偉業を達成したが、同じ仲間に潰された話。松本清張『文字のない登攀』

★松本清張 短編小説シリーズ
・題名 『文字のない登攀』
・昭和35年 11月発表
・新潮社 新潮文庫 【憎悪の依頼】内
・昭和57年 9月発行
登場人物
◆高坂憲造
日本を代表する山岳界の重鎮。ある日、前人未踏であったR岳V壁を初登攀する。
しかし証拠となる写真、証人がいないとの理由で疑惑を持たれる。
やがて同じ山仲間で組織されていた「樺の会」のライバル和久田淳夫、和久田に洗脳された若手につつかれ、陰謀と妬み故、山岳界から追放される。
◆高坂冴子
高坂憲造の妻。冴子も以前樺の会に属していて、憲造と知り合い結婚。
憲造が他の山岳人から疑惑を持たれている事を知り、憲造に身の潔白を証明する様に進める。
◆西田浩一
憲造と同じ山岳人。憲造がR岳V壁を登攀していたのを、双眼鏡で覗いていた人物。
憲造が偉業を成して遂げた際の目撃者。しかし表に出せない事情で、目撃者になる事を拒む。
◆白鳥弓子
西田浩一と一緒に、双眼鏡で憲造の偉業を覗いていた人物。
西田と同じ事情で、憲造の偉業の証人とはなれず、7年後憲造と再会する。
◆白鳥弓子の夫
元外交官で、白鳥弓子の夫。憲造が偉業を成して遂げていた7年前、外国に赴任していた。
妻弓子は、当時日本にいた。
◆和久田淳夫
憲造と同じ「樺の会」に所属。憲造のライバルと目される人物。
憲造の偉業を表向き歓迎するが、陰では憲造を誹謗中傷する。
こそこそ憲造の陰口を吹聴し、会の人間を洗脳。自分側に抱き込み、憲造を山岳界から追い落とそうと企む人物。
作品概要
高坂憲造は山岳界でも有名な重鎮であった。彼は「樺の会」と云われる山岳仲間で作る組織に所属していた。
会の中でいつもライバルとして比較される人物がいた。名前は、和久田淳夫。
和久田は自分と同じ実力を持ち、同世代の人間と言う事もあり、憲造とは表向き親しく和やかに接して来た。
憲造は或る日、今まで誰も登攀した事のないR岳V壁に挑戦。登攀に成功した。
成功したは良いが、その時たまたま自分のカメラは壊れていた。更に都合が悪い事に登攀に知人を誘ったが、誰も都合が悪かった。
故に、たった一人での登攀だった。その為、目撃者は一人もいなかった。
憲造はS岳V壁から下山。下山後、男女に遭遇した。男女は憲造に話かけてきた。
男女は憲造がR岳V壁に登攀しているのを、一部始終双眼鏡で眺めていたと告げ、憲造に祝いの言葉の述べた。
しかし男女は表立って世間に知れてはならぬ関係であった為、憲造に固く口留めをして別れた。
憲造も決して口外しないと誓い、その時は別れた。
登攀後、憲造はV壁の登攀記録を発表。山岳人から祝福された。
登攀の成功を、ライバルの和久田も祝福してくれた。
憲造は和久田の祝福を受け、山に登る人間に悪人はいないと思い込んでいた。
数年後、表立ってでなく、陰で憲造の陰口を叩く山岳人が大勢いた。
それは決して公ではなかった為、憲造は全く気付かなかった。
自分が陰口を叩かれ、和久田の妬み、隠微な誹謗中傷、陰険な陰謀に巻き込まれているなど、思いもよらなかった。
樺の会では表向き憲造に対して、優しいおもいやりとの名目で伏せられたいたが、和久田の陰謀は数年を経て、会全体のメンバーの認識となりつつあった。
特に会の若手は、和久田の意見をそのまま信じ込み、憲造を吊し上げる始末だった。
やがて憲造の誹謗中傷は会だけでは止まらず、山岳全体の誹謗中傷に発展した。
憲造は妻冴子の説得もあり、自らの疑惑を晴らす為、嘗てV壁登攀の目撃者であった男女の二人を訪ねる事にした。
男性は西田浩一と云った。憲造が西田を訪ねた時、西田は既に死んでいた。
彼は、山で憲造に会った一年後に自殺していた。憲造には凡そ、自殺の原因が推測できた。
西田はもう既にこの世にいない。憲造は次に女の許を訪ねた。
女の名は白鳥弓子。西田より、年上。男女性が違うと言う事で、大方の察しがつくと思われる。
