冒険心が恐怖心に変わった瞬間 芥川龍之介『トロッコ』
★芥川龍之介短編小説シリーズ
・題名 『トロッコ』
・新潮社 新潮文庫 『蜘蛛の糸・杜子春』内
・発行 昭和43年11月
・発表 大正11年 3月 『大観』
目次
登場人物
◆良平
小田原熱海間の近くに住む、8才の少年。良平の住む村の近くで、鉄道敷設工事が始まった。
工事が始まると良平少年は、工事に使うトロッコに興味を持つ。
子供心に、いつしかトロッコに乗ってい見たいという願いを抱き始める。
◆土工
鉄道敷設工事に従事する人夫。小田原熱海間の工事を担う。
あらすじ
小田原熱海間に、鉄道の敷設工事が始まった。
記録によれば明治41年(1908)年と思われる。
主人公の良平は近くに住む少年で、当時8才だった。
8才だった良平少年は、当時多情多感の時期で、工事に対し興味深々だった。
中でもひと際良平の関心を誘ったのは、工事で使うトロッコだった。
山からトロッコが降りてくる時、トロッコには二人の土工が乗っていた。
トロッコは山から下りてくる為、何の力も借りず降りてくる。
ある地点まで降りてきた時、トロッコが停まり、乗車していた土工が下りる。
その後、トロッコに土を載せ、土工がトロッコを推し、山に登っていく。
ただそれだけの作業だったが、子供の良平には面白い作業に思えた。
或る日、良平は弟、隣人の男の3人で土工がいない時、トロッコで悪戯を試みた。
トロッコを3人で高い場所まで押し上げ、其の後トロッコに乗り込み、降下するのを楽しんだ。
一瞬だったが、子供の遊びには最高だった。
もう一度同じ作業をしようとした時、土工に見つかり、どやされた。
3人は一目散に逃げだした。
それ以後、暫く良平は叱られるのを恐れ、工事現場に近づかなかった。
良平が何処にどやされた約10日後、良平は再びトロッコを眺めていた。
今日トロッコを押していたのは、先日と違い若い二人の土工だった。
若い土工に、良平は親しみを感じた。
良平は何を思ったのか土工に近づき、一人の土工にトロットに触る許可を求めた。
若い土工は、二つ返事で許可した。
良平は勇んでトロッコを押し始めた。
子供が興味を持ったモノに触れた時の嬉しさであろうか。
良平は二人の土工と供に、トロッコを押し続けた。
トロッコを押し上げ、高台に着いた。
急勾配に差しかかった後、3人でトロッコに乗り、坂を下った。
その動作が面白く、良平はついつい時間の経つのも忘れた。
何時しか村から遥か遠く離れた処まで来てしまった。
やがて良平の心にも変化が訪れた。
幼少の頃、探検と称し遠くまで来てみたが、時間が経つに連れ徐々に冷静さを取り戻した。
楽しい事に興じていたが、急に現実に戻る瞬間であろうか。
その時が良平にも訪れた。それは今迄仲間と思い一緒にトロッコを押していた土工の言葉だった。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」
芥川龍之介『トロッコ』引用
土工の言葉で良平は、現実に引き戻された。
遥か遠くまで来てしまった道を陽が暮れた中、ただ一人で帰られければならない現実を悟った瞬間。
良平は不安と恐怖に駆られ、無我夢中で泣きそうになり乍、もと来た道を引き返した。
途中で履物が脱げようが、着物が脱げようがお構いなしだった。
何時間か歩いた後、漸く見慣れた村の景色が見えた。
良平は助かったという安堵感が漂い、自宅に駆け込んだ。
すると今迄押さえていた感情が一挙に噴き出し、大泣きした。
あまり良平が大声で泣く為、何かあったのかと近所の人も集まりだす始末だった。
現在26才で妻子を持つ身になった良平だが、今でも何か疲れた時、辛い時など、不意にあの時の記憶が何の前触れもなしに良平の胸に去来するのだった。
要点
今迄楽しいひと時を過ごしていたが、人間がふとしたある事が切っ掛けで、一瞬にして現実に引き戻された瞬間とでもいうのであろうか。
今回の良平の場合、土工が放った一言だった。
良平は土工の言葉に因り、一瞬にして現実に引き戻された。
皆さんにも御経験があるかと思う。
例えば、その日は町内のお祭り等で何時よりはしゃぎすぎてしまったが、何かの拍子に我に返り、今迄感じなかった疲れと倦怠感を感じてしまう瞬間。
ふと冷静さを取り戻し、今迄してきた事がばからしくなり、家に帰りたくなる心境であろうか。
何かその感情に似ている。
子供心に冒険心が募り、浮かれた感情のまま我を忘れ、遠くに来てしまった。
ふとした土工の言葉で冷静さを取り戻し、日が暮れた道を一人で帰らなければならない心細い現実に気づき、不安と焦燥感の駆られたと云えるかもしれない。
最後に大人になった良平が何か疲れた時など不意にその時の記憶が蘇ると書かれてあるが、皆様にも御記憶があるかと思う。
過去に辛い時期があった時、それを乗り越えた時の感情と記憶。
人間は生きていく上で、何度も困難に巡り合う。困難にあった時、
「そういえば過去にも似た経験があったなぁ」と不意に記憶が蘇る瞬間。
勿論、私にも経験がある。
学生時代の部活動・受験勉強の辛い記憶。仕事で失敗をしでかした時など、思い出せばきりがない。
考えてみれば、人は生きる続ける中は、常に困難の繰り返しではないかと思う。
困難を乗り越えた際、人間はひと周り大きくなる。
ひと周り大きくなった瞬間、更なる困難が待ち受けているものだと感じた。
今回の芥川の作品は、何かそう思わせるような作品だった。
(文中敬称略)