サラリーマンの悲哀 松本清張『寒流』
★松本清張シリーズ 短編小説編
・題名 『寒流』
・新潮社 新潮文庫 【黒い画集】内
・発行 昭和46年10月
・発表 昭和34年 9月 週刊朝日9月6日号~11月29日号
目次
登場人物
◆沖野一郎
B銀行R支店に新しく赴任した、43歳の支店長。
沖野はB銀行では大学時代の同期だった、桑山常務の派閥に属していた。
桑山の先代はB銀行の功労者だった為、桑山は同期でありながら既に常務だった。
今回、沖野は桑山のひきで、重要地区の支店長を任された。
沖野は新しい赴任先の顧客で料亭を経営する未亡人、前川奈美と関係を持つようになる。
前川奈美との関係が続く内、桑山が入り込み、奈美を横取りした。
横取りされた沖野の人生は一転。出世の道を絶たれ、転落の道を歩む。
◆前川奈美
料亭経営をする、30歳の未亡人。
新しく赴任したB銀行R支店長の沖野一郎と深い仲になる。
沖野と関係を続けていた最中、桑山が割り込む。
二人を天秤にかけた末、奈美は沖野を見捨て、桑山の乗り換える。
経営者としては、なかなかのやり手。
◆桑山英己
沖野の大学同期で現在、沖野が勤めるB銀行の常務。
嘗ては同期だが、今では会社の上司と部下の関係。
桑山は沖野が赴任先で知り合った、前川奈美の存在をしり、興味を持つ。
そのまま割り込み、桑山は前川奈美を横取りする。
奈美を沖野から奪った上、更に邪魔になった沖野を宇都宮支店に左遷させる。
◆伊牟田博助
秘密探偵事務所(興信所)の職員。沖野に依頼され、桑山と奈美の関係を調査・報告する。
沖野に調査報告をするが、或る日、急に探偵事務所を辞め、中古車セールに転身する。
◆福光喜太郎
俗に言う、総会屋。過去の沖野が会社の依頼で、仕事を頼んだ男。
沖野は私怨で福光を利用。桑山常務を追い落とそうと画策する。
だが福光はあっさり桑山に懐柔され、逆に沖野を脅迫し始めた。
福光はまさにやり手らしく、まんまと桑山と沖野の両方から金をせしめる事に成功。
左手の小指がない事から、元はその手の筋の者と思われる。
◆山本甚造
東京の山本組の組長。沖野の脅迫する為、東京からわざわざ宇都宮までやって来る。
脅迫の目的は、「沖野に桑山と奈美との関係や、不正融資の一件を世間に暴露するのを諦めさせる事」だった。
あらすじ
沖野一郎は、43歳のB銀行勤めで常務桑山の派閥に属していた。
桑山常務は大学時代は同期だったが、今では会社の上司と部下の関係。
何故、同じ43歳の桑山が何故常務に昇りつめたかと言えば、桑山の先代がB銀行創立時の功労者だった為。
つまり親の七光りで、桑山は若くにして常務まで昇り詰めた。
現在B銀行では切れ者と評判の副頭取と桑山常務が、後継者の椅子を廻り、激しく対立していた。
所謂、行内では副頭取派と常務派間で、派閥争いが激化していた。
当然、沖野は桑山常務派だった。
沖野は近年開発が進む、新興地域の支店長に任命された。
その地区は、B銀行のみならず、他行も重要地域と位置付け、こぞって支店を開設していた。
沖野はB銀行内での桑山常務の勢力拡大の為、重要地域のR支店に任命された経緯だった。
沖野は前支店長と供に、顧客の引継ぎの為、得意先巡りをした。
得意先に29歳未亡人、前川奈美がいた。
奈美は若くにして、料亭を経営。なかなかのやり手らしく、順調に業績を上げていた。
銀行の融資ランクでは、水商売関係は低い位置にあったが、奈美が経営する料亭は融資先でもなかなか優秀だった。
沖野は前川奈美を見た瞬間、一目で気にいった、其の後、まもなく二人は深い仲になった。
沖野には妻子がいた。所謂、不倫関係である。
沖野は奈美と関係で、有頂天になった。生まれて初めて、奈美にのめり込んだ。
奈美は沖野が何処に連れていっても、美人で服装も派手な為、周囲に注目された。
沖野は得意絶頂だった。奈美も沖野との関係は、まんざらでもない様子だった。
