当時の社会世相を反映した映画 黒澤明監督『天国と地獄』
★懐かしい日本映画、黒澤明監督シリーズ
・題名 『天国と地獄』
・公開 東宝1963年
・監督 黒澤明
・製作 田中友幸、菊島隆三
・撮影 中井朝一、斎藤孝雄
・音楽 佐藤勝
・脚本 黒澤明、菊島隆三、久板栄次郎、小国英雄
・原作 『キングの身代金』エド・マクベイン作
目次
出演者
・権藤金吾 :三船敏郎 ・権藤れい子 :香川京子
・権藤純 :江木俊夫 ・戸倉主任警部:仲代達矢
・竹内銀次郎 :山崎努 ・河西助手 :三橋達也
・青木運転手 :佐田豊 ・青木進一 :島津雅彦
・田口部長刑事:石山健二郎 ・荒井刑事 :木村功
・中尾刑事 :加藤武 ・捜査本部長 :志村喬
・山本刑事 :名古屋章 ・新聞記者 :千秋実
・靴工員 :東野英治郎 ・麻薬患者 :菅井きん
・その他
土屋嘉男、大滝秀治、藤田進、浜村純、西村晃、
藤原釜足、常田富士男、北村和夫など
あらすじ
靴製造会社の取締役を務める権藤金吾は、中卒から靴工場で働いて来た、叩き上げの重役だった。
会社は今、転換期を迎えていた。丈夫で長く品質を保つ靴を作ろうする社長・権藤派。
一方、品質は良くないが低コストでデザイン性がよく、女性受けする靴を作ろうとする他の重役派に意見が分かれていた。
社長以外の重役は、低コストでデザイン性の良い靴を作る方針に固まっていた。
従って次回の株主総会で社長が持つ株数を上回り、重役たちが社長を追い落とす手筈として、権藤を買収する算段だった。
映画冒頭は、重役達が権藤の買収を試みようとするシーンから始まる。
しかし権藤の考えはノー。権藤は一介の靴職人から這い上がり、取締役まで昇りつめた人物。
自分の理想の靴をつくりたいとの思いから、他の重役達の申し出を拒否した。
権藤は逆に他の株を買い占め、自分を買収しようとした重役達を会社から追放しようとしていた。
会社の株を売却してくれる人物が現れ、大阪に自分の片腕である河西を買い付けに行かせようとした。
その矢先、子供が誘拐された。
誘拐されたのは権藤の子供と思われていた。
だが誘拐犯は権藤の子供ではなく、間違えて権藤の子供と一緒に遊んでいた、運転手の子供を誘拐した。
誘拐犯は子供を間違えたが、権藤に身代金を要求してきた。
権藤に要求された身代金は、株を買い付ける為の金。権藤は葛藤する。
株を買えば、自分と意見を異にする重役達を会社から追い出す事ができる。
身代金を払えば、株を買う金がなくなる。
初めは渋っていた権藤だったが、迷った末、誘拐犯の要求を呑む事を決意する。
身代金を払う事で株を買い損ねた権藤は、逆に会社から追放される身となった。
片腕だった河西は裏切り、重役側に就いた。権藤はどこの会社でもありがちな、派閥抗争に負けてしまう。
しかし誘拐犯は、そんな事などお構いなし。権藤に身代金に払わせる事に成功する。
誘拐された子供は無事戻る。しかし事件がきっかけで、権藤は完全に会社から追放されてしまった。
犯人は身代金受け取りに成功したが、権藤・警察達は身代金を支払う際、ある細工をした。
その細工が功を奏し、犯人が判明する。さて犯人の正体は。
犯人逮捕に結びつく細工も面白いが、犯人の身代金受け渡しの方法が、更に凝っている。
興味深い事に、当時の世相を反映した社会情勢、町の様子なども映像から見て取れる。
ドキュメンタリー的な、社会派映画と言えるかもしれない。
出演者たちが豪華。
とくに犯人役の山崎努が、なかなかの演技を披露している。
作品経過・見所
映画の初めに、権藤宅で会社経営の密談をする場面から始まる。
権藤邸と、屋敷から見える貧相な街並みの対比が、これから始まる物語の展開を描きだしているのが面白い。
伏線と云える。犯人も電話でこの事を皮肉っている。因みに、撮影場所は横浜。
何気に権藤の暮らしが裕福なのが見て取れる。
当時としては珍しく電話が自宅に2台設置している。
携帯電話が華やかなりし現代では考えらなないが、一般に電話が広まったのは、1970代の頃。
それまでは商売でもしていない限り、自宅に電話があるのは稀だった。
劇中の犯人も、公衆電話を使っている。
私が幼少の1970代、まだ固定電話がなかった家庭がチラホラ見られたのを記憶している。
現に、私の家に電話を借りに来た人がいた。誠に、しみじみと時代を感じさせる映像。
劇中でシャワーを浴びている場面があるが、当時シャワーがある家も珍しい。
当時はまだ、銭湯が主流。