弓子は元外交官の妻だった。
元外交官の妻と書いた理由は、憲造と出会った7年前、弓子の夫は当時外交官を拝命。欧州に赴任していた。
夫が海外赴任の為、弓子は幼い頃から山が好きで、7年前も頻繁に山登りをしていた様子。
その時、西田としりあったらしい。
西田とは不倫関係であった為、当然憲造の証人になる事を拒み、憲造に口外しない事を約束させたのであった。
憲造と山で別れた一年後、夫が赴任先にから戻るとの連絡を受け、無理やり西田に別れ話を持ち出したと思われる。
西田は弓子からの別れ話に悩み、悩んだ末の自殺と推測された。
弓子は西田の自殺をおそらく知っていたであろうが、現在の生活を守る為、誰にも告げず今迄過ごしてきたものと思われる。
憲造は弓子宅を訪ねた時、弓子の二人の子供、病弱で退官した夫の姿を見てしまった。
見てしまった以上、憲造はこれ以上、自分の偉業の証人として名のり出てもらう事を、諦めざるを得なかった。
憲造はすごすごと、自宅に戻った。自宅に戻り、妻の冴子に告げた。
と。
憲造は自分の疑惑と誹謗中傷を、撥ね退ける事はできなかった。
一言も弁解する事もできず、山岳界から葬り去られようとしていた。
憲造はどうしても自分の目で見た白鳥弓子の家庭を犠牲にしてまで、自分の偉業を世間に認めさせる気にはなれなかった。
要点
以前のブログにて、実在の人物「直良信夫」をモデルとした作品『石の骨』を紹介したが、その作品と内容がほぼ同じと言える。
石の骨の場合、考古学に興味を持つ素人が大発見をするが、学界の権威主義と嫉妬に阻まれ、自分の発見を無価値と判断される。
おまけに戦争で原型を焼失。ますます証明が難しくなり、主人公の発見が世間から埋もれてしまう話。
今回も全く同じ。今まで誰も登攀できなかったR岳V壁を登攀したが、カメラが故障。
一人の登攀の為、目撃者もいない状態。
目撃者は二人いたが、一人は死亡。もう一人は世間には言えない事情の立場の人間の為、目撃者になる事ができない。
因って証明する事ができない。憲造の偉業は仲間と思っていた人間達から、憎しみと誹謗中傷に逢う。
憲造の偉業は認められる事なく、世間から埋もれてしまう結果となる。
何か人間の殺伐とした心の闇を垣間見たような気がする。
自分がやろうとしていた事を、他人に先を越され、他人の成功を意地でも認めたくないという心境。
怒りと妬みは自分だけに限らず、他人に吹聴し、自分のライバルを平気で蹴落とす。
世間も見事に無責任。何も検証する事なく、人の意見をそのまま信じてしまう、いい加減さ。
前述の石の骨と全く同じ構造。清張独特の世界観・反骨心の現れと言える。
他にも、似た作品がある。同じ短編作品『真贋の森』なども似た作風と言えるかもしれない。
前述した作品を眺めれば、分野は学問、芸術界と様々だが、実は清張自身が当時身を置いていた文学界に対しても皮肉っていたと思われる。
文学界では自分達の好きな仲間が集まり、文壇誌を書き始める。
書き始めるにつれ、いろいろな人間の思惑が入れ乱れ、意見が交錯。やがて離合集散を繰り返す様は同じと言える。
何も作品の山岳界ばかりとは限らない。皆同じ。
きっと皆さんにも、心あたりがあるのではないか。
ある時は自分が攻撃され、またある時は自分が攻撃する側に回るなど、尋常茶飯事と思われる。
所詮、人間のする事はいつも同じといるであろうか。
会社で自分の周りにも、必ずいる筈。
他人の事を妬ましく思い、常に人の意見・行動・業績に必ずケチ、反論を述べる輩だいる。
非難・反論しか述べず、建設的な意見・対案などまるでない。
ただ好き嫌いの感情で判断する人間が、必ずどの組織にも一人か二人はいる。
今回作品を読んで、人は口には出さないが、決して自分以外の人間の成功を心から喜ばない。
人間は内心で憎悪、嫉妬、あわよくば他人を蹴落とそうと虎視眈々と狙っている。
それは何も他人ではなく、自分の心の中にも潜んでいる事が改めて自覚できる作品と思えた。
(一部敬称略)