戦国の歴史の闇に消えた女性 『濃姫』
最近、戦国時代の女性を取り上げる事が多いが、その中で一風変わった戦国時代の女性、『濃姫』を取り上げてみたい。
濃姫と言うよりも、マムシの娘(斎藤道三の娘)と呼んだ方が、分かり易いかもしれない。
目次
経歴
・名前 お濃、濃姫、帰蝶、胡蝶
・生涯 1535年(生)~1582年?(没)
・配偶者 織田信長
・家柄 斎藤道三の女(娘)
・縁者 明智光秀とは、従兄とも言われている。
生涯
美濃国斎藤道三と母小見(おみ)の娘として生まれる。母の里方は、東美濃の名門出身で明智一族とゆかりがあると言われている。
明智一族と言えば、美濃国の名門土岐氏の系統。土岐氏を遡れば、清和源氏まで突き当たると言われている。よって明智一族は、清和源氏の流れを汲む名門といってよいだろう。
しかし戦国の世の常。土岐氏は元油売りであったマムシ事、「斎藤道三」に国を奪われ、明智家も没落してしまう。
明智家の居城であった明智城も奪われ、明智家は流浪の身となった。
明智家の子孫、「明智光秀」が若かりし頃、各国を放浪。経歴に謎が多いのは、この為。
明智光秀と濃姫は、従兄妹同士であったと言われているが確証はない。
当時美濃と尾張は敵対していた。尾張を治める国主は信長の父、「織田信秀」であった。
信秀は美濃との融和を図る為、使者(平手政秀)を美濃国道三の許に派遣。道三の娘と嫡男信長の婚儀を画策した。
1548(天文17)年、目出度く婚儀が纏まり、濃姫は当時14歳の信長の許に輿入れする。
濃姫当時13歳と伝えられている。
濃姫が信長に輿入れ後、美濃国と尾張国の関係は良好となった。
道三は婿殿の信長を、いたく気に入ったようだと伝えられている。信長と濃姫の関係は、此のまま続くかと思われた。
濃姫の実体とその後
濃姫の経歴を軽く述べた。
濃姫の夫信長は1560(永禄3)年、桶狭間にて尾張に侵攻した駿河太守「今川義元」を奇襲にて破る。
此の頃には信秀は死去。織田家の家督は、嫡男信長が継いでいた。
今川義元を桶狭間で破った信長は、7年後に美濃攻めを敢行。美濃を手中に収める。
信長が美濃を手に入れた時点で、濃姫の記録はいつの間にか消えている。
これは信長の経歴を眺めた際、不思議な出来事の一つと思われる。濃姫は確かに信長の正妻だった。
しかし正妻だったにも関わらず、出産した記録もなければ、秀吉のねねの様に、「北政所」と呼ばれる尊称も見当たらない。
これは不思議と思われる。
しかし記録に残る限り、濃姫の足跡を辿ってみたい。
信長との婚儀まで
濃姫が信長との婚儀となるまでの経緯を見てみたい。
一般に「濃姫」と呼ばれている。此れはおそらく美濃の国の姫という意味から、濃姫と呼ばれていたと思われる。
他に「帰蝶」、「胡蝶」とも呼ばれていたらしいが、今回は濃姫で統一したい。その方がしっくりくると思う。
当時美濃の斉藤道三、尾張の織田信秀は激しく対立していた。
道三は1541(天文10)年、美濃国守護「土岐頼芸」を、美濃から追放した。
信秀は土岐頼芸を支援との名目で、兵を派遣。美濃を攻めた。
道三・信秀は互いに譲らず、和睦する。
和睦の条件として道三は、娘を信秀の嫡男「信長」に嫁がせる事だった。
所謂「政略結婚」である。
尚、道三の許に織田家の使者として婚儀をまとめ人物は、信長の傅役だった「平手政秀」。
1548(天文17)年、濃姫は信長の許に輿入れした。信長14歳、濃姫13歳だった。
婚儀後の信長
信長と濃姫の婚儀の3年後(1551年)、父信秀が流行の病で急死する。信秀、享年41歳と言われている。
信秀の死により、織田の家督を信長が継ぐ。
家督を継いだ信長であったが、当時「うつけ」と言われていた信長の家臣間の求心力は低く、家臣間で離反する者、信長を廃嫡して、弟信行を押す者が少なからず存在した。
後に信長の宿老となる「柴田勝家」、「林通勝」等も、当時は弟信行を推していた。
