90年代、幻に終わったドリームチーム「ユーゴスラビア」サッカー代表

私がサッカーに関心を持ち、30年以上経つが、その中で忘れられないチームがある。
実際には、「あった」と言った方が正確かもしれない。
それは、90年代初頭から半ば迄、嘗て存在した「ユーゴスラビア」代表。
以下、その理由を説明したい。
目次
90年代、存在した幻のドリームチーム
日本ではサッカーがまだマイナーなスポーツと見做されていた時代、私はサッカーをしていた。
当時オリンピックより人気があると言われていたサッカーの祭典、WCを見るのが4年に一度の楽しみだった。
数ある大会の中で、忘れられない大会がある。それは94年に開催されたアメリカ大会。
既に25年が過ぎ、読者の中では生まれていない方もいるかもしれません。
何故忘れられないかと云えば、あるチームが参加していないからこそ、忘れられない大会になったと云う事。
少し回り諄い、言い方になるかもしれないが。
当時「東欧のブラジル」と云われた「ユーゴスラビア」が参加していなかった事が、私にとり忘れられない大会となった。
参加していなかったというよりも、参加できなかったと云えるかもしれない。
兎に角、一度は見たかったチーム。それ程当時のユーゴ代表は、魅力のあるチームだった。
当時のユーゴは7つの他国と国境を接し、6つの連邦国が存在、5つの民族が住み、4つの言語
があり、3つの宗教が信仰され、2つの文字を使う多民族国家だった。
長年、チトー大統領が国を統治していたが、1980年に死去。死去後、抑えられていた民族問題が俄に浮上。
ユーゴは1980年代後半からの東欧諸国・旧ソ連などの政変の影響を受け、1991年民族問題が勃発。国内は内戦状態となった。
1990年イタリア大会、「イビチャ・オシム」が監督だったユーゴ代表は、当時のスーパースター「ディエゴ・マラドーナ」がいたアルゼンチンに、PK負けの末、敗退。
しかし、べスト8の成績を残した。ご存じオシムは其の後、日本の監督にも就任した。
と誰もが予想した。
しかしイタリア大会が、当時のユーゴ代表の最後の大会になるとは、此の時は誰も知る由もなかった。
ユーゴスラビア連邦で内戦勃発
1991年、ユーゴ国内のスロベニア、クロアチアが相次ぎ、独立を宣言。
独立派と連邦政府とは、内戦状態となった。
ユーゴの内戦状態を鎮圧する為、NATOや国連が介入。
ユーゴは制裁の対象となり、国際大会の参加禁止の措置を受けた。
92年スウェーデン欧州選手権に出場する為、ユーゴ代表はスウェーデン空港に到着した。
その直後、無情にも国際サッカー連盟は、ユーゴに参加の不許可を通告した。
その時ストイコビッチは、胃の中のモノが吐き出る様な嫌悪感に襲われたと回顧している。
此れが事実上、最後のユーゴ代表となった。
大会は皮肉にも、代わりに参加したデンマーク代表が、イタリアWC優勝国のドイツを破り優勝した。
大会後、ユーゴ代表の選手達の胸に去来したものは一体、何だったのか。
その後ユーゴという国は解体された。連邦国は各々に分裂し、独立した。
因ってユーゴ代表は、全く違う別のチームとなった。
歴史に「もし」はないが、もしユーゴが分裂せず、94年アメリカ大会に出場していたならば一体、どの様なチームになっただろうか。
考えただけでも、想像が尽きない。それだけ魅力のあるチームだった。当時のメンバーを列挙するが、眺めただけでも興味深い。
92年当時、ユーゴ代表メンバー
参考までに、当時のユーゴ代表を列挙した。
92年のメンバー(控え、候補も含む)
GK トミスラビ・イバコビッチ(クロアチア)
DF シニシャ・ミハイロビッチ(セルビア)
ウラジミール・ユーゴビッチ(セルビア)
スラべン・ビリッチ(クロアチア)
ロベルト・ヤルニ(クロアチア)
MF ズオニミール・ボバン(クロアチア)
