奇襲の大勝利『桶狭間の戦い』織田軍が何故、大軍の今川軍に勝てたのか

「桶狭間の戦い」。それは織田信長が、歴史の表舞台に踊り出た瞬間。

以後の信長の活躍は言うまでもない。

今回、織田信長が全国に名を轟かせた桶狭間の戦いを述べたい。

今川義元の上洛

1560(永禄3)年5月12日、駿河・遠江・三河を治める「今川義元」は京にて天下を号令せんと欲し、約2万5千人の兵を率いて西上の途に就いた。

今日では上洛ではなく、尾張制覇が目的との説もあるが、今回は上洛説を採用する。

 

立ちはだかる尾張の織田信長は、僅か約2千5百人の兵で迎え撃つ。兵の数では約10倍。

義元軍が圧倒的に有利。もはや信長の命運は、風前の灯かと思われた。

 

しかし歴史は信長を見捨てなかった。我々は歴史の答えを知っている。

答えを知っているが、当時の人間は、まさか信長が勝てるとは、よもや思っていなかった。

何故信長は、大軍の今川軍に勝てたのであろうか。その勝因を探ってみたい。

 

義元は12日に駿府を立ち、13日掛川城、14日引馬城、15日吉田城、16日岡崎城、17日池鯉鮒城、18日沓掛城と行軍する。

先遣隊の松平元康・井伊直盛は、既に尾張領内に侵入。19日、丸根城、鷲津砦を陥落させる。

 

陥落の報を聞き、義元は上機嫌で沓掛城を出立した。

義元はそのまま正午頃、「おけはざま山」と呼ばれる丘陵地で休憩を取った。

信長の動き

一方、信長は清州にて軍議を開いた。

家臣達は籠城を進言する予定だったが、信長は軍議もそこそこに切り上げ、家臣を返し、自分は寝てしまった。

家臣達は、これで織田家の命運も尽きたと落胆した。

 

19日早朝、信長は義元軍の丸根・鷲津の攻撃の報を聞き、幸若舞の「敦盛」を舞う。

其の後、湯漬けを食べ具足を付け、従者6騎で熱田神社に到着する。

戦勝祈願をして、信長は陣容を整えた。この時、丸根・鷲津の陥落を知る。

 

熱田を出立した信長は、先ず丹下砦に入り、次に善照寺砦に移る。

善照寺砦で家臣、梁田政綱の報を待つ。

 

政綱から一報が入る。

「沓掛をでた義元は、桶狭間付近を通過中」

の報を聞いた信長は、善照寺砦を出立する。

 

信長は相原方面に兵を南に進めた。更に政綱から第二報が届いた。

「義元は、田楽狭間の谷で昼食中」と。

信長の情報網により、義元の行動・所在地は筒抜けだった。

 

ここで一つ疑問が生じる。善照寺砦から殆ど距離がなく、善照寺砦のやや背後にあたる鳴海城(城主:岡部元信)の軍勢が、何もしなかった事。

鳴海城は諜報部隊を前線に出していなかったのか、聊か疑問が残る。

 

結果、信長軍はやすやすと義元本陣に近づく事ができた。

鳴海城は決して、信長に内通していた訳でない。それは合戦の後の岡部元信の行動が証明している。

理由は後述する。

義元本陣に斬り込む信長軍

善照寺砦を出立した信長は、鳴海城を背にし、義元軍の手に落ちた中島砦に入る。

此処で義元本陣が「おけはざま山」にいるのを確認した信長は、山の狭隘、窪地を進み、義元本陣に近づいた。

 

この時、信長にとり大変幸運な出来事が起こった。

辺りは、突然の豪雨に見舞われた。

突然の豪雨で視界もままならず、鉄砲も使えなかった。 結果、信長軍の発見が遅れた。義元には不運だった。「三河物語」では「車軸の雨」と記されている。

 

信長は雨が止み、空の晴れ間をみて突撃の号令を下した。信長軍は一斉に義元本陣に突入した。

偶然かどうか知らないが、信長軍が突入した処に義元本人がいたとの見方もある。

 

①敵の本隊を攻撃したら、目の前に大将がいたという幸運。

②鳴海城の背後から、攻撃を受けなかった事。

③直前に、豪雨になった事。

 

歴史上の英雄は、不思議と奇跡とも言える幸運に恵まれている。本能寺後の秀吉も全く同じ。

 