権藤は市場に出回っている会社の株を買い占め、会社の実権を握る作戦を練った。
大阪の株主から買い付けの約束を済ませ、助手の河西を大阪に買い付けに行かせる手筈だった。
そこに権藤の子供を誘拐したとの電話が入る。当然、権藤の計画は頓挫した。
しかし誘拐された子供は権藤の子供ではなく、運転手青木の子供と判明する。
子供が一緒に遊んでいて服を取り換えた為、犯人が間違えた模様。権藤の妻も、一瞬間違えた程。
先程まで明るかった外も、何時の間にか暗い。それは、権藤宅の窓からも伺える。犯人が間違えるのも無理はない。
事件当初の権藤は、確かに野心家で嫌な奴だったかもしれない。捜査を担当している田口刑事も同じ事を述べている。
犯人の電話で自分の子供が誘拐されたと思った時、権藤は警察に連絡する気はなかった。
しかし運転手青木の子供と分かると、真っ先に警察に連絡している。
確かにこの段階では、鼻持ちならない人間だったかもしれない。間違えられた青木親子は親一人、子一人の身。
誘拐した犯人はなかなかの知恵者。間違えたのを逆手にとり、権藤を脅す有様。
誘拐から一夜明け、権藤は自分の胸の内を皆に話す。
「身代金は払わない。払う道理はない、払えば自分は身の破滅だと」 。確かに、その通りだった。
権藤の片腕だった河西は、寝返って重役側に就いた。河西の素早い豹変ぶりが、見て取れる。
権藤に問い質され、あっさり白状している。
重役3人は権藤と組んで、社長を追い出す計画だった。
しかし誘拐を機に、今度は社長と重役が手を組み、権藤を会社から追い出す手段を選んだ。
この時点で権藤は、選択の余地がなくなった。誘拐犯に金を払うしかないという事。
犯人の電話から推測するに、犯人は権藤邸が見える丘の下に住んでいる模様。
犯人は電話で、権藤邸の様子を述べている。権藤邸は冷房完備。
一方、犯人は、真夏日に照らされた家に住んでいる。
犯人は丘の上にある権藤邸を眺め、メラメラと嫉妬心を燃やしていた。
参考までに、権藤邸は現在の横浜市南区南太田付近。
犯人は横浜市中区黄金町付近。地図で見れば、若干設定と異なる。
劇中の地図では、権藤邸は現在の野毛山公園近くと思われる。
犯人は、横浜市西区浅間町4丁目あたり。劇中にて確認できる。
犯人が身代金受け渡しの条件に指定したのは、
この7㎝以下が、後の受け渡しに重要な意味をもつ。
そのカバンを持って「特急第2こだま」に乗る事。
警察側は、身代金受け渡しに使うカバンに細工をする。
犯人は身代金を受け取った後、おそらくカバンを処分すると予測される。
犯人がカバンを焼却した際、特殊な色の煙が出るカプセルをカバンに仕込む。
何かの手がかりになるかもしれないと、警察はカバンに細工を試みる。
話を聞いた権藤は、自ら道具を持ち出し、カバンに細工をした。
このシーンは、権藤が一介の職人から苦労して、今の地位を築き上げた事を物語っている。
それだけに今回の誘拐事件は、権藤にとり誠に悔やまれる出来事。製作側もそれを狙ったかもしれない。事件の悲劇性を持たせる為に。
場面は身代金受け渡しの列車内に移動する。列車には、乗客に扮した刑事達が乗っているのが分かる。
躓くふりをしてメモを渡す場面が、何気に細かい。メモの内容は、「子供は乗っていない」。
若手の刑事が思わず眠りこけている姿も、面白い。注意されたが、又眠りこけるのも愉快。
車内放送で権藤が呼び出され、電話で犯人に指示される。
指示の内容は、
酒匂川の鉄橋のたもとで子供を見せる。子供の姿をみたら洗面所の窓からカバンを投げろ。
洗面所のカバンは7㎝開くので、そこからカバンを投げろと。
7㎝と言う意味が、此処で判明する。
カバンを投げれば、列車は次の熱海まで停車しない。その間、犯人はゆうゆうとカバンを回収できる算段。
まだ携帯電話など無い時代。如何に携帯電話の有難さが分かる一面。
田口部長刑事(ボースン)が子供の映像をとる為、運転席で8ミリを回る映像で一瞬、振り返るシーンがある。
此れは役者さんが(田口刑事役)、カメラテストなのを本番と間違えて演技を始めてしまい、後ろからスタッフに蹴られた為。
蹴られた事に反応し、後ろを振り向いた。しかし、見直しても違和感はない。編集にて、必死に取り繋いだ。
身代金受け渡しのシーンは、映画の一番の見所。
身代金を支払った後、権藤と子供の再会をみて、一番いかつい顔をしていた田口刑事が、一番涙もろかった事が判明する。
