地元開催の東京五輪であり乍、何故あまり高揚感が湧かないのか

今回、久々に時事ネタを取り上げたい。
時事ネタとは勿論、現在開催されている東京五輪について。
目次
一年延期された、東京五輪
去年私はブログにて新型コロナについて述べてた際、五輪は「延期と云う名の、中止だ」と述べた。
一年後、その発言は見事に外れ、五輪は一年後に開催された。従って予測が外れたと、素直に認めたい。
開催直前まで開催か中止かと議論が分かれた時も、私はギリギリの処で中止が政府から発表されるものだと信じていた。
それも見事に外れた。外れた事は、ハッキリ認めたい。
しかし今でも、よく開催に踏み切ったものだと、半ば呆れている。
蓋を開ければ、見事な日本人選手の活躍
令和3年7月22日、紆余曲折を経て、東京五輪は開催された。
開催された翌日から日本人選手の活躍で、メダルラッシュ。
柔道、体操、水泳、女子ソフト、スケボー等、日本人選手の活躍で、金メダルの獲得と相成った。
此れで中止の声を見事に払拭したのではないかと、私は一瞬感じた。
しかしそう思った私の心の中で、今迄見つめてきた過去の五輪とは、何か違った感想が沸き起こってきた。
一体、それは何なのか。
私は冷静に分析を試みた。分析後、得た結論は。
何故か、選手と一体感が欠如
結論を先に述べれば、
しかし今回は何か選手と自分の存在が、かけ離れたモノだと認識しているのが、根底にあるのが分かった。
更に追加で、
今の生活に満足していない自分を、心のどこかで恥じ入り、選手から勇気を貰い、明日から又頑張ろうという気持ちが湧いたものだった。
しかし今回は私に限ってかもしれないが、両方が何故か心に湧いてこなかった。
それは何故か。
やはり去年からの新型コロナの影響で、日常の生活が制限されているからと思われる。
新型コロナ発生前の日常生活が、如何に有難かったのか
今回は前回の章で、結論の全てを述べてしまった。
改めて考えれば、新型コロナウイルス発生前の日常生活が、如何に有難かったか。
思い起こせば新型ウイルスの存在は、令和元年11月頃、中国本土の武漢にて発生が確認された。
其の後ウイルスは、瞬く間に世界に蔓延。翌年、全世界を巻き込む、大騒動となった。
それが影響して、前年開催される予定だった東京五輪も、一年後に延期された。
去年、新型ウイルスが全世界に拡散された後、世界における人間の社会生活が、ガラリと変わった。
日本も多分に漏れず、人間の社会生活は大きく変化した。
大きく変化した一つに、今では外出する際、必ずと云ってよい程、マスク着用が当たり前となった。
通勤、仕事形態にも、大きな変化をもたらした。
酒を提供する店などは、大きな制限を受け、大ダメージを被った。
俗に言う、「三密」という言葉が浮上。コロナ感染防止の為の、キーワードとなった。
少し長くなったが、何を言いたいのかと云えば、つまり日本国民は相次ぐ新型コロナウイルスの影響で、去年から厳しい日常生活を強いられてきた。
制限された日常生活を国民は、一年以上、続けた。緊急事態宣言、蔓延防止など。
尚、今も続行中である。
従って、辛い思い(選手間では、練習が好きな人もいるかもしれないが)をしているのは、何も選手だけでなく、普通の社会生活を営む、全ての国民も変わりはないのではないかと。
今大会に限り、私はそう思われた。
その為、今回のタイトルに書いた、
「不思議と選手が活躍してメダルを獲得しても、何か過去の五輪のような高揚感が湧き起こらないのは何故か?」
との疑問がふと湧き起こった。
此れが、今回ブログで趣旨を書きながら、実感した。
何も辛いのは選手だけでなく、実は日常生活を過ごす、私達も同じだった事を。
