中途半端な態度で、身を滅ぼした男『増田長盛』
皆様の周りに、自分は上手く立ち回っているように思っているが、実はその態度が皆から嫌われ、挙句に自分の身を滅ばした人間、或いは著しく評価を下げている人物はいないだろうか。
今回、戦国時代にて自己保身に走った末、身を滅ぼした人物を紹介したい。
戦国の武勇伝が華やかな時代に、何故この様な人間を取り上げるのかと言えば、人間誰しも犯しがちな失敗と云える為。
自戒を含め、敢えて紹介したい。
目次
経歴
・名前 増田長盛、仁右衛門
・生誕 1545(天文14)年(生)~1615(元和元)年(没)
・主君 豊臣秀吉→秀頼
・家柄 増田家
・親族 増田長俊(弟)、増田盛次(子)
・官位 従五位下 右衛門少尉
生涯
生れは尾張国中島郡増田村、或いは近江国浅井郡益田郷とも云われているが定かではない。
両地名が増田、益田と関係している為と思われる。
1573(天正元)年、秀吉に見い出され、当時約200石で仕える。当時28歳と云われている。
秀吉は北陸にて上杉攻めの陣中、柴田勝家と意見が合わず、無断で戦場離脱。
本来ならば死罪だが、主君織田信長から才を惜しまれ、そのまま中国毛利攻めの方面師団長となった。
長盛は、秀吉の毛利攻めに従軍する。
長盛は戦場で武功を立てる事もあったが、主に内政面にて才能を発揮。
秀吉の有名な「鳥取城攻め」の際、商業奉行(主に物資の売買)などを務め、商才を発揮した。
長盛自身、どうやら算盤勘定に優れていた。
長盛は外交面おいても才能を発揮した。
上杉謙信の跡を継いだ越後の上杉景勝と、外交で交渉担当を務めている。
武官というよりも、文官タイプ。武将というよりも、奉行。つまり内政面に長けていたと云える。
後に秀吉政権下にて頭角を現す、同タイプの石田三成と似ている。
本能寺の変
戦国史を語る上で、必ず出てくる重要な事件。それは「本能寺の変」。
一夜にして戦国の世が激変。信長亡き後、一時期であるが戦国時代を振り出しに戻した。
信長亡き後、後継者の地位を獲得。
勝利者となったのは、「中国大返し」を成功させ、逆臣明智光秀を山崎にて討った「羽柴秀吉」。
秀吉は其の後、巧妙に織田家を乗っ取り、旧織田家家臣のライバル達を次々に蹴散らした為、長盛に運が巡ってきた。
長盛は主君秀吉が出世する度、自らの地位を着実なものとした。
1590(天正18)年、秀吉の小田原攻めにて応仁の乱以後、100年以上続いた戦国の動乱が一旦終了する。
豊臣政権下での長盛
小田原征伐後、長盛は秀吉から近江水口約6万石を賜る。
国内を統一した秀吉は其の後、勢いをかりそのまま外征に転じた。所謂「朝鮮出兵」。
朝鮮出兵には賛否両論いろいろあるが、秀吉の外征の目的は朝鮮国を足掛かりとして、最終目的が明国だった(唐入り)と推測される。
1592(文禄元)年、「文禄の役」と呼ばれる、大がかりな外征が始まった。
日本軍は、武断派とよばれる武将が渡海。朝鮮国に攻め入った。
開戦当初は朝鮮国の不備もあり、戦況は日本軍に有利に働いた。
しかし戦闘が長期化するにつれ、伸びきった戦線で日本軍は補給・冬の寒さに悩まされた。
更に明軍からの救援もあり、戦いは忽ち膠着化した。
長盛は同じ奉行の地位だった、石田三成と渡海。現地にて主に、軍監的役目を果たした。
戦闘が膠着するにつれ、戦いは甚だ日本軍に不利となる。
現地から内地(秀吉の許)に上がってくる報告は芳しくなく、長盛・三成は現地の最前戦で戦う武断派連中から相当恨まれた。
此れが尾を引き、秀吉死後の武断派・文治派の激しい対立の原因となる。対立は後の関ヶ原の行方を左右した。
現地で武断派の連中が苦戦している最中、1595(文禄4)年に長盛は何故か、秀保の領地であった大和郡山約20万石を継承する。
※秀保とは、秀吉の弟秀長の養子。秀長の死後、秀保が家督を継いでいたが、秀保は若くして急逝する。
奉行としては、破格の待遇。関ヶ原の際、実質的リーダーであった石田三成でさえ、近江国佐和山で約19万石だった。