一方、義元本陣は急の豪雨で守備隊が視界を遮られ、信長軍が接近しているのに気づかなかった。

義元も初めは敵の来襲と気づかず、味方が喧嘩していると思った。

 

漸く敵の来襲と気付くが、護衛の者も先程の豪雨で具足を脱ぎ、寛いでいた。

そこで敵に襲われた為、義元本陣は大混乱に陥った。

 

従者たちが義元を守るが徐々に人数が減り、僅かとなった。

信長軍の服部小平太が義元に槍を突き付けるも、義元の必死の抵抗で膝を斬りつけられ転倒。

 

次に毛利新介が義元を切捨て、首を掻いた。

「海道一の弓取り」と言われた今川義元、42歳の生涯を閉じる。

 

今川軍は義元が討ち取られた為、全軍雪崩をうち敗走。皆本国に逃げ帰った。

たった一人、戦場に踏みとどまり、信長軍に抵抗した男がいた。

前述した鳴海城主、岡部元信である。

 

元信は信長軍が城を明け渡すよう諭しても、頑強に撥ね退けた。

「主君、義元の首を返さない限り、城は渡さない」と信長の使者に告げた。

 

信長は元信の願いを聞きいれ、首実験だけ済ませ、義元の首を元信の許に届けた。

元信は義元の首を手に入れた後、鳴海城を退去した。

前述したが、元信が織田軍と内通していないのが証明されたと思われる。

 

戦後、信長は20日に清洲に帰城した。

松平元康、後の「徳川家康」は義元討死の報を聞き、駿河には戻らず、晴れて岡崎城に入城した。

家康、念願の独立が叶った瞬間である。

信長の勝因

信長の勝利の原因を一言で表せば、「優れた情報収集と正確な分析」と言えよう。

如何に情報を重視していたという事。

それでなければ、敵中突破、義元本陣の近くまで行ける訳がない。

 

一方、義元と言えば先程から述べているが、鳴海城はおろか、他の鷲津・丸根・大高城から物見が動いた形跡がない。

豪雨の影響もあろうが、鷲津・丸根を陥落させ、気が緩んでいたのかもしれない。

 

大高城に兵糧を運び込ませたのも、義元本隊は大高城に入城。

その後、信長軍が来るのを待ち受ける心算だったのではないかと思われる。

尚、兵糧の運搬役は、松平元康が担った。

 

迎撃前の、簡単な勝利の宴だったのかもしれない。

自軍の兵の多さに気が緩み、まさか敵が自軍本陣に近づいて攻撃するとは、予想だにしなかったのかもしれない。

あまり至近距離だったので、味方の軍勢と間違えたのかもしれない。

 

兎にも角にも勝負の分かれ目は、如何に情報を重視したのかに尽きる。情報収集・分析。信長は逐次、政綱からの情報を正確に分析。義元本陣に近づいたのが勝利の要因と云える。

 

尚、義元が討たれた場所は、愛知県豊明市栄町(現在の国道1号線沿い中京競馬場駅前近く)、若しくは、愛知県名古屋市緑区桶狭間古戦公園(長福寺近く)と言われている。

競馬場近くが義元が討ちとられた場所であり、長福寺近くは信長が義元の首実検をした場所と言われている。

 

現代の会社組織でも言えるが、情報が無ければ会社方針も将来の戦略も立てようがない。

後に述べる関ヶ原の合戦も、戦う前から既に情報戦において、家康の東軍が既に西軍よりも勝っていたと言える。

 

因みにそんな状況ですら、東軍は薄氷を踏む思いの勝利だった。時間的には、半日でケリはついたが。

情報を軽視していれば、勝てる筈がない。

 

偶に甲子園の高校野球で圧倒的な優勝候補が、無名の高校にあっさり負ける事がある。

あれと同じかもしれない。完全に相手を見くびっていたともいえる。

信長が歴史の表舞台に踊り出るきっかけとなった「桶狭間の戦い」は、この教訓を教えてくれたのかもしれない。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献

【週刊新説戦乱の日本史 10桶狭間の戦い】

(小学館・小学館ウイークリーブック 2008年4月発行)

 

【真説戦国史⑬ 織田信長合戦論争】

(新人物往来社・歴史読本 3月号 1999年3月発行)