徳川四天王の一人 鬼の平八郎こと『本多忠勝』

今回は、徳川四天王の一人である本多忠勝について述べたい。

 

・名前    本多忠勝、平八郎 

・生涯    1548年(生)~1610年(没)

・官位    従五位下 中務大輔

・主君    徳川家康(松平元康)

・氏姓    本多氏。尚、家康の知恵袋と言われた本多正信とは同族。

・領地    上総大多喜藩主→伊勢桑名藩主    

・縁者    真田信之の舅、つまり信之(信幸)は婿殿。

       忠勝の娘(小松殿)は、信之の正室。

 

経歴

松平本家(安祥城)の譜代本多忠高の嫡子として生まれる。翌年父忠高が戦死。叔父忠真の許で育つ。幼名、鍋之助。

13歳にて元服。初陣を果たす。初陣はなんと、桶狭間の戦いで有名。今川義元に従軍した主君、松平元康と一緒に参陣する。

元康は義元の先陣として織田領を攻め、大高城を落とす。大高城に兵糧を運び込む際、忠勝も参陣した。

 

桶狭間後、主君元康が独立

桶狭間の敗戦後、主君元康は岡崎城にて念願の独立を果たす。独立後、宿年の敵であった織田家(信長)と同盟を結ぶ。(織徳同盟)

元康は独立後、国内(三河国)の一向一揆に悩まされる。同族の本多正信は、一度主君元康の許を去り、一向宗側に就いた事もあった。

忠勝は一向宗であったが、浄土教に改宗。国内の一向一揆の掃討に功をなし、元康の信頼を得る。

 

尚、一向宗側に回った正信は鎮圧され、三河を出奔。しばらく各地を放浪していた。

その後、赦免され元康の側近として仕え、関ヶ原では嫡男秀忠の側近であったが、関ヶ原において秀忠は遅参。

その責任をとり、隠居を申し出ている。

 

しかし家康は正信の才を惜しみ、豊臣家滅亡の大坂の陣まで家康の許に仕えている。

その後の忠勝は元康の直参(旗本)として、活躍する。

 

姉川の戦い

主君元康の独立後、忠勝は元康と供に戦った。

1570(元亀元)年、姉川の戦いでは、信長軍が不利な状態の際、家康軍が朝倉・浅井軍に横槍を入れ、信長の窮地を救う。

家康軍の手柄は、忠勝の働きによる処が大きい。

 

1572(元亀3)年、三方ヶ原の戦いでは、家康が武田軍と衝突。家康軍が惨敗後、忠勝は撤退軍の殿(しんがり)を務めている。

この時、敵方である武田軍近習、小杉左近が忠勝の勇猛ぶりを称え

 

「家康に過ぎたるものが二人あり、唐の頭(家康の鎧兜)に本多平八郎」

 

と狂歌を謳ったのは有名な話。

 

何やら

 

「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」

 

と似ている。此方が後なので、真似たのかもしれない。

 

忠勝は才でもって家康に仕えた正信とは違い、武でもって家康に仕えたと言える。

当に精強で知られた「三河武士」の典型。

 

1575(天正2)年、長篠の戦いの時、逃げ惑う武田軍に対し、本陣を示す孫氏の御旗「風林火山」を戦場から拾い上げ、武田軍に対し、「本陣の御旗を捨てるとは、何事か」と叱責したと言われている。

 

主君家康、決死の伊賀越え

家康は同盟者信長と供に、勢力を拡大。1582(天正10)年、遂に宿敵甲斐・信濃を領していた武田家を滅ぼし、嘗て今川の領土であった駿河国を手に入れた。

その戦勝祝いを兼ね、家康は僅かな家臣を従え、信長の本拠地安土城へと赴いた。

戦勝祝いと信長の饗応を受け、安土を後にし、其の後、遊覧として堺にいた。

 

