極限状態で、人間の尊厳が試される映画 黒澤明監督『羅生門』

★懐かしの邦画シリーズ

 

・題名    『羅生門』     

・公開    大映 1950年

・監督    黒澤明        ・製作   箕浦甚吾  

・撮影    宮川一夫       ・音楽   早坂文雄

・美術    松山崇        ・脚本   黒澤明、橋本忍

・原作    芥川龍之介

 

この作品タイトルは「羅生門」となっていますが、内容は主に芥川龍之介の作品「藪の中」です。

どちらも芥川の作品に変わりありませんが、内容が混同していますので、ご注意のほど。   

 

出演者

 

・杣売り    :志村喬      ・多襄丸   :三船敏郎

・真砂     :京マチ子     ・法師    :千秋実

・金沢武弘   :森雅之      ・下人    :上田吉二郎

・放免     :加東大介

 

あらすじ

 

時代は平安末期、打ち続く戦乱・天変地異・飢饉で、社会世相・人間の心が荒廃した京の羅生門での話。

杣売りと法師は、京都の「羅生門」で雨宿りをしていた。

 

そこに一人の下人がやってきた。

杣売りと法師が「わかんねえ」と呟くのを聞き、下人は訳を話せと言い出す。

二人が分かんねえと呟く、その内容は。

 

証言する各人間の内容が、全く異なると云う事。

誰かが真実を述べ、誰かが嘘を付いていると云う事。

 

ややもすれば、3人とも嘘を付いているかもしれない。相手を庇う為、自己弁護の為かは分からない。

真偽が分からず、杣売りと法師が、「わかんねえ」と呟やいていた。

 

登場人物の説明

 

多襄丸(三船敏郎)

都一帯を荒らしまわっている盗賊。今回は夫婦連れの侍を襲う。

侍と決闘の末、侍を殺害したか、それとも侍が自害したかは謎。

放免に捕らえられた際、やや侍女房「真砂」を庇う様な発言をする。

 

真砂(京マチ子)

侍の女房役。多襄丸に手籠めにされる前、必死の抵抗を試みる。

多襄丸の言葉を借りれば、気性が激しい女。

 

金沢武弘(森雅之)

女房連れの侍。多襄丸の甘言にのせられ計略に嵌り、捕らえられる。

最後は多襄丸に殺されたのか、自害したのかは謎。  

 

杣売り(志村喬)

山に入り、侍の死体を目撃。現場状況を検非違使に伝える。

後に判明するが、現場で短剣をネコババしている。その事は検非違使に何も告げていない。

善人ぶってはいるが、実は下人と同様のエゴイスト。

杣売り(そまうり)とは、木こりの様なもの。

 

法師(千秋実)

杣売りと同様、検非違使の詰問場で証言する。

旅の途中、侍と妻の姿を見かけたと証言する。

 

 
検非違使とは
検非違使とは大宝律令に定められた役職以外の、令外の官。官とは役職の事。現代社会で言えば、「警察官」の様な役目。

 

見所

 

杣売りが山に木を伐りにいった際、死体を見つけた。

杣売りは急ぎ検非違使の処に駆けつけ、報告した。

 

状況を説明したまではよかったが、捕らえられた多襄丸、殺害された女房、巫女を通じて「殺害された侍」の証言が、まるで食い違っていた。

 

誰の話が正しく、誰が嘘を付いているのかは謎。

「藪の中」では何も分からず、全て己個人の証言のみ。

果たして、誰が真実を述べ、誰が嘘を付いているのか。

 

・多襄丸の話

多襄丸は確かに、侍の殺害を認めている。女の申し出を受け、真砂の夫と対決。

結果、侍の殺害に及んだと。対決の途中、真砂は逃げ出したと証言する。

 

・真砂の話

真砂の話では、多襄丸は自分を手籠めにした後、立ち去ってしまった。

夫と二人になった自分は夫に縋り泣いたが、夫は蔑む様な目つきで私を見た。

 

その屈辱に耐えきれず、気を失った。

気が付けば、夫は既に死んでいて、短刀が胸に刺さっていたと証言する。

 

死んだ夫の話(巫女の口を借りた言葉)

妻を手籠めにした多襄丸は、妻を懐柔し始めた。

多襄丸の話を聞くうちに、妻はだんだん多襄丸の聞き入る様子が伺え、自分は嫉妬した。

 

そして妻は多襄丸を唆(そそのか)し、自分を殺すよう懇願した。流石に多襄丸も妻の言葉に呆れ果て、真砂を蹴り倒した。

 

そして多襄丸は私に対し、

「この女を殺すか、生かすか」と聞いた。

 

夫は多襄丸の言葉を聞き、多襄丸の罪を赦免しても良いと思った。

妻は隙を見て、逃げ出した。多襄丸が追っかけたが、妻は逃げ切った様子。

 