アロイシャ・アサノビッチ(クロアチア)
ロベルト・プロシネツキ(クロアチア)
ドラガン・ストイコビッチ(セルビア)
マリオ・スタニッチ(クロアチア)
FW デャン・サビチェビッチ(セビリア)
ブレドラグ・ミャトビッチ(セビリア)
ダボール・シュケール(クロアチア)
アレン・ボクシッチ(クロアチア)
ダルコ・パンチョフ(マケドニア)
私の記憶が許す限り、これだけの錚々たるメンバーが思い出される。
・イバコビッチ 90年イタリア大会、マラドーナのPKを止めた男
・ヤルニ DFもMFもこなす左足の名手。
・プロシネツキ バルカンの黄金銃との異名をもつ強烈なシュートを放つ男。
・ボバン 90年のACミランの黄金期、10番を背負った男。
・サビチェビッチ ボバンと同じく、ACミランの黄金期の10番を背負った男。
・ストイコビッチ 日本でもお馴染み。「妖精」と呼ばれた、華麗な技の持ち主。
・ミハイロビッチ セリエAの名門クラブで活躍した、名レフティー。
・シュケール 98年フランス大会、得点王。
・ボクシッチ セリエAの名門クラブに所属する、快速ドリブラー。
もしこのメンバーが94年アメリカ大会に出場していれば、果たしてどんな結果だったのか。
オールドファンであれば、一度は考えた事があると思う。
まさに夢のようなチームだった。
仮令優勝できなくとも、想像を絶するパフォーマンスを披露してくれたに違いない。
因みに94年アメリカ大会はPK戦の末、優勝ブラジル、二位イタリア、三位スウェーデン、四位ブルガリア。
PK戦の優勝ブラジル以外は、全てヨーロッパ勢。なんとなく皮肉とも云える結果。
やはり「もしユーゴが出場していたら」との感が拭えない。
ユーゴが、それぞれの国に独立。制裁が解けたのは96年、何とかフランス大会予選に間に合った。
分裂後の旧ユーゴとクロアチア
独立したユーゴ、クロアチアは、98年フランス大会予選を勝ち抜いた。
本戦でユーゴ代表はグループ予選を勝ち抜いたが、決勝トーナメント1回戦で、あっけなくオランダに敗れた。
一方、クロアチアは初出場の日本と同じ予選グループに入り、記憶のある方も多いと思う。
グループ予選を勝ち抜き、決勝トーナメントでも快進撃をみせた。
最終的に、3位に輝いた。
準決勝では地元優勝した「ジダン」を始め、多くのタレントを抱えていたフランスに惜敗する。
しかし衝撃だったのは、ベスト8でドイツを3-0で粉砕した事。
大会の得点王は、クロアチアの「シュケール」。独立後、初出場で3位。クロアチアは、新たな歴史を開いた。
しかし彼らも20代後半の選手が多く、その点が悔やまれた。
98年フランス大会を見るに、クロアチアは結果は残しているが、やはり4年前に国が分裂していなければと思う。
4年前が体力的にピークだったと思う。サッカーファンなら、一度は見たかったチーム。
既に記憶の彼方かもしれないが、4年一度WCが開催される度、何か思い出さずにはいられない。
選手は勿論の事、ファンも悲劇だった。この様な悲劇は、二度と繰り返してはならない。
一瞬の輝きだからこそ、見た者全てに感動を与える。
前回のロシア大会から、ほぼ一年が経つ。
ヨーロッパの全リーグ、CLリーグが終わりを告げたシーズンオフ。
ふと、この様な考えが頭を過った。
追記
2020年(令和2)4月27日付
この記事を書いて約10ヵ月が経とうとしているが、まさか去年の暮れから蔓延した新型コロナウイルスの影響で、各リーグが中止を余儀なくされるとは思いもつかなかった。
現在再開の目途が立たず、各リーグはそのまま中止と相成った。
各リーグほぼ3月当たりから中止の為、順位不確定のまま優勝チームなしでシーズンを終えるという異常事態。
こう考えればやはり、平和で何もない時が人間、一番幸せである事に改めて気づかされる。
一刻も早い事態収拾。各リーグの再開を望みたい。
(文中敬称略)