凡庸だが、日本史に永遠に名を刻んだ男『小早川秀秋』
今回は凡庸だったが、何故か歴史に名を残した人物を紹介したい。
その名は『小早川秀秋』。
歴史好きな人間であれば、「あの人ね」と云われる人物であろうか。
目次
経歴
・名前 小早川秀秋、通称:金吾中納言、筑前中納言
・生誕 1582(天文10)年(生)~1602(慶長7)年(没)
・主君 豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康
・家柄 木下家→豊臣家→小早川家
・親族 木下家定(父)、雲照院(母)
・官位 従三位左衛門督 参議、権中納言
生涯
1582(天正10)年、木下家定(秀吉の妻ねねの兄)の五男として生まれる。
幼名辰之助と付けられた。
生後3年目にて、義弟秀吉の養子となり、幼少期ねねに育てられる。
実子がいなかった秀吉の後継者として養育される。
1589(天正17)年、秀吉の後継者として僅か7歳にて元服。
羽柴秀俊と名乗る。
羽柴秀勝の領土、丹波亀山約10万石を与えられる。
余談だが、秀秋の誕生が本能寺の変の年。
秀秋の最初の領土が本能寺の変の実行者、明智光秀である事を考えた際、何か因縁めいたものが漂う。
世の中、何気に偶然と思われる出来事も、何かしら不思議な糸に手繰られる事があると実感する。
1591(天正19)年、豊臣姓を下賜され、翌年の1592(文禄元)年、僅か10歳で、従三位中納言を叙任。丹波中納言と云われた。
序列では豊臣秀次に次ぐ、秀吉の後継者とされていた。
後にも振れるが、この当時から既に飲酒の習慣があったと云われている。
秀吉の後継者と祭り上げられていた為、他の者から相当チャホヤされ、育ったと思われる。
此れも後述するが、後に秀秋が日本史に名を残す事になったきっかけと云えるかもしれない。
現代風に述べれば、時の権力者の跡取りと云われ、周囲の者、ごますり人間達に甘やかされて育った「バカ殿」と云えば的確かもしれない。
しかし翌年の1593(文禄2)年、秀吉に実子秀頼が誕生した為、秀秋の運命は一転する。
秀秋は秀頼誕生後、小早川家に養子に出された。
秀吉は当時毛利家を継いでいた輝元に実子がいなかった為、毛利家の乗っ取りを目論み、秀秋を毛利家の養子とする事を画策した。
その動きを察知したのが、分家の小早川家。当主だった隆景も実子がいなかった。
本家を守る目的で隆景が犠牲となる形で秀秋を養子に迎えた。
毛利元就が小早川・吉川家に実子を養子に入れ、小早川・吉川家を乗っ取った手段と、何ら変わらない。
今度は自分達が時の権力者「秀吉」にされようとした為、小早川家が秀秋を受け入れた。
秀秋を受け入れた小早川家だったが、此れが後の小早川家没落の切っ掛けとなる。
理由は前述した如く。
所詮秀秋は秀吉の後継者として幼少から育てられ、秀頼誕生後も秀秋は天下人の後継者であるとの意識が抜けきれなかった。
小早川家と自らの没落を招いた、秀秋の其の後の動きを見てみたい。
小早川家の養子後
1594(文禄3)年、秀頼誕生の翌年に既に用無しとして、毛利家の分家の小早川に養子に出された。
此れも考えようによれば酷いと云えるが、此の頃になれば既に秀吉は天下人であり、誰も逆らえる者がいなかった。
後の秀次のような目に逢わなかっただけ、ましと云えるかもしれない。
それ程、秀秋に取り秀頼の誕生は、晴天の霹靂だった。
小早川家の養子となり、木下秀俊は「小早川秀俊」となった。
小早川家の養子後、あいかわらず放蕩な生活を続けていた模様。
因みに秀俊、この時まだ僅か14才。
この頃では既にアル中の兆しもあったと伝えられている。
小早川家としては太閤秀吉との縁が強くなったが、何か将来の禍根を抱えたようにも思われた。
1595(文禄4)年、関白秀次が太閤秀吉の勘に触れ、一族諸共処罰される。
