戦で西夏軍本隊に突撃し、李元昊の首を取ると述べた。
行徳は、これが王礼との最後の別れになる事を悟った。
王礼は出立した。行徳は王礼の最後の姿を見送った。
経典を隠す行徳
行徳は延恵に報告する為、王宮に入った。
延恵は相変わらず、椅子に座り虚脱した様子だった。もう既に己の運命を悟ったらしい。
延恵と会話を交わす中、行徳は延恵のある言葉に胸を打たれた。
延恵の言葉に触発された行徳は、できるだけ経典を後世に残す為、尉遅光が述べた秘密の隠し場所に経典を移そうと画策した。
勿論、尉遅光には経典とは知らせぬ様に。
経典と分かれば、あの強欲な尉遅光の事、意味のない事だと怒り出すに決まっている為。
行徳は尉遅光と話を済ませると、昨夜の寺に行き、経典を隠す経緯を説明をし、荷を預ける事の了解を得た。
夜を待ち、荷を鳴沙山の石窟に隠しに行った。尉遅光は財宝類とでも思っているらしい。
行徳は経典を隠しに行く際、
行徳は千仏洞に着き、経典を隠す作業に全力を注いだ。
何故なら、尉遅光は荷の中味を知らない。
尉遅光が更に財宝を隠す為、沙州の街に戻っている間に、作業を完成させなけらばならない。
経典を必死に隠し、最後の埋め込み作業は一緒についてきた僧侶に任せ、行徳と荷夫たちは一旦、城に戻った。
城に戻った行徳は王宮に入った。曹一族は既に西へ逃げていて、延恵だけがまだ椅子に座っていた。
延恵は既に観念した模様。
延恵は行徳に、これまでの曹一族の経歴を示した家伝書を託した。
尉遅光は王宮で略奪の限りを尽くした。
行徳は宿舎に戻り、深い眠りについた。眠りの中で行徳は、朱王礼が死んでいく夢を見た。
行徳は眠りから覚めた。覚めて部隊本部にいき、朱王礼が戦死した事を知った。
王礼の死に伴い、沙州城を焼き、兵たちは方々に逃げる算段をしていた。
行徳は王礼の死により、もはや城に留まる事、西域に居る事が無意味だと悟った。
行徳は長い間、茫然自失としていた。城は火に覆われている。煙の中で行徳は尉遅光に出会った。
尉遅光は行徳に、千仏洞に同行するよう命令した。
行徳も千仏洞の様子が気になり、同行した。
途中で尉遅光が又行徳に、首飾りを寄越せと迫った。
今回は口論だけでなく尉遅光は、力ずくで首飾りを奪おうとした。
2人は格闘になった。格闘している最中、2人に騎馬隊が近づいて来た。
2人はよける間もなく、騎馬隊に蹂躙された。
格闘中、首飾りの糸がきれ、宝石が砂に飛び散った。行徳は気を失った。
一瞬気が付いたが、又深い眠りに落ちた。
其の後の行徳の行方
李元昊は沙州を攻略。遂に霊州、甘州、涼州、粛州、瓜州、沙州を併呑した。
西夏は名実供に、大国となった。
西暦1038年、李元昊は国を「大夏」と改め、自らは皇帝と称した。
西暦1026年、趙行徳が開封の都で殿試に失敗した時から既に、12年の歳月が流れていた。
沙州が西夏の手に落ちた4年後、ある一団が、千仏洞の石窟の穴倉を掘り起こそうとした。
併し掘り起こそうとした寸前、雷鳴がとどろき人夫の頭上に落ち、何名かは絶命した。
その中に、嘗て尉遅一族を名乗る末裔がいた。
西暦1043年、長い戦乱で西夏は国力が疲弊。遂に宋と講和を結ぶ事態になった。
講和成立後、鳴沙山の千仏洞も修復された。
西夏から派遣されて来た吏僚の許に、沙州城に棲む僧から修復願いが出された。
費用も労力も自弁で提供するとの事。
僧の修復の動機は、
「西夏が沙州に侵攻した際、難を逃れた3人の僧が此処まで避難してきた。
自分以外の2人は不幸にも、流れ矢にあたり絶命した。その供養をしたい」
との理由だった。
おそらく経典が発覚するのをおそれ、更に慎重に隠す為、自ら願い出たものと思われる。
西夏が沙州を征服してから約30年後の西暦1068年頃、西夏と宋の和睦が破られようとしていた。
同じ頃、于闐から来た隊商が于闐の旧王族から末裔から頼まれたとの理由で、千仏洞を管理する三界寺に寄進する者が現れた。
千仏洞には嘗て一族が寄進した仏洞がある。荒廃していた場合、修復して欲しいとの事だった。
依頼された隊商は、もう一つの預かり品をもっていた。
それは嘗て沙州を支配していた、曹一族の家伝書だった。
家伝書の依頼文には丁寧に、西夏文字・ウイグル文字・漢語で書かれてあった。文の最後には
と書かれてあった。
最後に
話は物語であるが、実際モデルとなった出来事が存在する。
時を経た1900年代初め、たまたま道士がやってきて砂に埋もれていた石窟群を発見した。
今の敦煌莫高窟である。
道士はある窟に何かが埋まっているのを発見。役所に届け出た。
しかし当時の中国は、清朝末期。1900年の義和団事件等、清が列強に侵略されていた時期も重なり、社会は混乱を極めていた。
とても調査などする余裕はなかったであろう。
やがてイギリス、フランス、ロシア、日本などの探検隊がやって来て、石窟に隠してあった経典を買い取った。
道士は全く経典の価値を知らなかった。経典は徐々に少なくなり、多くが海外に流出した。
殆どが待ち去られた後、漸く北京から役人が来て、残りの経典を持ち去った。
各国が持ち去った経典の数々が、後に大変貴重な資料だと判明した。
何処の国でも同じだが、国が衰えた時、国の財産ともいえる貴重な文化財・芸術品等が、海外に流出してしまう不幸が往々にしてある。
嘗て日本にもそんな時期があった。
例を挙げるならば、国宝とも云うべき「平治の乱」の絵巻物が、何故ボストン美術館に所蔵されているのか。
作者は敦煌で見つかった数々の経典が隠された経緯を、きっと想像して書いたのであろう。
歴史の継承とは色々な人に手に因り、受け継がれていくものだと改めて気づかされた。
・参考文献
【敦煌】 井上靖作
(新潮社 新潮文庫 昭和40年6月発行)