長年の夢が叶った瞬間、胸に去来するもの 芥川龍之介『芋粥』

人間は長い間、憧れていた夢が現実となった時、果たしてどのような思いが頭を過るのか。

今回、その様な事を考え乍、芥川龍之介の小説『芋粥』を読み返してみました。

 

・題名 『芋粥』

・原作 芥川龍之介作  (大正5年 9月発表)

 

登場人物

何某の五位

名前さえない、身分の低い侍。何時の日か、飽くことなく芋粥を食してみたいと夢見る下郎。

 

藤原利仁

藤原有仁の娘婿。五位に芋粥を鱈腹食べさせようする。

 

藤原有仁

藤原利仁の舅。越前敦賀に屋敷を持ち、五位に芋粥を食べさせる為、準備する。

 

作品概要

舞台は元慶末か仁和の頃。西暦877年~889年であろうか。

作品中でも作者が述べているが、年代は差し当たり問題でない。

時代は平安時代と認識できれば良いであろうか。

 

一人の冴えない、宮仕えの侍がいた。

当時の為政者「藤原基経」に仕えていたというが、名前もなく「某の五位」とだけ書かれてある。

それ程、名前を書くまでもない、下賤の身であったのであろう。

 

男は位もさること乍、風采も上がらぬ男だったらしい。

書かれてある特徴をみれば、「背が低い、赤鼻、目尻が垂れ下がり云々」。

これだけでも、決して良い風貌と思えない。兎に角、体裁のあがらない男だった。

 

身分も低い、風貌も上がらない男の受ける職場・社会から受ける待遇は凡そ、検討がつく。

それは現代でも変わらない。

 

男は上司はおろか、下の者にも馬鹿にされ、町ゆく童にまで馬鹿にされる始末。

五位は人に馬鹿にされても怒る訳でもなく、ただ日々を漫然と過ごしていた。

 

しかしこんな男にも、たった一つだけ楽しみがあった。

五位は5、6年前から「芋粥」という物に興味をもっていた。

 

芋粥とは、山芋を切り、甘葛の汁で似た粥の事。

当時は貴重な食であり、五位などには到底、口にする機会などなかった。

五位は芋粥を飽きる程、飲んでみたいと云う願望があった。

 

しかし五位の身分では、到底不可能に近かった。

人間は夢を見る、それは人によって様々。夢を現実する者もいるが、それは一握りにの人間。

大概他愛もない夢を抱き、実現すればしめたもの。

しかし夢は現実に押し破られ、夢を見て一生を終える者が大半ではなかろうか。

 

某の五位が一生叶えられないであろう夢が、意外に身近で現実的なものとなった。

人間、到底不可能と思われた夢が以外にあっさり、それも自分の力ではなく、他力本願で叶った時、一体どのような行動をとるであろうか。

 

或る日、藤原基経の屋敷に大臣を招いての宴が催された。

宴の後、残りの御馳走はその家に仕える侍達が頂くのが慣わしとなっていた。

例の某の五位も残りの馳走にあやかった。

 

その中に例の芋粥があった。五位は数年来、楽しみにしていたが今年はとくに少なく飲み干した後、思わず

 

「何時になったら、これに飽ける事かのう」

 

と呟いた。

 

その言葉が終わらぬ中に、五位に言葉を返した人間がいた。

その人物は同じ藤原家一族の大臣(民部卿)時長の子、「藤原利仁」だった。

 

利仁は五位の言葉を聞き、嘲笑との憐憫とも分からない様子で

 

「もしよろしければ、自分が芋粥を飽きる程、食べさせて進ぜよう」

 

と述べる。

 

五位はいきなりの申し出で、どう答えて良いか返事に窮した。作品中の言葉を借りれば、

 

「いじめられている犬は、たまに肉を貰っても容易によりつかない」

 

様な状態だった。

 

五位が気が付けば、いつの間にか周囲の関心が、二人に寄せられているのを感じた。

五位は益々返事に窮し、どうにでもとれる曖昧な返事をしてしまう。

 

五位は中途半端な返事をした為、また何時も皆から馬鹿にされている立場に引き戻された。

そして周囲の人間は、少しの間でも五位に関心を寄せた事が、バカバカしく思えたのであろう。

それっきり利仁と五位の話は、立ち消えになってしまった。

 

そんな事があった4、5日後、五位は利仁から、芋粥をご馳走するとの招待を受けた。

五位は、利仁が御馳走する場所に向かった。

 

利仁が案内される場所は京周辺でなく、越前敦賀の利仁の屋敷と聞いた際、五位の慌て唄めきぶりが面白い。

臆病と言おうか、小心者とでも言おうか。五位らしいとでも言えば良いであろうか。

 

その五位が利仁の豪勇ぶりを見るに連れ、何か自分も利仁の様に逞しくなった心持になっていく心境が、何か人間臭くて愉快。

或る意味、「虎の威を借る狐」とでも言おうか。

 

