遅すぎた謝罪は、全く意味がない

私が長年、生きてきた中で大切だと思うこと。それは、人生はタイミングが重要だということ。

今回は最近、そんな経験をした話をしたい。

 

長年、音信不通だった知人からの連絡

皆様は長年音信不通だった知人から、突然連絡が来たことはないだろうか。

おそらく何度か経験があるかと思います。先日、私の許に長年音信不通だった知人から、突然連絡が来ました。

今回はその話をしたい。

 

連絡があり、知人と再会

長年連絡が途絶えていた知人から、突然連絡があった。

私の経験上、このような時は大概ろくなことがない。それは凡そ、2つに分類される。

一つ目は、勧誘。具体的に述べれば、「宗教、保険、マルチ商法」等。

二つ目は、お願い。これも具体的に述べれば、「借金、選挙」等。

 

皆さんも大概、この五つのどれかに当て嵌るのではないだろうか。

連絡を受け嫌な予感はしたが、無碍に断ることもできず、私はしぶしぶ面会した。

面会した際、私は知人から意外なことを告げられた。その意外な事とは。

 

意外なこと。それは謝罪

意外な事とは、唐突に告げられた知人からの謝罪だった。

ここで詳細を述べるのは、あまり意味がない。

 

何故あまり意味がないかと言えば、あまりにも時間が経ち過ぎ、説明し難い。

また今更謝られても、どうにもならない為。

 

つまり過ぎ去った時間は、二度と戻らない。時計の針は二度と戻せないということ

 

今回の出来事で改めて、その意識を深めた。

ブログを書いて私がいつも述べていることは、人生で一番大切なものは 「時間」 であると。

ことある毎に述べてきた。今回もまさしくそうだった。

その為、知人から謝罪されても嬉しくもなく、又赦す気もなかった。

 

知人は何故今頃、謝罪したか

章のタイトル通りだが、知人は何故今頃、謝罪したのか。

おそらく当時は何も思わなかったが、年月を経て様々な人生経験を重ね、知人が私に対し漸く無礼な振る舞いをしたことに気づいた為。

つまり 自分の罪滅ぼしの為、何十年の時を経て、漸く謝罪に来た ということ。

 

若干補足するが、私は先程から「知人」という言葉を使用している。この知人という言葉にも、私なりに意味がある。

あくまでも私の中のカテゴリーになるが、私は知り合いを分類する際、「親友」「友人」「知人」「顔見知り」の順で振り分けている。

今回登場する知人は、嘗ては「親友」だった。だが様々な段階を経て、私の中では親友から知人に格下げした人物。

 

この人物とは小学、中学、高校、そして大学も同じだった。その為大学時代、暫し一緒に行動した。

私と知人は、進学で上京した。卒業後、又偶然にも故郷に戻り就職した。

しかし就職後は互いに音信不通となり、そのまま幾年もの月日が過ぎた。

小学校も同じだった為、家が近くだったのはいうまでもない。その状況でありながら、全く連絡が途絶えていた。

 

鋭い方であればきっと大学時代、何かあったのではと推測されると思う。まさにその通りです。

大学時代に或ることが切っ掛けで双方に隙間風が吹き、互いにぎこちなさを感じながらも大学時代を過ごし、そのまま卒業した。

 

そのことが蟠りとなり、軈て近くにいながら音信不通になっていた感が否めない。

結局、問題を根本的に解決することなくズルズルとやり過ごし、互いに歳を重ねたということ。

そのうち私も日々の忙しさに紛れ、いつしか知人のことなど忘れていた。

 

忘れていたことが思い出され、反って腹が立った

前章の終いに忘れていたと記した。

だが忘れていたというよりも、忘れるようにしていたと云った方が的確かもしれない。

偶に何かの拍子に思い出すが、あまり良い思い出でない為、忘れるようにしていた。

それ程、当時の私には頭に来た。若かったこともあるかもしれない。

しかし今考えれば、私の人生を大きく左右した出来事の一つだった。相手も薄々そう感じていたのだろう。

また後ろめたさもあったのだろう。相手から連絡もなく、私からも敢えて連絡しなかった。

 

それが突如、相手から連絡があった。前述したが、面会の目的は私への謝罪だった。

繰り返すが、今更謝られても私からすれば全く意味がない。

相手(知人)と比べる訳ではないが、いま振り返っても、その出来事は相手にはプラスに働き、私にはマイナスに働いた。

 

