2024年、パリ五輪の報道を視て、感じた事。

・現在、夏のイベント真っ只中、3年前も取り上げたが、今回はパリ五輪について述べたいと思う。

 

前回も述べたが、五輪とは為政者、権力者の為の大会

3年前、地元の東京五輪で在り乍、何故高揚感があまり湧かないのかブログで紹介した。

今回も当時の思いと然程変わらないが、今回も五輪報道を見聞する度、心に浮かんだ為、再度述べたい。

尚、以前のブログに興味のある方は、リンクを貼りますので、ご覧ください。

 

参考:地元開催の東京五輪であり乍、何故あまり高揚感が湧かないのか

 

結論を先に述べれば、前回の繰り返しとなるが、五輪とは元々、為政者・権力者・金持ちの為の大会と云う事。

五輪発祥のギリシャでは、都市国家同士が互に覇権を争っていた。しかし五輪開催中は戦闘を中止。大会を行うというのが決まりだった。

 

処がそれは表向きの趣旨。裏を返せば強い軍隊の育成が目的。各競技の代表者は大概、各軍隊の秀でた者が集結され、競技を行った。

当然勝った者は勝利の栄光と供に、他の軍隊の威嚇ともなった。為政者にすれば、相撲のタニマチと同じ。軍隊の宣伝にもなった。

これが五輪の本来の目的。今は死語かもしれなうが、嘗て「スパルタ教育」と云う言葉があった。

スパルタとは当然、古代ギリシャの都市名。大方、想像がつくと思う。

 

敢えて諄々と説明したが、今回のテーマは、その強者の為の大会に付随して、地元や大国に有利となる採点競技について述べたい。

 

各競技も同様だが、採点競技には、何故か疑問が伴う

今回のパリ五輪の報道を視て、疑問を感じたのはタイトルの通り、採点競技には何故か疑問が伴う。

今回のパリ五輪は開始当初から、何か疑問の判定が多いとの報道を見聞する。

 

因みに私は前回述べた理由の為、映像は全く視ていない。只ヘッドラインに載った報道のみ見聞している。

更にブログを書いている日時は開催中の為、敢えて現在進行形で書かせて頂いた。

 

開催当初からと書いが、どうやら開会式ですら雨天の中の開会式だったと聞き、選手のコンディションに多大な影響を与えるのではないかと危惧した。

更に日本にとり、不利な判定が多いなどの報道がなされた。

調べてみれば、確かに日本が有利と思われた競技に、不可解な判定があった感は否めなかった。

 

例を挙げれば、日本が得意とした柔道、シンクロ等。その他にも、色々日本に不利な判定が存在した。

柔道、シンクロなどは、嘗て日本がメダルを量産した種目だった。

処が今や、明らかにメダルを獲るのがやっとの競技となり果てた。

 

此れはどうしてなのか。理由は様様々だろうが、一つは以前もブログで述べたが、明らかに商業主義、或いは大国主義が蔓延したからと思われる。

日本の柔道は今や、世界の「JUDO」となりつつある。

此れは何を意味しているのかと云えば、明らかに行き過ぎた商業主義が進んだ結果であろう。

 

何故五輪が商業主義に進んだかの歴史を簡単に説明すれば、嘗てソ連という国があった。

1980年、ソ連の首都モスクワで、五輪が開催された。大体この頃まで五輪は開催しても赤字続いた。

五輪は既に引き取り手がないほど、開催地に苦労していた。

 

しかし次のアメリカ五輪のロス大会で、明らかに五輪の様相が変わった。

それは赤字続きの五輪に対しアメリカは、大会運営に一切口出しをしないの条件に開催を引き受けた。

その代償として、自分達に好きな様にやらせろとIOCに訴えた。

 

IOCはアメリカの条件を丸のみ。現在の商業主義丸出しの大会に変えてしまった。

その時から五輪開催は儲かると知り、各国がこぞって五輪誘致に奔走する事となった。

 

五輪が商業主義に舵を切ったのは、1984年のロス五輪。

当時は冷戦の最中で、1980年のモスクワ大会は当時西側諸国は、米国に追随。大会をボイコット。

1984年のロス五輪は、そのお返しとばかり、ソ連を筆頭とした東側諸国は大会をボイコットした。そんな悲しい歴史もあった。

 

因みに次の大会が、再びロス五輪とは、何たる皮肉。

此れを考えた時、何故米国に五輪が開催される事が多いのか、頷ける。

将来五輪は、旧東側諸国に開催されるのは難しいのではないか。此れも当に商業主義、大国主義が分かると言え様。

 

そんな状況下の五輪で、小国が大国に勝つのは、なかなか困難な事。

同じ土俵で戦う水泳、陸上競技等は、まだ良いほう。ほぼ同じ状況下で戦い、白黒がはっきりする為。

異論が無い訳ではないが、採点競技などは、明らかに恣意的なものを感じる時がある。

 