越前の利仁の邸宅に着いた五位は、床の中で明日の芋粥を食する事を考えた。

明日はいよいよ、長年夢に見た芋粥がたらふく食える。

 

それは嬉しくもあり、一方で夢の実現が、すぐに来てはならぬと云う葛藤に襲われた。

 

実現が難しく、長年乞い憧れていた夢がふとした偶然で、いとも簡単に実現してしまう事への不安とでも言おうか。

夢が実現した後、襲われる独特な虚無感に対する恐怖でも言えば良いのか。

五位はそんな気持ちに、かられたのではなかろうか。

 

今まで陽の目を見なかった境遇の人間が、偶然世間に脚光を浴びた状況に似ている。

五位はまさに今、その立場にいた。

 

頭の中でそのような考えが巡り、なかなか寝付かれずにいたが、やがていつの間に眠ってしまった。

 

翌朝、五位が目が覚め屋敷の庭をみれば、山芋が山の様に積まれてあった。

「山の如く積まれた山芋を使用人が、大勢で器用に作業を熟し、芋粥をつくる光景」

を見た五位は、芋粥を食す前に、既にお腹が一杯になってしまった。

 

あまりにも夢があっけなく叶いすぎ、拍子抜けした気持ちであろうか。

それとも夢が叶った事への脱力感であろうか。それとも恐怖感であろうか。

 

約1時間後、五位は利仁と利仁の舅と一緒に朝食を共にした。

目の前にあるのは、一斗ほどもある器に、なみなみ入った芋粥であった。

 

一斗
一斗は一升の約10倍。よって約18リットルと言う事。

 

五位は芋粥を飽きるほど食してみたいと思う気持ちは、とうに消え失せていた。

今では芋粥を口にするのも躊躇う程、嫌気がさしていた。

 

しかしここまでしてくれた利仁と舅の好意を無にする事になる為、よそわれた芋粥を我慢して、半分ほど飲み干した。

 

半分ほど飲み干した時、五位はもうこれ以上は飲めないと辞退した。

それを見た利仁は五位が遠慮したと捉え、更に芋粥を勧めた。

もしその時、芋粥欲しさに狐が現れなければ、五位は無理やり芋粥を勧められていた。

 

五位は何か芋粥を食する為、此処に来る以前の自分を思い出し、懐かしんだ。

 

見ずぼらしい恰好で職場の侍・町の童たちにまで馬鹿にされていた五位だが、ささやかだが芋粥をたらふく食べてみたいと言う願望を持った自分を、何故か懐かしく思い出していた。

 

追記

人間だれでも何か夢・希望を持っている。

実現できるもの、実現不可能だが、何か漠然としたものを一つや二つ、持ち合わせているであろう。

 

夢・希望は、人が日々生きる上で、目標となり励みにもなろう。

その夢・希望が本人の意図と異なり、全くの偶然で達成されてしまえば、本人は果たしてどの様な気持ちになるであろうか。

 

自分の努力が実り、夢・希望があと僅かで達成される立場にいて、目の届く範囲であれば、ある程度の心の準備が出来るかもしれない。

しかし、それですら戸惑う事もある。

 

夢・希望が偶然達成された時、多くの人間はおそらく躊躇うのではなかろうか。

素直に幸運だと思える人は、少ないかもしれない。此れでいいのだろうかと疑問が湧く。

私もそうだが、人間は願いが叶った瞬間、喜びは最大だが、次第に感激が薄れてしまう。

 

何故だろうか。

長年の願いが達成され、無になった瞬間とでも言うだろうか。

喜びと同時に、「一抹の淋しさ、虚しさ」が胸に去来する。

 

やはり人間は「夢・希望」が無くては、生きていけない。

しかしそれが実現してしまえば、また新たな夢・希望を見つけなければならない。

 

夢を探す事、実現する為にまた長い年月を掛けなければならない。

人生とは、その繰り返しなのかもしれない。

 

そして何時しかその事に倦む時がやってくる。

今回作品を読み返した際、そんな考えが頭をよぎった。

 

子供の頃、遠足に行く前夜、興奮してなかなか寝付けない事があった。

しかし当日になれば不思議と昨夜の興奮は冷め、淡々と行事を熟す自分がいるのに気づく。

これと似たような感覚であろうか。

 

遠足に限らず、旅行、コンサート、映画、デート等も同じ。

実現までの過程が楽しく、いざ実現してしまえば、其れまでの想像が膨らみすぎてしまい、想像していたに比べ、左程面白く感じられないのと同じ感覚。

 

敢えて付け足せば、物を購入した時も同じ。

購入した日が一番嬉しさのピークであり、日が経つにつれ、手に入れた時の感動が薄れていく。

やがて物の価値自体もなくなってしまう。

それにも似ているかもしれない。

 

(一部敬称略)