事件のあおりを受け、小早川隆景が連座で処罰された。
隆景の科により、丹波亀山城は一時没収される。
しかし其の後、秀俊は筑前約37万石の国主となった。
秀吉が中国大返しの際、秀吉が信長の仇を討つ為、帰京する羽柴軍の追撃を毛利輝元に諫めた小早川家(隆景)を、ぞんざいに扱えなかったと思われる。
総大将として朝鮮に渡海
天下を統一した秀吉の矛先は、外征に向かった。
朝鮮を足掛かりとして当時の明国に攻め入る予定だったと思われる。
有名なのが、文禄・慶長の役。
1592(文禄元)年の「文禄の役」では、秀俊は当時11才。
1597(慶長2)年の「慶長の役」では、当時16才。
秀俊は朝鮮に近い西国大名だった為、朝鮮に渡海。一時は現地の総大将となる。
秀吉の甥であり、当時16才の為、戦歴の箔をつける意味もあったとのであろう。
しかし秀俊は現地で失態を繰り返す。元々チャホヤされ育った「バカ殿」だった為、実力もなかった。
現地から送られてきた報告書を纏め、太閤秀吉に報告したのは、後の五奉行の一人である「石田三成」と云われている。
秀俊は秀吉の怒りを買い、現地に召喚され、そのまま越前約16万石に減封された。
当然、秀俊は三成を恨んだ。
実力がなかった為、当然の措置とも云えるが、所詮人間は感情の生き物。
減封処分に秀俊は、納得いかなかった。
人間明らかに自分の過ちだが、何か認めたくない感情がある。
その時人間は、どうするか。他人のせいにするのが、人間の行動。
秀俊も多分にもれず、三成を恨んだ。
この事は後に、重大な意味を齎す結果となる。
秀俊が没収された筑前領土は、そのまま秀吉の直轄地(蔵入地)に編入された。
編入後、現地の代官に三成が任命された。此れが事を更にややこしくさせた。
尚、秀俊は養父隆景の死後、名を秀俊から「秀秋」に改めた。
太閤秀吉の死後
1598(慶長3)年、太閤秀吉が亡くなった。
秀吉の死後、武断派と文治派が激しく対立したのは、過去に述べた通り。
家康は争いに乗じ、武断派を巧みに操り、秀吉の死後の権力を掌握した。
家康は秀吉の死後、専横を究め、秀吉が決めた掟を次々に破った。
家康は勝手に大名の領土を加増した。
家康は秀吉の怒りに触れ、減封されていた秀秋に対し、太閤秀吉の遺言と偽り、秀秋に元の領土、筑前・筑後約55万石に戻した。
秀秋が家康に対し恩義を感じたのは、云うまでもない。
因みに減封された秀秋は、多くの家臣をリストラした。
リストラされた家臣を不憫に思った三成は、その中の幾人かを自分の家臣として採用した。
秀秋の家老だった山口宗永も、この時リストラされている。
リストラされた山口宗永は秀吉の直参となり、大聖寺城主となった。
山口宗永はこの時の恩義を感じたのか関ヶ原の際、東軍に味方した前田家に対抗した。
前田家は大聖寺城を攻略後、越前まで進んだが、小松城の丹羽長重に背後を突かれ身動きがとれず、加賀に釘付けとなった。
関ヶ原の秀秋の裏切り
徳川家と豊臣家の対立は頂点を迎え、1600(慶長5)年、とうとう関ヶ原にて直接対立となった。
関ヶ原の経緯は過去に何度も述べている為、省略したい。
戦闘は未曾有の大軍同士の戦いだったが、勝敗は半日であっけなく片が付いた。
半日で勝敗が付いた訳は、今回紹介した秀秋の動きが少なからず影響している。
張本人といってもよいだろう。
此れが小早川秀秋が暗愚だが、日本の歴史において永遠に名を残す出来事となった。
その行動とは。
ズバリ、 「裏切り」 。
西軍(豊臣家)についた武将だったが、戦闘の最中で西軍を見限り、「東軍に勝利を齎した男」。
或いは 「家康に天下を獲らせた男」 とも云えようか。
三成は実質的なリーダーだったが、名目上の総大将は「毛利輝元」だった。
その為、分家の小早川家・吉川家は西軍として参加した。