そんな状況を諭す為かどうかは分からないが、信長と濃姫の婚儀を纏めた平手政秀が自宅にて切腹する。
しかし平手の死は、真偽のほどは定かでない。
信長、道三と面会する
1553(天文22)年、信長の舅「斎藤道三」は、うつけと言われていた信長に興味が湧く。
道三から信長に対し、面会を求めてきた。
二人の面会場所は、尾張国中島郡冨田の「正徳寺」と決まった。
俗に言う、「正徳寺の会談」。濃姫が信長に輿入れしてから、既に5年の月日が流れていた。
※一部では「聖徳寺」と明記されているのもあるが、どちらが正しいのかは不明。
道三はうつけと言われた信長を、会見前に一目みて信長の評価を見定めたいと思った。
道三は信長の一行が通る道筋の商家に潜み、信長軍を観察した。
信長は道三が潜む商家の前を通った際、噂に違わぬ、うつけの風貌をしていた。
道三が落胆したのは言うまでもない。道三は失望し、信長と面会する気が失せてしまった。
しぶしぶ面会場所の正徳寺に来た道三だった。
しかしその時、道三の目の前に現れた信長は、先程のような異形のいで立ちでなく、正式な正装をして道三との面会に臨んだ。
驚いたのは道三だった。
道三は信長と話を交わす中、信長は世間に云われているうつけとは違い、末頼もしい人物だと気づいた。
すっかり機嫌を直した道三は、いたく信長を気に入った。
そして自分の子孫は、将来信長の家臣となるのを予測したと言われている。
面会して信長を気にいった道三は、上機嫌で美濃に帰ったと伝えられている。
その道三を信長と濃姫が、国境の田代城まで仲良く見送ったとされる記録が僅かながら残されている。
しかし正徳寺での道三との面会は、信長がただ一人赴いたとされている記録もみられる。
実は濃姫に関する記録は、この時迄。
これ以降、濃姫に関する記録は見当たらない。記録(歴史)から、ぷっつり消えている。
信長が美濃を手に入れた時、用済みとなり処罰された。
或いは、信長と濃姫は信長が本能寺にて明智光秀に討たれる直前まで一緒にいて、一生を供に添い遂げたともいわれている。
所説色々あるが、いずれも確証はない。ただ後世の人間が、こうであったであろうという想像に過ぎない。
それほど濃姫の記述は少なく、謎めいている。
繰り返すが、この時を境に、濃姫の記述は全く現れない。まさに「歴史の闇」と言える。
道三の死後と信長
道三は信長との面会後、嫡男義龍と関係が悪化。互いに対立する。
一説には、道三が異母弟の孫四郎・喜平次を可愛がり、後継者を義龍ではなく、異母弟孫四郎・喜平次のどちらかにしようとした為と言われている。
或る日義龍は、孫四郎・喜平次を殺害。道三との対立は決定的となる。
道三は義龍と対立の折、美濃を婿信長に渡すという「国譲り状」を信長に手渡した。
信長は舅道三を救援すべく、出兵(1556年)。
兵を進めるが、道三は「長良川の戦い」で義龍軍に攻められ戦死する。
道三の戦死の報を受け、信長は出兵の意味がなくなり、尾張に退却する。
信長が道三から国譲り状を受け取り、本当に美濃を手に入れるのは、1567(永禄10)年の事。
以上が濃姫と信長の関係であるが、いずれにしても濃姫に関し謎が多いのは確か。
はっきりした記録が残されていない。残っていないのか、或いは敢えて残さなかったのかは分からない。
後に記録から抹殺されたのかもしれない。
肖像画すらない。現存する画像、銅像はいずれも想像上のもの。
信長の子孫をみても、濃姫の子供が見当たらない。男子に限らず、女子にも存在しない。
※信長は、22人の子をつくったと云われている。
その事実が益々、濃姫を謎めいた存在にしているのかもしれないと、今回ブログを書くにあたり想像した。
(文中敬称略)
・参考文献
【週刊新説歴史の道① 織田信長 天下取りの道】
(小学館・小学館ウイークリーブック 2010年3月発行)