そして今回、「人は毎日繰り返される日常生活が、如何に大切であるか」を、いやと云うほど思い知らされた。
時間の大切さを、改めて実感したとも云える。
「人間、限りある命と時間を、その時その時に全力で過ごす事が大切だ」
という認識を改めて実感した。
それを考えれば、私にすれば今回の五輪は、大収穫だった。
元々の五輪の由来
元々五輪は、古代ギリシャから発生したもの。目的は、強い軍隊の育成。
つまり権力者の為の大会だった。
古代ギリシャは、数々の都市国家に別れ、覇権を競っていた。
その為、他の都市を征服する為、権力者は体力の優れた者を召し抱え、強い軍隊の育成を目指した。
軈て各軍隊が各芸に秀でた者を集め、競技を開催したのが、五輪の発祥と云われている。
当然大会で優勝した者を召し抱えた軍隊は、他の軍隊の威嚇。又は、権力者の自尊心を満たしたと云われる。
それが元来の五輪の狙いだった。
時を経て五輪は近代化され、更に商業主義も加わり、今日の有様となった。
賛否両論いろいろあるが、今後五輪が益々、商業化されていくのは間違いない。
それは避けられない事実。現に大企業の協賛がなければ、五輪は成り立たないであろう。
それは割り切るしかない。
更に穿った見方をすれば、興業(五輪の事)とは昔から、権力者・為政者などが庶民に与える娯楽と思って間違いない。
もっと簡単な言い方をすれば、
そんな事はない、と否定する人もいるかもしれない。何故なら、嘗て私もそうだった。
毎日の鬱積した不平不満を、何かの興業で、憂さを晴らしていた。
贔屓のチーム、選手が勝てば、他人の事なのに、何かスカッとしたものだった。
それは別に五輪に限らず、スポーツ全体に云えるかもしれない。
サッカー、野球、ラグビー、ゴルフ、テニス、バスケ等も、ほぼ同じ。
大昔を遡れば、古代ローマのコロッセウムで、民衆は奴隷同士のデュエルを観戦。熱狂した。
根は、全く同じ。
俗に言う、「パンとサーカスに現を抜かす」と云う事であろうか。
先程から色々述べているが、やはり今回の五輪で私が何か心が湧かないと同時に、貴重な発見を齎したしたと、改めて実感した。
宴の後
今回、色々私見を述べてきたが、こうして五輪が開催されている間にも(現在、令和3年7月30日)、新型コロナウイルスは、確実に首都圏を始めとして、全国に拡散されている。
来週あたり感染者は、東京都で5千人、全国で1万人を超えるのではないかと云われている。
五輪終了後は、丁度「山の日」あたりで祭日。日本では旧盆の休みに入る。
その時期は人の行き来もあり、更に感染が広まるのではないかと懸念される。
当に「宴の後」である。
人間は祭りの最中は大はしゃぎするが、終わった後は物哀しく、何か切ない。
当に、あれと同じ心境。
五輪後の虚脱感も加わり、益々注意が必要ではないかと思われる。
斯う考えた時、果たして五輪開催が果たして良かったのかと、今更ながら思う。
国民は去年延期された時点で、既に関心は薄れていたのではなかろうか。
それで在り乍、今回の強行(凶行?)開催。
直前に無観客開催も決定し、何か国民不在の開催の感が拭えない。
五輪の観客を見越していた商売等も、当てが外れた。
マスコミは決して口にしないが、全ての競技が終了し、総括をする際、決して「失敗した」とは言わない。
それは嘗てブログでも紹介したが、それはマスコミ全体のタブー。
日本人にある言霊信仰に関係する為、決して口に出来ない。
今回ブログを書くにあたり、そのような思いが胸に去来した。
五輪終了の数年後、「あの東京五輪は何だったのか」と、必ず歴史が判断を下す日が来るであろうと。
(文中敬称略)
令和3年 7月30日付
追記
令和3年 8月 5日付
報道に因れば、東京都の感染者が5000人を超えたそうです。