これが二人の決定的な違い。これが互いに袂を分かつきっかけとなった。

それから互いに距離を取り始めたと言える。

 

私の中では、人生の後悔の一つだった。その事が知人の謝罪で蒸し返され、当時の記憶が鮮明に蘇った。

こう話せば人生経験を重ねた人であれば、きっとご理解して頂けると思う。

そう、 そのままそっとしておいてくれれば良かった 。これに尽きる。

態々蒸し返す必要はなかった。世の中、騒ぎ立てず、そのままにしておけば静かに時が過ぎた。

相手は何故、蒸し返すような行為をしたのか。

 

それは先程も触れたが、

歳を取りふと昔の記憶が蘇り、漸くことの重大さに気づいた。

その後本人は良心の呵責に苛まれ、その苦しさから抜け出し、楽になりたかった

からだと思う。

 

謝罪は一件、良いことに見えるかもしれない。

しかしそれは、ただ 自分が楽になりたいというだけの自己満足であり、相手のことなど一つも考えていない所業 と言える。

 

もし謝罪するのであれば、何故もっと早い時期にしなかったのか。

もし早い時期に謝罪すれば、互いの感情や距離が修復され、再び良好な関係に戻れた。

つまり「遅すぎた」ということ。

 遅すぎた謝罪は、所詮なんの為にもならない。 

私はこれを強く主張したい。

遅すぎた謝罪は、ただの自己満足であり、反って相手の気持ちを逆なでする恐れがあるということ。

 

今回の私が、それに当て嵌る。

私は、「何十年も近くに居ながら、何故今頃になり謝罪に現れたのか」という気持ちになった。

 

今や二人は、社会人として晩年を迎える歳。

知人は自らの人生を振り返り、漸く心に引っかかっていた人生の重荷を解こうとしたのだろう。

前述したが、その出来事は本当に紙一重だった。いま思い出せば、あれが私の人生の分かれ目だったと思う。

それ程、重要なことだった。

 

 人生には其の時は分からないが、後になり振り返れば、実はあの時がターニングポイントだったということがある。 

私はこのブログを書き乍、そのことを益々強く意識した。

私は謝罪されたことにより、反って忘れようとしていた嫌な過去が蘇り、逆に一気に怒りが込み上げ、到底相手を赦す気などなれなかった。

 

勿論、その時は怒りを露わにして相手を罵った訳ではない。若ければ、そうしたかもしれない。

しかし今は歳をとり怒りはあれども、相手に対し怒りを率直にぶつけることはしなかった。

 

それ故私は相手に対し、静かにこう呟いた。

「あなたの話は一通り聞いたが、卒業後は全く音信不通だった。その間、互いの人生には全く関与しなかった。因って今後もそれでいきましょう」と。

 

私の言葉を聞いた後、知人は暫く無言だった。

相手の表情を窺えば、知人はおそらく「私が謝罪を受け入れてくれるもの」と思っていたのだろう。

それが全く予期しなかった私の返答で、どうしてよいか戸惑っている様子だった。

知人のした行為は、反って二人の溝を深める結果となった。

 

戸惑うこと自体が、互いが距離をおいていた証拠。

言おう言おうとして、結局今迄、何もしなかった。何故しなかったのか?

 

それは相手を見くびっていた、又は謝罪することで自分の非を認めたくなかった。

 

謝罪後、相手に罵られるか、借りを返せを言われるのが嫌だった。

のいずれかだろう。

 

自分(知人)がしなければならないことをズルズル先延ばしにし、人生の大半を過ごした。

そして今頃になり、何か引っかかっていた心の刺を吐き出したくなった。

そんな心境だろうか。

 

繰り返すが、もう既に遅いということ。

問題は発生した時、すぐに解決しなければ、後々の人生まで響く。

かなり時間が経ち問題を解決しようとしても、それまでに長い時間が経過している。

その為、悶々と過ごした互いの時間は全く無駄だったということ。

 

今回は犇々と、自分の人生を呪った。

つまり、 「遅すぎた謝罪は無駄に等しい」 ということ。

謝罪された相手とすれば、過ぎ去った時間は取り戻せない。過ごした人生も取り戻せない。

陽が短くなった晩秋の某日、今回のブログを書くにあたり、人生の虚しさをしみじみと感じた。

 

(文中敬称略)

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