人間の生きる意義を考えさせられた作品 黒澤明監督『生きる』

★懐かしの日本映画シリーズ、黒澤明監督映画

 

・題名      『生きる』     

・東宝公開   1952年

・監督     黒澤明      

・製作     本木莊二郎 

・撮影     中井朝一     

・音楽     早坂文雄

・脚本     黒澤明、橋本忍、小国英雄 

 

出演者

 

・渡邊勘治  : 志村喬         ・小田切とよ : 小田切みき

・渡邊光男  : 金子信雄        ・渡邊たつ  : 浦辺粂子

・小原    : 左卜全         ・野口    : 千秋実

・坂井    : 田中春男        ・木村    : 日守新一

・斎藤    : 山田巳之助       ・大野    : 藤原釜足

・陳情の主婦 : 菅井きん        ・ヤクザの親分: 宮口精二

・ヤクザの子分: 加東大介

 

あらすじ

 

市役所に勤める「渡邊勘治」は妻を亡くした後、一人息子を育てあげ、真面目一筋で、市役所課長の役職を立派に務めていた。

勘治の世話で息子も今では一人前に育ち、嫁を貰っていた。

勘治は或る日、体調不良の為、医師の検診を受ける。その時は「胃潰瘍」と診断された。

 

精密検査後、勘治は「胃癌」と判明する。

勘治は妻を亡くした後、子育てと仕事に奔走した。

しかし今では、妻を貰った息子夫妻から疎んじられる状況だった。

 

死を目前にして勘治は考える。今までの自分の人生は一体、何だったのかと。

今まで真面目一筋で有給すら取らなかった勘治は、有給を取得。

自分の人生を問いかける為、町を彷徨う。

 

勘治は今まで知らない世界を色々体験したが、何故か心が晴れない。

そんな鬱積した日々が続く中、胃癌を自覚した時期とほぼ同時期に役所を辞めた女性と一緒に、町を徘徊した。

 

嘗て部下だった女性は、勘治に呟く。

役所を辞めて、今は子供が遊ぶ玩具工場で働いていると。

女性は、子供が玩具で遊ぶ姿を想像するのが楽しい。

自分が何かの役に立っているのを実感すると告げられた。

 

勘治はその言葉を聞き、はっとした。

自分は余命幾ばくもないが、何か自分にもできる事がある。

 

勘治は今迄、市民の陳情を責任が及ばない様、他の部署に盥回しにしていた。

しかし今回は市民の陳情を聞き、黒江町に公園を作る決意する。

 

勘治の奔走もあり、異例の速さで公園は完成。

完成した公園のブランコで勘治は泣きながら「ゴンドラの唄」を唄う。

 

その後、勘治はブランコの上でなくなる。

映像はその後、勘治の通夜のシーンとなる。

 

焼香にきた黒江町の主婦達は、

「勘治は異例ともいえる、速さと強引さで役所の課の垣根を超え、公園作りに奔走した」

と述べた。

 

焼香に来た主婦達がすすり泣くのを聞き、役所の幹部連中は居ずらくなり退席。

幹部連中が中座後、今度は普段は何も言えない職員達が、中座した幹部達の悪口を言い合う。

話は更にエスカレート。終に市役所の他課同士の文句を言い合い始める。

つまり責任のなすりつけ合い。

 

そして通夜の翌日、役所では何事もなかったかの様に、また退屈でありふれた日常が繰り返された。

 

見所

 

最初ナレーションが的確。主人公「渡邊勘治」の今までの人生感を見事に表している。

 

「彼は時間を潰しているだけだ。彼は生きているとは言えないからだ」

 

「役人の世界で大切な事。自分の地位を守る事、それは何もしない事」

 

陳情に来た主婦達が各担当課を盥回しにされている場面が、役所の体質を見事に表している。

現在社会でも全く同じ。黒澤明監督の皮肉を込めた表現と云える。

所詮役人は、何もしない。

 

役人は普段は何もしない。

事が大きくなり世の中が騒ぎ出した時、役人は慌てて今までの怠慢を隠すかの様に動きだす。

それは役人の責任転嫁、自己保身の為。

 

此の時代から既に、「縦割り行政・官僚主義」を皮肉っているのが面白い。

たらい回しの結果、又振出しに戻る。

きっと皆さんも御経験があるのではないだろうか。

 

勘治は病院で、自分にまるで死神の宣告を突き付けるかのような患者に出会った。

その患者が勘治に何気に呟いた病状は、勘治の症状に合致していた。

 