今回を例を挙げれば、柔道。

個人戦もそうだが、団体戦の最後の選定は、明らかに八百長を疑わざるを得ないような内容だった。

 

更に柔道のレフリーの質。

レフリーは各国から選出されるが、中には明らかに自国で柔道などやっていないと思われる国も含まれている。

 

過去の話で恐縮だが、2000年のシドニー大会の出来事。

重量級の日本選手が誤審とも思われる判定で、優勝を逃した事があった。

想えばあの頃から日本の柔道は、世界の「JUDO」に変っていったのではないかと思う。

 

つまり日本の様に試合で先ず相手と組んでから試合をするのではない。

今の世界のJUDOは、相手と組まず「かけ逃げ」、「ヒット・アンド・アウェイ」が主流。

此れは日本の本来の柔道の精神とは懸け離れ、明らかにショー的な格闘技と化した。

前述したシドニー大会で日本選手が誤審とも思われる判定で負けたが、勝った相手が今回の開催国のフランスの選手だったのも、何かの因縁。

 

フランスでは柔道は人気の格闘技。競技人口は日本より遥かに多いとの事。

徐々にショー的要素になりつつあるにも、無理はないのかもしれない。此れが又、地元有利。大国有利と云われる所以。

 

一方、嘗て日本がメダルを獲得していたシンクロは、今回もメダルなしで終った。

今は個人戦がなくなり、団体戦のみとなったが、今回の上位国は明らかに疑問を呈する結果。

 

結論を述べれば、近年のシンクロはルールがコロコロ変わる。そのルールを決めるのは、常に大国の意向。

つまり大国が自国に有利にルールを変え、大会を開催すると云う事。

これでは五輪に備えルールを理解し、強化する事など覚束ない。ルールを作る国が有利に決まっている。

 

もはや競技とは言えない。ただの仲良しグループの、お披露目会としかいえない。

他国が入り込む余地はない。もはや他国は違う協会を組織し、運営。独自の開催をするしか道はないのではないだろうか。

此れは露骨な大国主義では、全く面白みに欠ける。

 

行き過ぎた、商業主義の競技

此れも以前ブログで述べたが、五輪種目でなく独自に開催する大会の種目は採用しなくてよかった。

サッカー、テニス、ゴルフ、ラグビー、スケボー、サーフィン等は、各自で大きな大会がある為、敢えて種目にする必要はない。

これも明らかに商業主義、欧米等を意識した採用基準。

 

反対に野球、ソフトボールなどは試合時間が長いと云う理由もあるが、明らかに北米や一部のアジアのみ盛んな為、除外。

言い忘れていたが、五輪は本来、アマチュアが参加する大会だった。

プロが参加するようになったのも、前述した1984年ロス五輪以降。

こうして振り返れば1984年のロス大会が、五輪を大きく変えた。プロ参加と云う事は、商業主義たる所以。

 

採点競技の矛盾を掘り起こせば、何か近代五輪の矛盾とも繋がるのが面白い。

採点競技とは、明らかに人間の恣意が加わる。

以前冷戦時のような露骨さはないが、何か疑問と思う判定が度々起こる。

 

体操等も同じ採点競技。冬季五輪のフィギアなども、毎回疑問を呈する問題が発生する。

そう考えた時、益々五輪に対し、興味が薄れていく自分を悟った。

 

そういう私も昔は大会に熱中。選手達の活躍に投影。自分を奮い立たせ、明日からの生活の励みとしたものだった。

しかし歳を取るに連れ、日々の大切を知り、一日一日を大切に生きる事の重要性を自覚した。

 

繰り返すが五輪(大きな興行、見世物)は権力者が下位のものに対し、娯楽を提供しているに等しい。

俗に言う、古代ローマでコロッセウムで奴隷の戦いに熱狂。「パンとサーカスに現を抜かす」というのはこの事だろうか。

そう考えた時、現在の五輪の矛盾を理解できるのではなかろうか。

 

最後に

今回の五輪で少し気になった事がある。

それは嘗て日本は団体競技は得意だが、個人競技は苦手と云われていた時代があった。

しかし今回のメダル獲得者を視てみれば、何か団体競技でなく、個人競技が多い。

男子体操の金、柔道の銀は団体だが、個人戦の集まりと云える。躍進を遂げたフェンシング等も、個人種目。

 

団体競技で代表はバレーであろうか。バレーは直前の大会で男女と良い成績だったが、五輪では惨敗だった。

レスリングもなかなかの成績だが、此れも個人競技。

こう考えれば、選手も日本という国も変化してきたのかもしれない。

 

私が幼少の頃、個人よりも組織(団体、世間等)が優先された。

しかし現代は個人が主流の時代。自ずと選手の意識も変化したのかもしれない。

そう考える事が、自らが歳を取った証拠とも云える。

 

しかし今現在ブログを書いているこの時期、お盆休みとなるが、大きな地震があり、台風も近づいている。

何もない事が一番幸せだと感じる自分がいる事だけは、確かかもしれない。

 

(文中敬称略)

令和6年 8月10日付