その時突如、戦国の世を揺るがす大事件が起こった。

信長の家臣「明智光秀」の裏切りである。信長は京の本能寺にて、僅かな小姓を従え、逗留していた。

中国方面にて毛利軍と対峙していた羽柴軍の援軍に向かうとの名目で、大軍を動かしていた明智軍が突如、本能寺を襲撃した。

 

当然結果は、多勢に無勢。信長は横死する。

光秀謀反・信長横死の報を聞いた家康は急遽、死地に立たされた。信長の死により、畿内の治安が悪化。土民の落ち武者狩りが横行した。

 

信長に味方していた畿内の大名・土豪も。信長の死でどちらに就くか、わからない。あわよくば家康の首を土産に、光秀におもねる人間も現れかねない。

家康は将来を悲観。一時切腹まで考えたと言われている。

 

しかし家康に従事する家臣が、必死に家康を宥めた。

更に家康には、運が残されていた。

家康は堺遊覧後、一旦京に戻り、信長に謁見する為、忠勝を先遣隊として送っていた。

 

本能寺の異変を、豪商「茶屋四郎次郎」が家康に知らせる為、堺に向かっていた。

その時偶然、忠勝に出くわした。忠勝は茶屋四郎次郎から信長の死を聞き、驚愕。

もと来た道を引き返し、主君家康と合流した。

 

家康と合流した忠勝は決死の覚悟で、主君と伊賀越えを決行。

伊賀越えを果たし、伊勢(白子)まで行き船で三河本国まで辿り着いた。

 

家康が伊賀越えが出来たのは、当時伊賀出身だった、服部半蔵(正成)の存在が大きい。

おそらく半蔵が家康が進む道を先回りして、道筋をつけたと思われる。

 

半蔵が家康のつゆ払い為の路銀を手渡したのはおそらく、本能寺の急変を教えた茶屋四郎次郎と思われる。

堺の千利休が秀吉の味方をした如く(利休は堺の商人:ととや、魚屋)、茶屋も先行投資として家康を選らんだと思われる。

 

かくして家康は九死に一生を得、三河まで辿り着いた。

帰国後家康は、忠勝に対し

「この度、万死の境をまぬかれることができたのは、偏にお前(忠勝)のおかげである。誠に八幡大菩薩がお前を遣わして俺を助けてくれたとしか思えぬ」

と述べたと伝えられている。

 

尚、伊賀越えで家康を救ったもう一人の家臣服部半蔵は、家康が征夷大将軍に任命され、江戸にて幕府を開いた際、江戸城を守備する「半蔵門」の名として現在も残されている。

地下鉄「半蔵門線」も然り。

不二子藤雄氏のアニメ「ハットリ君」は、半蔵がモデル。

 

小牧・長久手の戦い

1584(天正12)年、小牧・長久手の戦いにて秀吉と家康が対峙した。

秀吉軍は織田信勝・家康軍に比べ、兵の数では圧倒的であったが、戦いにおいて秀吉は、家康軍に見事に負けた。

 

忠勝は僅かながらの手勢で、大軍の秀吉軍と対戦。奮闘した。

その奮闘ぶりを見た秀吉は、後の家臣となるかもしれないと配下に告げ、討ち取る事を禁じたと言われている。

後に家康は秀吉に臣下の礼をとった際、以前家康の家臣であったが秀吉の許に走った石川数正のように懐柔されたが、忠勝はきっぱり秀吉の誘いを断っている。

 

家康、秀吉臣従後

主君家康が秀吉に臣従したのは、1586(天正14)年の事。秀吉は妹朝日姫を家康の正妻の座に就かせ、懐柔。

それでも拒む家康に対し、実母(大政所)を送り、漸く家康と説得。

大坂に家康を赴かせ、臣下の礼を取らす事に成功した。

 

秀吉の臣下となった家康はその後、1590(天正18)年、小田原攻めに従軍。

関東の雄「後北条家」を滅亡させた。

 