或る日、奈美と桑山が偶然、沖野の支店にやって来た。
桑山は偶々来ていた奈美と、支店で出くわした。奈美を見た桑山は奈美を気に入った。
奈美も桑山に気に入られるや否や、沖野を捨て、あっさり桑山常務に乗り換えた。
当然、沖野としては面白くない。
挙句に桑山は、沖野を奈美の許から完全に隔離する為、沖野を宇都宮支店に左遷した。
都落ちした沖野。都落ちは桑山の派閥から外れ、出世競争からの脱落を意味する。
沖野は奈美を桑山に取られ、更に出世街道からも離脱した。
沖野は自分を貶めた、桑山に復讐を誓う。
復讐の為、探偵を雇い、桑山と奈美との関係を調べさせた。
調査資料と証拠写真を手に入れ、以前利用した総会屋の福光に材料を持ち込んだ。
福光に材料を持ち込んだ沖野の狙いは、株主総会で福光を使い、桑山常務を失脚させる事だった。
しかし福光は、巧妙に沖野のネタを逆に利用。
桑山との個人交渉に成功し、沖野を裏切り、あっさり桑山に寝返った。
福光は沖野が集めた材料はガセネタだったと、沖野を詰問。
逆に沖野から詫びとして、金をせしめた。
更に桑山はヤクザまで使い、宇都宮にいる沖野を脅した。
沖野は次々に、桑山に先手を取られ、頭を押さえられてしまった。
沖野はまさに、踏んだり蹴ったり。沖野は自分の人生を悲観した。
絶望に打ちひしがれていた沖野の許に、一通の手紙が届いた。
以前桑山と奈美の関係を調べる為、雇った探偵からだった。
手紙の主は今は探偵社を辞め、中古車セールをしているとの事。
沖野は福光に上手く言いくるめられ、「探偵が偽の調査をして、沖野にいい加減な資料を送った」と信じ込まされていた。
沖野は「探偵も桑山常務に懐柔された」と思い込んでいた。
沖野は藁にも縋る思いで、手紙をくれた元探偵に面会した。
初めは沖野の誤解もあり、元探偵を詰ったが、次第に自分の誤解と悟り、探偵に謝罪。
沖野は逆に、元探偵に協力を求めた。
沖野は思案した結果、或る妙案が浮かんだ。
桑山はいつも高級外車を利用していた。元探偵は現在、中古車販売していた。
共通点は「車」。車を利用した、巧妙なアイディアだった。
沖野はその妙案に桑山と奈美が引っ掛かり、桑山と奈美が失脚するのに賭けた。
果たして、沖野が逆転の最後の一手として賭けたアイディアと、その結果は如何に。
見所
作品タイトルの『寒流』は、なかなか意味が深い。
寒流とは気候の事ではなく、会社内で出世街道から外れた「非主流派」、つまり出世の道が閉ざされ、冷や飯を喰わされた立場(閑職に追いやられた)の人間を示している。
作品を読んでいて、なかなか上手いタイトルと感じた。
見事にサラリーマン社会、サラリーマンの悲哀を描いている。
会社には外部からは分からないが、内部では必ず派閥争い、人事、私怨などが存在する。
更には、どの会社も決して表沙汰にしないが、会社と総会屋との関係を分かり易く描いている。
それは全て、どの会社にも必ず起こりうる出来事。現在進行形で、実際起こっている事象。
大概どこの会社でも派閥争いが存在する。
何処の派閥に所属するかに因り、会社内での将来の出世がほぼ決定すると言っても過言でない。
しかし一旦派閥から外れてしまえば、その人間は一生報われず、退職まで冷や飯を喰う。
復活する事など、二度とありえない。
社内で自身がその立場に落ちた時、今迄仲間と思っていた人間は潮が引くが如く、見事に去っていく。
理由は、
落ちていく人間とつるんでいれば、じぶんも仲間と見做され、左遷・降格されるおそれがある為。
此れはどの会社も同じ。嘗て私も、何度か経験した。譬え会社に残らず、辞める時も同じ。
私はしばし、フリーで仕事をする期間がある。
契約中は良き仲間として付き合うが、契約が切れる寸前、解消後はモノの見事に関係は断ち切られる。
此方から関係を切ると言うよりも、寧ろ
「向こうから意識的(一方的)に関係を拒み始める」といった方が正解かもしれない。
作品内でも、同じ事象が随所に見られる。