多襄丸が戻ってきて、自分の縄目を解いた。

その後、多襄丸は立ち去り、私は屈辱と絶望に耐え切れず、落ちていた短刀で自分で首を刺したと証言する。

 

三者三様、それぞれ証言が違う。果たして真実は何処に。

巫女の話を聞いた際、羅生門で杣売りが、

 

「侍は短刀でなく、太刀で刺された」と証言。

 

何気に、短刀の持ち逃げを自白している。

 

原作との相違点

 

原作(羅生門)では、下人が老婆の着物を剥ぎ、逃走する。

劇中では、下人が捨て子の肌気を剥いで立ち去る。

 

劇中では真砂が気絶したと述べているが、原作(藪の中)では、夫と心中を持ち掛け、真砂が夫を刺したと主張。

刺した後、気を失ってしまったと述べている。

 

劇中では、杣売りが一部を目撃。その場面を下人に語る場面がある。

内容は、女は多襄丸に夫との果し合いを唆(そそのか)したが、夫は真砂の態度に呆れて、果し合いを拒んだと主張。

 

夫は真砂を罵った。罵られた真砂を見て多襄丸は、急に真砂に対する情も失せ、多襄丸はその場を立ち去ろうとする。

真砂はしおらしく泣いている振りをしていたが、急に開き直り、今度は夫と多襄丸の両方を罵倒した。

 

二人は罵倒された為、果し合いが始まったと、杣売りは述べる。

果し合いの末、多襄丸が侍を刺したと証言する。女は隙をみて、逃走したとの事。

 

所詮杣売りの話も、他に誰も目撃者がいない為、何とでも証言できる。

短刀を持ち逃げした事実を隠す為の作り話かもしれない。

 

せめてもの救いは、捨てられた赤子を杣売りが引き取り、育てようとした事であろうか。

 

追記

 

大昔の高校時代、現代文の授業で、芥川龍之介の「羅生門」を学んだ。

当時若すぎて作品を読んでも、あまり内容が理解できなかった。

 

最後の一文

 

「下人の行方は、たれも知らない」

 

だけが何故か、頭の片隅に残っていた。

 

自分が歳を重ねるにつれ、漸く作品の内容が理解できた。

 

以前ブログで松本清張の「カルネアデスの舟板」を紹介した。

作中では登場した左翼思想の大学教授が、嘗て臣従した右翼思想の元大学教授を蹴落とす為、ある策略を用いた。

蹴落とした後、左翼思想の教授の胸に或る感情が去来した事象に似ている。

 

何気に、作品内容が似ている。

自分の妻・愛人が他人の男を受け入れた為、以前から女を知っていた男の心に、或る種の心の変化が生じた。

 

その変化とは、「女に対し、男は何か穢れのようなもの」を感じ始めた事。

自分の女でなくなった嫉妬よりも、他人の男を受け入れた女に対する憎悪とでも云うのだろうか。

 

更に似ているのは

 

人間、極限状態に陥れば自分が助かる為であれば、相手を蹴落としても、決して悪ではない。それは自分が生きる為の術、生存本能とも云える。人間誰しも、極限状態に陥れば、同じ行動をすると言う箴言、慧眼とも言える。

 

私は決して、それを否定するつもりはない。

私も同じ状況に陥れば、きっと同じ事をしたであろう。

それを否定するものは所詮、偽善者に過ぎない。

 

私の経験では偽善者であればあるほど、自分が極限状態に陥った時、他人を蹴落とし、真っ先に自分は安全地帯に逃げ込む。

更にあろう事か、いけしゃあしゃあと他人を非難。

自己反省もせず、しぶとく生き残る。

 

これは今迄、私が生きてきた人生の経験と後悔の念を述べている。

勿論断っておくが、私はいつも損した側、或いは負けた側の人間。

 

結局もっとも現実的なのは下人。

この下人が生きる為の、最もリアリストと言える。

 

下人に話をした杣売り・法師は人間に対し、ある種の淡い期待を持っている。

その為、判断が付きかねている状態。

 

下人が杣売りが短刀の持ち去りを見破ったのも、実社会で生き抜いてきた証拠。

生き抜いた故、身に付いた下人の強かさともいえる。

 

下人の言葉を借りれば

 

「一体、正しい人間なんているのかい。皆、自分でそう思っているだけ。人間と言う奴は、自分に都合の悪い話は忘れてしまう。都合のいい嘘を、本当だと思っている」

 

※映画『羅生門』より引用

 

所詮、世の中は不合理である。

皆さんの周りにも、きっと似たような人間がいるのでは。

しかしそれは紛れもなく、他人の姿を借りた己の姿なのかもしれない。

 

(文中敬称略)