結論を先に述べれば、皮肉にも本家は総大将だったが、分家の二家は関ヶ原では東軍に寝返った。
戦う前から東軍に内通していた。
この時点ではまだ、明確な裏切りの素振りは見せていない。西軍は手始めに、京の伏見城を攻めた。
伏見城では、秀秋の実兄木下勝俊が籠城していた。
その為秀秋は考えあぐね、叔母の高台院(秀吉の正妻:元北の政所)に相談した。
高台院は伏見城を攻めるのであれば、城中にいる木下勝俊に呼びかけ、和睦をすすめよと助言した。
和睦の際、高台院自らが人質となり、大坂方との懸け橋となる事を明言した。
高台院が秀秋に献上した妙案だが、城中にいた木下勝俊は秀秋が西軍に加わったと聞き、城中での立つ瀬を失い、伏見城から脱出した。
高台院は中立を装い乍、実は内心家康を支持していたと思われる。秀吉の死後、出家。
大坂城を退去後、北政所がいた西の丸は、家康が入城した。
北の政所自身も、秀吉亡き後は家康しか天下を治める事ができないと、読んでいた。
秀秋は領土が西国の為、いやがうえにも西軍に味方する羽目になった。しかしいつ東軍に寝返っておかしくない状態だった。
理由は前述した通り、実質的リーダーの三成とは所詮、ウマが合わなかった。
西軍の主力、宇喜多秀家は秀秋の心中を察し、三成や島津義弘と供に、秀秋を詰問する心算でいた。
流石の秀秋も西軍の各大名の動きを見抜いたのか、のらりくらりとかわし、実際は各地で鷹狩りなどをしていたが、病と称し使いの者に返答していた。
西軍の大名が決戦に備え、大垣城に入り軍議の際も何かと理由をつけ大垣城に入らず、城外で野営した。
決戦の前日である9月14日、関ヶ原が見渡せる松尾山に漸く布陣した。
秀秋はこの時点で家康と内通していた。しかし家康もさるもの。
いつ秀秋が心変わりをして裏切りを断念するか分からない為、目付として家臣の奥平貞治を秀秋の陣に送っていた。
夜、松尾山に布陣した秀秋の陣に、大谷吉継が訪れた。吉継も明らかに、秀秋を疑っていた。
吉継は秀秋の真意を確かめるべく、秀秋の陣を訪れた。
この時秀秋は側近たちに口添えされ、何とか誤魔化したと云われている。
だが秀秋と面会した吉継は、秀秋の裏切りを予感。
自陣に帰った後、秀秋の裏切りに備え、密かに陣を変えた。
因みに秀秋、関ヶ原の際は、僅か19才。
普通の19才であれば、この様な重圧に耐えられないかもしれない。
仮令秀秋が凡庸でなくとも、相当なプレッシャーが掛かっていたと思われる。
9月15日、運命の日。決戦の幕が、切って落とされた。
戦いの序盤は、宇喜多軍の奮闘で、西軍がやや優勢だった。戦局が動いたのは、午後になってから。
それまで秀秋は戦局を見定め、まだどちらにつくか決めかねていた。
何時まで経っても裏切りを見せない秀秋に対し家康は、裏切りを促す為の賭けにでた。
秀秋軍に対し、威嚇と催促の鉄砲を撃ちかけた。
此処が今回の運命の分かれ目。
秀秋は三成と家康の何方を勝たせるのかの、キャスティングボートを握った。
日本の歴史を決める時が一瞬、秀秋のようなつまらない人物に握られた。
松本清張の言葉を借りれば、
重大な運命を左右する糸が、一瞬だけまったくつまらない人間の手に握られることがある。・・・彼らの一人がその機会をつかんで、それをつよく高めると同時に自分自身をも高めることはめったにない。偉大さが、つまらない者にゆだねるのはほんの束の間だけであり、それを取りにがすと、そんな機会には二度とめぐまれない
引用元:松本清張作『私説・日本合戦譚』
だいぶ長い文章だが、敢えて引用した。最も秀秋の立場を、端的に示している。
秀秋は暗愚だが、この瞬間だけで日本史に永遠に名を刻んだ。
鉄砲を撃ちかけられた秀秋は家康に怒られたと思い、裏切りを決意した。
全軍に松尾山からの下山を命じ、側面の大谷吉継隊の攻撃を開始した。