会社での沖野の状況は勿論の事、情事を重ねていた前川奈美も、沖野に対し同じ反応をし始める。
徐々に冷たくなり、挙句には露骨に関係を避け、突慳貪になり、一方的に関係を断ち切る。そのまま当て嵌まると言ってよい。
当然その様な仕打ちを受けた人間は、相手に対し恨み・憎悪を感じ、仕返しを考える。
つまり「復讐」である。
沖野は桑山と奈美の関係を暴露すべく、探偵を雇い資料を集め始める。
資料を集め始めた沖野だったが、沖野は雇った探偵がいまいち信用できなかった。
探偵の風采があがらないのも助長、沖野は探偵に対し、何か胡散臭いものを感じていた。
資料を集めた沖野は、以前銀行が株主総会で利用した福光(総会屋)を利用、株主総会で桑山の失脚を企んだ。
沖野は福光に資料を見せた。
福光は沖野の資料を見て、満更ないでもない様子。むしろ乗り気にさえ見えた。
この時沖野は奈美に対し、まだ未練があった。
桑山が失脚後、奈美が自分の許に戻ってくるかもしれないと言う、淡い期待があった。
作品中でも述べられていたが、この時点で沖野は桑山憎しのみで、自分を捨て桑山に走った奈美に、まだ未練があった。
もし桑山の失脚後、奈美が自分に許しを乞えば、沖野は奈美を許すつもりでいた。
此処がまだ沖野の甘い処。沖野はその隙を、まんまと桑山と福光に付け込まれた。
沖野が本気で相手を蹴落したいのであれば、自分も捨て身になる必要があった。
沖野には、その決意が欠けていた。
沖野は間近に迫った株主総会で、福光の働きに期待していた。
処が或る日、福光から呼び出しがあり、沖野は福光からとんだしっぺ返しを食らう。
福光曰く、「探偵が集めた資料は真っ赤な偽物であると」。
福光は沖野との約束を破り、総会前に桑山に面会した。
その際、「桑山から資料は偽物であると告げられた」と沖野に語った。
沖野は福光の剣幕と言動で、すっかり相手のペースに嵌り、福光の言葉を鵜呑みにしてしまった。
沖野は、
「探偵は初めは沖野の依頼どおり調査していたが、桑山に感づかれ、探偵は桑山に懐柔(買収)された」
と思い込まされた。
更に沖野は福光に恥をかかされたと凄まれ、福光に大金を踏んだくられる。
沖野は探偵に騙され、福光にもふんだくられたと思い込んでしまった。
まさに沖野は踏んだり、蹴ったり。絶望の淵に落とされた沖野。
しかし沖野はこの時点で、福光が資料をネタに総会前に桑山と交渉。
福光が桑山から大金をせしめていた事実を知らなかった。
沖野には更に追い打ちをかける出来事が起きた。
東京から桑山に仕事を依頼されたヤクザが沖野を脅す為、多くの子分を引き連れ、宇都宮に乗り込んできた。
ヤクザが乗り込んできた理由は、沖野に
「桑山と奈美との関係・奈美の店への不正融資の件を世間に暴露する企みを断念させる事」
だった。
桑山は常に沖野の先回りをして、沖野を抑えつけた。
沖野はヤクザの脅しに屈し、企みを断念せざるをえなかった。
既に沖野は、会社人間として挫折。家庭も崩壊。
愛人を桑山に取られ、奈美との関係も諦めた沖野。沖野には、もう失うものは何もなかった。
失うものがなくなった人間は、反って強い。
守るものがなくなった故の、悲壮感ともいうべきであろうか。
或る日沖野の許に、元探偵で現在中古車セールをしている男(伊牟田)から手紙が届いた。
手紙には、
「自分が探偵事務所を辞めた後、沖野が事務所を訪れ、何か自分の調査に誤解して帰ったようだ」
と探偵事務所の人間から聞いたと書かれてあった。
この時まで沖野は、まだ福光の言葉を信じていた。
沖野は元探偵の伊牟田に会い、真実を知った。
沖野は自分の誤解を、伊牟田に謝罪。藁にも縋る思いで、その場で伊牟田に協力を依頼した。
沖野は突作に、桑山が私用で高級外国車を乗り回しているのを思い出した。
沖野に或る妙案が浮かんだ。
沖野は桑山に報復する為、一か八かのアイディアに賭けた。
そのアイディアは、