警察が犯人追及の捜査時、権藤邸と丘の下の貧相な住宅街・ドブ川の対比が描かれている。
此れは、黒澤明監督がよく採用する「明と暗」の手法。
子供が無事戻ったのは良いが、権藤は債権者から金の返済を迫られる。
世間では同情を浴びたが、現実社会における金銭の貸し借りは、同情など一銭にもならない。
権藤は、冷たい現実を突きつけられる。
数日後、警察が権藤邸を訪ねた時、権藤は出社せず自宅にいた。
権藤は、とうとう会社を追い出された。
運転手の青木は、何とか手がかりを得ようと子供を車に乗せ、方々を走り回る。
どうやら子供が監禁されていた場所は、江ノ電付近のようだ。
偶然にも監禁場所を見つけた刑事と青木が踏み込めんだ時、監禁役の夫婦は既に殺害されていた。
殺害されたが、なかなか死亡記事が載らない。
新聞には、身代金の一部が使われたとの報が流れる。実は此れは、警察が犯人に仕掛けた罠だった。
犯人は罠に嵌った。一刻も早くカバンを処理しようと焦り、カバンを焼却した。
焼却した為、カバンに仕込んだ細工が発動。煙突からの煙が特殊な色に染まり、犯人断定の決め手となった。
煙突の場所は、病院の焼却炉。犯人はインターンと判明。
変装して病院に張り込む刑事達。張り込みの結果、警察は犯人を特定。
警察は犯人を誘拐罪でなく、殺人罪を適用すべく、罠をしかける。
殺害した夫婦を生きている様にみせかけ、犯人をおびき寄せた。
共犯夫婦を殺害する為、薬を買いに町を徘徊する犯人。
当時の町の様子、社交場の雰囲気が、何気に伺える貴重な映像。
犯人が町を徘徊している際、ショーウィンドーの靴を眺めている人物がいた。
その人物は、権藤だった。犯人は不敵にも権藤に話かけ、タバコの火を貰う。
何と大胆不敵であろうか。思わず尾行している刑事も、驚きの言葉を口走っている。
程なく、監禁場所に現れた犯人は逮捕される。
しかし権藤は既に破産。会社、邸宅を追い出される。
権藤が刑事から事件解決の報告を聞いている際、差し押さえられた時計の鐘が、時を告げた。
鐘の音は事件の終焉と、権藤の今までの裕福な生活の終焉を意味している。権藤は世間から名声を得たが、会社の地位・邸等の財産を失った。
犯人の死刑が確定する。犯人は教誨師の面接を拒み、権藤との面会を要求する。
権藤は態々拘置所に出向き、犯人と面会する。
金網越しに犯人と面会する権藤。犯人の話では
と述べる。此れが人間の屈折した逆恨み、嫉妬であろうか。
劇中で権藤も述べていたが、犯人は何故権藤を呼んだのであろうか。
犯人が述べた様に、自分は死刑になるが、権藤に怯えながら死んだと思われたくなかったからであろうか。
それとも悔しかったからであろうか。精一杯の虚勢であったのか。私の心の中で、まだ納得した答えが出ていない。
映画の最後に犯人が錯乱。刑務官により、面会室から連れ出される。
その時、金属製の扉が降りてきて、映画は終了する。
降りて来た扉は、天国(世間)と地獄(刑務所)を分ける境目。
落ちてきた金網の音と状況は、まるで西洋の処刑に使われるギロチンを連想させる。
犯人の死刑が確定している為、その様な演出になったのかもしれない。
追記
出演者の名前を見て分かるが、メンバーが豪華。黒澤明映画、当時の映画の俳優の常連とも言えるメンバーが殆ど出演している。
さしずめオールスターのラインナップと言った処か。
ほんの脇役でも、其の後活躍した人物が多い。東野英治郎、西村晃などは「水戸黄門」の黄門様で有名。
「金田一耕助シリーズ」、「まんが日本昔話」のナレーターで有名な常田富士男。
数々のTVドラマに出演の大滝秀治、浜村純など錚々たるメンバーが端役で出演している。
権藤純(誘拐された子供)は、「江木俊夫」。
後に、フォーリーブスで活躍する。
子役でそのまま芸能界で大きくなる方がいるが、思えば、元祖子役と言えるかもしれない。
尚、仲代達矢と山崎努は、同じ黒澤明監督の1980年作:「影武者」でも共演している。
昔は、午後10時でも飛行機が飛んでいた。騒音公害がまだ、うるさくなかった時代。
身代金受け渡しの列車内の人間は、全てエキストラ。撮影の為、一編成を貸し切り撮影した。
定期便の合間をぬっての大掛かりな撮影だった。その為、何度もリハーサルをした模様。
途中でいろいろなハプニングもあったが編集で繋ぎ、なんとか上映にこぎつけた。
細かい話だが、戸部主任警部と田口刑事部長が車の後部座席にのっているシーンがあるが、運転手側のハンドルが、左ハンドルになっている。
(文中敬称略)