勘治は自分が「胃癌」であると自覚した。

帰宅後、勘治は息子夫婦の部屋で真相を話そうと、電気も点けず待機していた。

其処に息子と嫁が帰ってきた。

 

しかし息子夫婦のあまりにも無神経な会話の為、勘治は息子夫婦に言いそびれてしまった。

勘治としては、現代の姥捨山にあった心境であろうか。

 

勘治は飲み屋で偶然、流行りの小説家と知り合う。

勘治は小説家の案内で、夜の街を徘徊する。

 

勘治が小説家と夜の街を徘徊する際、映像に映る様々な娯楽が興味深い。

戦後の日本人の数々な娯楽が描かれている。

パチンコ、ビア・ホール、客引き、ダンスホール等。

 

同課の部下(小田切とよ)が勘治に辞表のハンコを貰う際、書式が違うと一度は突き返す処が、如何にも勘治らしい。

その描写は、役所の「形式主義・ハンコ主義」を皮肉っている。

 

役所を辞めた小田切とよの言葉が、鋭く役所の体質を表している。

 

「役所と違って1時間でできる事を、1日かけてやるのとは違う」

 

勘治が小田切に胃癌だとを告げた時、勘治は小田切から「何かできる事はないのか」と尋ねられる。

その時勘治は、市民から陳情のあった公園建設を思い立つ。

勘治は翌日から公園建設の為、精力的に動き始めた。

 

公園完成の五ヵ月後、勘治は胃癌で完成した公園のブランコでなくなる。

勘治の通夜の席で上層部達のセリフが、世の中の仕組みを端的に表している。

部下に仕事をさせ、手柄は頂くという仕組み。

 

焼香に来た主婦たちの鳴き声を聞き、役所の幹部達は居ずらくなり退席。

助役をはじめとした幹部連中が退席後、今度は普段は上役に何もいえず阿諛追従している職員達が、口々に幹部達の悪口を言い合う。

 

しかし幹部達の悪口を言いながらも、中身は退出した幹部達と何ら変わりはない。

何故なら数年後、自分達はエスカレーター式で昇進。

今罵った上司は、実は未来の自分達の姿の為。

 

人の通夜の席で故人を偲ぶどころか、まるで役所の飲み会の如く振る舞い、他課の職員同士が互いに文句を言い合うシーンが滑稽。

まるで遺族の事など、お構いなし。

 

如何に役所が形式主義であるか理解できる場面。

所詮お役人気質は、いつまでたっても変わらないと云う事だろうか。

勘治は何故か最後まで病状を、息子夫婦に話さなかった。

 

最初のナレーションと同様、通夜の席で愚痴る職員が述べた言葉

 

「役所は何もしない方がよい。仕事をしてるふりをすれば良いだけ」

 

が何故か耳元に残る。

勘治が喫茶店を去る際、「ハッピー・バースデー」の合唱が何故か耳に谺する。

これは勘治が初めて、生きる価値を見出したと言う事を表現したもの。

つまり生れて初めて、自分の生き甲斐を見つけた人間という意味。

 

胃癌を患った後、残り少ない人生を公園設立に尽力し、遂に完成。

完成した公園のブランコに乗り、渡邊勘治が「ゴンドラの唄」を歌う。

日本映画界の名シーンの一つに数えられている。

 

ゴンドラの唄
作詞:吉井勇、作曲:中山晋平

 

焼香に訪れた警官の話を聞き、遺族3人の間抜けな言動、役所職員達ができもしない意気込みを語る処が面白い。

 

そして通夜の翌日、昨夜の出来事が嘘の如く、退屈で時間を浪費する煩雑な役所仕事が繰り返される。

新課長の後ろの書類の山が、それを物語っている。

 

役所体質もさる事ながら渡邊勘治の生き方は、現代に生きる我々の生き方にも疑問を投げかけているのではなかろうか。

一日一日を誤魔化す事なく、真剣にいきているだろうかと。

そう問いかけている気がしてならない。

 

追記

 

陳情の中に名脇役、菅井きんがいる。なかなか味のある演技をしている。

他の黒澤明監督の作品の「天国と地獄」でも、見事な名脇役ぶりを演じている。

勘治が雨の中、公園建設地を視察している際、傘を差し伸べた主婦が菅井きん。

 

他にも、同じ黒澤明作品に登場する役者さんが数多く出演している。

加東大介、木村功、藤原釜足、左卜全、千秋実、宮口精二など。

名前を挙げた人は「七人の侍」で共演している。

 

昔民間企業にいて、役所回りの営業をした経験がある。

映画同様、色々な部署を盥回しにされた。映画を見終わった際、何故かその時の記憶が蘇った。

 

(文中敬称略)