桑山が乗り回している同じ型の外車を、桑山と奈美が逢引きしている場所の前に置き、二人が勘違いして乗り込んだ時、警官たちに逮捕させるという手筈だった。
もし二人が、違う車だと判断。車に乗り込まなければ、それでおしまい。
一方、二人が勘違いして車に乗り込んだならば、待機していた警官に現行犯逮捕させる。
車は予め、中古車セールをしている伊牟田が手配。
伊牟田は持ち主に、車は盗まれたものとして、事前に盗難届をださせるという寸法。
車を発見したと警察に通報。警官が、盗難車に乗り込んだ人間を調べるという目論見。
仮に桑山が無罪になれども、社会と(桑山と対抗する)副頭取一派に、桑山の奈美との関係・不正融資がばれるという仕組み。
計画は実行された。
桑山と奈美の二人は、情事の後の興奮も手伝ったのか、何の疑いもなしに車に乗り込み、待機していた警官に囲まれた。
その後、二人はどうなったのか物語は語られていない。
その後の沖野の行く末も語られていない。
只一人、落魄れた哀れなサラリーマンが、自分を蹴落とし、出世も愛人を奪った人間に対する、ささやかな復讐劇を成し遂げた処で物語は終わっている。
追記
此の内容は別に銀行に限らず、どの会社でもあり得る出来事。
今回は順調に出世コースを歩んでいた人間が、ふとした事で出世コースから転落。
自分を出世コースから外した人間に復讐する話。
所詮、人間関係は「ドロドロ」したもの。
どれだけ小さい組織にも、一旦中に入れば、大なり小なりの争いがある。
主人公の沖野は、決して仕事でへまをした訳ではない。
一人の女を廻り、嘗て大学の同期で、今は会社の上司である桑山との関係が拗れた。
沖野にすれば、無理やり桑山が二人の関係に割り込み、奈美をかっさらった心境。
沖野は決して仕事上の失敗でなかった為、出世街道を外された沖野の怒りは、尋常でなかった。
怒りもひとしおだったと思う。
桑山は元々、学生時代から相手を利用する時は何かと近づいてくるが、用がなくなれば、あっさり相手を捨てるという面があった。
沖野は学生時代から、何度も桑山に煮え湯を飲まされてきたが、元来小心な為、面と向かって桑山に怒りをぶつける事ができなかった。
沖野は桑山にいつも利用されていた。
だが今回は違った。沖野は初めて桑山に対し、激しい怒りを覚えた。
その為、探偵や総会屋を使い、桑山に復讐を遂げようと企んだ。
しかし結果は、見事に惨敗。桑山にいいようにあしらわれた。
これぞサラリーマンの悲哀と云える。理不尽な処遇と人事。
当に幾多のサラリーマンの残酷物語を見せつけられているような気持ちになった。
私を含め、皆様にも経験がおありかと思われる。
会社とは、所詮「不条理」。それは今も昔も変わらない。そんな心境にさせられた話。
作品で登場する前川奈美は、決して沖野を好きだった訳ではなく、ただ自分の事業欲で沖野を利用していたに過ぎない。
その証拠に、奈美は沖野より高い地位の桑山が登場した途端、あっさり沖野に見切りをつけ、桑山に乗り換えた。
これも世間では、よくある話。決して自分に魅力があったのではない。
相手は自分の社会的地位に惚れていただけであり、沖野の人間的魅力など度外視していた。
もし奈美の前に桑山以上の人間が現れたならば、奈美は沖野と同様、あっさり桑山を見捨て、違う相手に乗り換えたに違いない。
所詮、その程度の付き合い。
沖野の失敗は、その事を考えず、奈美に深入りした事。
深入りした為、自らの破滅を招いた。
作品最後で桑山常務は其の後、失脚したかどうかは不明。
例え失脚してもしなくても、行内での桑山の立場は、微妙なものとなったであろう。
同時に、沖野の立場も微妙だったと思われる。理由は、何方の派閥にも属していない為。
副頭取派には今回の騒動は所詮、元桑山派の沖野の仕返し・内紛としか見えない。
副頭取としては、棚からぼた餅だった。
それが日本社会であり、サラリーマン社会と言える。
(文中敬称略)