現地で苦戦した武将達には、何か腑に落ちない長盛の待遇。此れも文治派が恨みを買った要素の一つとも云える。
秀吉の甥であった小早川秀秋は、軍監(三成・長盛)の報告により減封されている。
此れもおそらく、関ヶ原で秀秋の裏切りを招いた原因の一つと推測される。
更に長盛の評判があまり芳しくないのは、外征の最中、秀吉の甥で当時関白だった秀次の廃嫡・切腹に関与した件。
秀次の切腹事件(1595年)の詳細は省くが、秀吉と淀殿の間に秀頼が生まれた。
その結果、後継者として考られていた秀次が邪魔になり、始末されたと言うのが大方の予測。
秀次に色々と難癖をつけ、世間に秀次の横暴さを印象を付けさせ、切腹やむなしと評判を植え付けたものと思われた。
秀次失脚の片棒を担ぎ秀吉に誹謗中傷したのが、増田長盛・石田三成と云われている。
秀吉は長盛・三成からの報告を聞き、秀次の処罰を決意。
秀次一族郎党を集め、女子供も含め処罰(斬刑)した。
処罰の監視役を務めたもの、長盛・三成だった。
因って長盛・三成は秀吉の晩年、五奉行の地位を占めるが、頗る評判が悪かった。
他の者にしてみれば二人は所詮、太閤の威光を借りた「虎の威をかる狐」のような存在と思われていた。
秀吉も此の頃は老化が進み、以前のような鋭敏さはなかった。
耄碌が進み、遅い時期にできた我が子を可愛がる一人の老人に過ぎなかった。
秀吉がこの様な状態だった為、他者は側近だった奉行の長盛・三成に対し、よい感情を抱かなかった。
他者は奉行連中が自分達に都合のよいように秀吉を動かし、政治を壟断していると見た。
その悪しき感情は秀吉の死後、露骨に現れた。
秀吉の死後、そして関ヶ原
1598(慶長3)年、太閤秀吉が死去。秀吉の死後、武断派の連中は今迄の恨みを晴らすべく、三成の暗殺を企てた。
三成は現状を打開すべく、陰で武断派を操っていた徳川家康の宅に逃げ込んだ。
流石に武断派の連中も、五大老の筆頭であった家康の宅まで踏み込めなかった。
武断派は三成の引き渡しを家康に要求したが、家康は武断派を説き伏せ、騒動を収めた。
収めた引き替えとして家康は、三成の中央政権からの引退。佐和山にて隠居、蟄居を要求した。
三成も渋々であるが、家康の条件を呑まざるを得なかった。
三成の中央政権から引退後、家康の壟断はますます強まった。
三成は家康の行動を苦々しく思いながらも、佐和山で時を待った。
一方この頃、長盛は一体何をしていたのか。
長盛はさしあたり目立った動きはしていない。
ただ時の情勢を伺い、今後の身の処し方を考えていたのかもしれない。
長盛の動きは、三成が佐和山にて隠居した2年後に現れる。
それは家康の会津(上杉)討伐、其の後に続く関ヶ原であった。
関ヶ原前後での長盛の動き
関ヶ原の経緯は過去ブログにて何度も述べている為、敢えて繰り返さないが、長盛の大きな歴史的役目と言えば、関ヶ原戦前後の長盛の動向ではないだろうか。
人間は誰もが過ちを犯す。過ちを犯すが、長盛の場合「優柔不断」「裏切り者」「臆病者」として失敗の良い見本。
長盛がどうして失敗したのか、長盛の関ヶ原の前後を明らかにしたい。
関ヶ原の前後の長盛の動きを紹介する前に話は前後するが、関ヶ原が起こる一年前の話をする。
1599(慶長4)年、今回の上杉討伐と同じく、五大老の一角であった前田家(加賀)討伐の動きがあった。
討伐の動機は、利家亡きあと家督を継いだ前田利長が、家康暗殺の計画を企てたとの疑い。
「利長に家康暗殺の計画あり」と家康に通報したのは、五奉行の「増田長盛・長束正家」と云われている。
太閤秀吉亡き後の実質支配者だった家康に、長盛・正家の二人は早くも胡麻を擂る為、近づいていたのが分かる。
長盛・正家は文官(奉行)であり、「機を見るのに敏」。所詮、利益(算盤勘定)で動く人間。
家康としては暗殺計画の有無など何方でもよく、ただ前田家を脅す切っ掛けがあれば良かった。
前田家は家康の脅しに屈し、利家の未亡人(まつ、現芳春院)を人質として差し出した。
なんとなく長盛・正家の姑息さが分かる出来事。
話を戻すが、今回の上杉討伐のどさくさに紛れ、家康排斥を目的として石田三成が大坂にて挙兵した。