大谷隊は秀秋の裏切りを予測していたが、秀秋の裏切り備え陣容を変えていた4人の武将(脇坂、赤座、朽木、小川)まで寝返った。
此れでは大谷隊は一たまりもない。大谷隊は奮闘したが、あえなく全滅した。
負けを悟った吉継は側近に輿を担がせ、戦場離脱。そのまま自害した。
首は湯浅五助に持ちされれ、とうとう発見されなかった。戦場近くのどこかで埋められたと思われる。
大谷隊の全滅で、東軍の攻撃を側面から受けた宇喜多隊も、やがて全滅。
秀家は裏切った秀秋に対し、一太刀浴びせようとしたが、側近に宥められ戦場離脱した。
既に石田隊のみとなった西軍も、東軍の一斉攻撃を受け全滅した。
こうして東西を二分した戦いは、秀秋の裏切りにより、僅か半日で決着がついた。
裏切り後の秀秋
関ヶ原の戦い後、東軍の各大名が家康の許に勝利見舞いに訪れた。
殆どの大名が家康の許を訪れたが、今回の立役者秀秋は、なかなか家康の許を訪れない。
なかなか訪れない家康の方から秀秋に、使者を出した。
その時秀秋は一体、何をしていたのか。
秀秋は合戦で裏切りが遅れた事で、家康から叱責するのを恐れ、家康の許を訪れるのを躊躇っていた。
家康からの使者の催促で、秀秋は漸く家康の許を訪れた。
家康の許を訪れた秀秋は他の大名の如く、大言壮語を吐くかと思われたが、秀秋はなんとまるで叱られたかのように、ぺこぺこ頭を下げたと云われている。
此れが「バカ殿」そのものと云える。
自分が成し遂げた事の重大さを、まるで理解していないような態度だった。
逆に家康も秀秋に対し、なみなみならぬ恩義を感じていたであろうが、家康は此れで今後与し易しと思ったに違いない。
家康も秀秋に対し、今後難癖をつけ潰す事ができると思ったであろう。
後の事になるが、実際そうなった。それは又のち程、言及したい。
こうして秀秋は家康に天下を獲らせた。更に日本史上で、一生消える事のない名前を刻んだ。
関ヶ原での論功行賞後
関ヶ原の論功行賞で秀秋は、旧宇喜多領の美作・備前・備中の約55万石に加増・転封となった。
尚秀秋はこの時、秀秋から秀詮と名を改めた。
更に大幅加増の為、多くの家臣を採用したが、以前紹介した春日局の元夫で家老であった稲葉正成が、理由が分からず秀詮の許から出奔している。
此れも何か不思議な出来事だった。秀詮の禄も増え、此れからと云う時だったが。
正成については以前の紹介したが、何か謎の行動が多い。
関ヶ原の2年後、秀詮は急死する。
死因は幼少からの飲酒。裏切った大谷吉継の祟りに悩まされた。
或いは、他の大名、世間の噂を気にしてノイローゼに罹り、死亡したとも云われている。
関ヶ原の裏切りと秀詮の官位を捩り、「裏切り中納言」とも云われていた。
死亡時で秀詮は、21才。
普通の21才の青年であれば、誹謗中傷に耐え切れなかったのかもしれない。
坊ちゃん育ちだっただけに、世間の誹謗中傷に過敏になり、神経をすり減らしたと思われる。
何はともあれ関ヶ原で東軍に勝利を齎し、家康に天下を獲らせた秀秋(秀詮)は、合戦後わずか2年で亡くなった。
秀秋は無嗣だった為、小早川家は御家断絶。改易処分となった。
改易後、秀秋の領土は徳川家の直轄地(天領)に編入された。
前述した家康が、労せずして小早川家の領土をまんまと手に入れたと述べたのは、この事。
いずれ何か難癖をつけ、小早川家を潰すつもりでいたであろうが、秀秋の早逝であっけなく家康の手に落ちた。
秀秋の死は当に、後の大坂の陣で豊臣家が滅亡する事を予言していたのかもしれない。
今回の秀秋を紹介するにあたり、そう考えざるを得なかった。
(文中敬称略)
・参考文献一覧
【逆説の日本史12 近世暁光編】井沢元彦
(小学館・小学館文庫 2008年7月発行)
【私説・日本合戦譚】松本清張
(文藝春秋・文春文庫 1977年11月発行)