話は少し前後するが、家康が秀吉の臣下となった後、旧武田家臣であった真田昌幸は、徳川家康の配下に編入された。

家康は真田家を取り込む意味もあり、忠勝の息女であった小松姫を一旦、自分(家康)の養女とし、真田昌幸の長男「信幸」に嫁がせた。

 

この縁組は、奇妙な形で徳川・真田家の間で、問題を生むことになる。

理由は後述するが、以前真田幸村について述べた時、豊臣・徳川家、真田幸村・信之両者の奇妙な関係を述べた。とても重要なので、今一度触れたい。

 

秀吉の天下統一後、秀吉は外征(朝鮮出兵)を決行した。

しかし家康は、豊臣政権の中心的位置を占め、渡航する事なく思に当時の本拠地、名護屋城で留まった。

更に自兵を送り出す事もなく、着々と力を蓄え、秀吉死後の将来を見据えた。

忠勝もただ家康に従うのみだった。国内が統一され、ほぼ戦は無くなっていた。

 

関ヶ原の戦い、家康の勝利

1598(慶長3)年、天下統一を果たした英雄「豊臣秀吉」が亡くなった。

その経緯は過去何度も述べている為、省略する。

秀吉亡き後、実質的支配者は家康であった。それを心良く思わない石田三成が家康排斥を企み、挙兵した。1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いである。

 

結果は、家康の大勝。西軍はもろくも、半日で壊滅した。

当然忠勝も関ヶ原に参陣していた。しかし不思議な事に、何故か忠勝の加増はなかった。

 

但し翌年の1601(慶長6)年、伊勢国桑名の約10万石に移封となっている。

関ヶ原の戦をもって国内にさしたる戦もなく、忠勝のような武官は次第に幕府の中心から離れ、幕府は文官(吏幕派)が中心となる。

忠勝は拝領した桑名の町作りに心血を注ぎ、次第に家康から離れる。

 

関ヶ原の戦い後、忠勝について述べておかねばならない事項がある。

それは前述したが、忠勝の息女(小松殿)に関わる話。

 

小松殿は、真田家長男、信幸に嫁いだ。その為関ヶ原で信幸は、当然東軍(家康軍)に味方した。

処が、信幸の父昌幸・弟で次男信繁(幸村)は、西軍(豊臣軍)に味方した。

 

昌幸・信繁親子は、信州上田城にて中山道を西進する、世継ぎ秀忠軍の足止めを行う。

秀忠軍を少数にて釘付けにし、秀忠軍を関ヶ原に遅延させるとう手柄を立てた。

しかし戦は、西軍の惨敗。

 

昌幸・信繁親子は、家康・秀忠の勘気に触れ、切腹の予定だった。

処が、信幸と岳父忠勝が、家康に助命嘆願を申し出た。

当然家康は拒否。家康よりも、遅延した秀忠の怒りは尋常ではなかった。

 

しかし家康は譜代忠勝の申し出に負け、真田親子を紀伊国九度山に配流という沙汰を命じた。

結果から言えば、この措置は失敗だったが。歴史とは、何と皮肉なものであろうか。

 

この忠勝の行動があったのかは分からないが、前述の如く忠勝は翌年、桑名に配置変えとなり、政治の中心から離れ、そのまま桑名の地で没している。1610(慶長15)年の事。

 

前年には嫡男忠政に家督を譲り、隠居していた。大坂の陣の4年前の事だった。

大坂の陣では徳川方として信之(信幸から改名)・小松殿の間に生まれた信政・信重が父信之に代わり、従軍している。

 

一方、真田幸村(信繁)・長男大助は、配流地九度山を脱出。大坂方として参戦している。

因って信政・信重と大助は、従兄同士となる。

 

大助の母は、豊臣家の家臣大谷吉継の息女。

つまり幸村に対し、大谷吉継は舅。

此れは過去、何度も述べているが、当に人生の皮肉と言える。

 

忠勝が死に際に及び述べた有名な言葉

「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」

何やら忠勝とは、真逆にもとれるのが不思議だ。

 

(文中敬称略)