家康は下野小山にて、上杉討伐に参加していた各武将と評議を開いた。
評議の結果、三成(西軍)を討つ為、軍を引き返すことが決まった。その時、三成挙兵の動きをいち早く家康に密告した人間がいた。
密告した人間は前年、前田家謀反の動きありと家康に密告した「増田長盛」だった。
前回の前田家と同様、今回も長盛は家康に密告していた。
今回の挙兵は勿論の事、長盛は上杉討伐に参加する大谷吉継が垂井で佐和山の三成と密談していた事も、家康家臣に通報していた。
こうなると長盛は西軍の大坂城にいながら、東軍に情報を漏らしていた裏切り者(スパイ)と云われても仕方がない。
因みに此の男、三成の挙兵の際、家康の弾劾状にも名を連ねている。
つまりこの時点で、既に二股をかけていた。
西軍・東軍どちらが勝っても、自分の身を守る(自己保身)行動をしている。
大坂城にいた三成も、何か長盛の煮え切らない態度に業を煮やし、長盛を詰問した。
その際も長盛は、曖昧な態度を繰り返したと云われている。
当時三成は、41才。長盛は三成より15才上の、56才。
隠居の身だった三成だが、嘗て奉行の序列では三成が上だった。
今回も三成が実質的リーダーだった為、長盛としてあまり面白くなかったのかもしれない。
長盛が内通者と疑われた為、名目上のリーダーだった毛利輝元は最後まで大坂城を離れる事ができず、戦場に赴く事ができなかった。
此れは西軍の士気、関ヶ原にて小早川秀秋の裏切りに深く関与した。
何故なら西軍を裏切った秀秋の松尾山の陣は、本来ならば西軍の総大将毛利輝元が布陣する予定だった。
もし輝元が参戦していれば、戦いは全く違ったものとなったであろう。
南宮山で待機していた毛利秀元も山を下り、背後から家康の本陣を突いたかもしれない。
それだけ長盛の動きは、他者に警戒を与えた。
東軍勝利、長盛の其の後
関ヶ原の戦いは、僅か半日にて東軍の勝利。勝者となった家康は、敗北した西軍武将を厳しく処罰した。
増田長盛は家康に使者を送り許しを得ようとしたが、家康に撥ねつけられた。
長盛は戦場で戦った西軍の武将と同じく、大和郡山を没収(改易)された。
自己保身に走った長盛だが、何故か全てを失ってしまった。
此れはどうしてか?
やはり東軍・西軍どちらが勝利しても良いように工作した、「姑息さ」「優柔不断さ」が嫌われたのではなかろうか。
今回は勝利したが、もし次に大事が起これば、又同じ行動を繰り返し、信用ならぬ人間と思われたに違いない。
皆の周りにも、似たような人間がいると思われる。互いに争っている組織の両方の味方をする振りをして、実は身の保身を図る人間が必ずいる。
何方かが勝利するれば、初めから味方のように振舞うが、実は勝利した側からすれば、大概は信用するに足らない人物。
長盛は家康にとり、正に此の様な人間だった。
長盛は領地没収後、高野山追放となった。
長盛はいざという時、優柔不断で右顧左眄して、大事な決断ができなかった人間と云える。
人間は人生において色々な失敗を犯すが、関ヶ原での長盛の失敗は、誠に人生の貴重な教訓だったのかもしれない。
長盛の晩年
高野山追放となった長盛は、後に家康家臣の高力清長の預かりとなる。
1614(慶長19)年、方広寺鐘銘にて徳川家と豊臣家が揉めていた際、徳川家の和睦の使者を頼まれるが、長盛は拒否。
同年冬、徳川家と豊臣家の最後の戦い(大坂冬の陣)が始まった。
長盛は既に力もなく何もできなかったが、御三家尾張国徳川義直に仕えていた息子の盛次が出奔。
大坂方の豊臣家に加勢する。大坂夏の陣後、豊臣家は滅亡(1615年、元和元)する。
長盛は叱責を問われ、切腹。享年71才だった。
関ヶ原以後の長盛の人生は、誠に味気のないものと思われる。
繰り返すが長盛の歴史的役目は、関ヶ原の前後で失敗をした事。
その失敗は、「優柔不断」「裏切り行為」「小心・臆病」が招いた結果と云える。
人生、何方にも調子の良い顔をすれば誰にも信用されなくなり、やがて身を滅ぼす結果になり兼ねないという教訓かもしれない。
(文中敬称略)