関ヶ原の戦、勝敗を分けた要因3(各大名の思惑が入り乱れ、決戦へ)
目次
大垣城の軍議にて
大垣城では決戦を前に、軍議が開かれた。
石田三成、宇喜多秀家、島津義弘、小西行長、大谷吉継、毛利秀元、安国寺恵瓊などが参加。
軍議にて島津義弘は、家康が赤坂に着陣した14日、家康本陣に夜襲を提案した。
しかし三成はあっさり島津の案を拒否してしまった。
島津との関係が微妙になったのは、これが初めてでない。
8月23日、島津隊が東軍に備え墨俣に陣取っていた。
評議の為、三成、島津義弘、小西行長は沢渡村にいたが、岐阜城の落城を聞き、三成は大垣城に退却しようとした。
義弘は自軍がまだ墨俣にいる為、退却できないと主張した。
しかし三成は島津隊を無視、大垣城に退却した。
仕方なく義弘は自軍に使いをやり、たまたま東軍の攻撃がなかった為、無事に撤退できた。
もし攻撃されていれば全滅に近かった。
こういう処が、三成の評判を落とす原因と思われる。
人の気持ちを考えず、平気で横柄な口を利く処が。大谷吉継が三成に注意したのも此の点。
しかし三成本人は全く自覚がない。
武断派に殺されそうになり、佐和山城に蟄居の身になりながら、依然と全く同じ調子だった。
実社会でも心当たりがあると思う。
本人は相手を傷つける気はないが、知らず知らずのうちに相手を傷付け、疎まれているのに気付かない人間が。
本人は無自覚だが、自分の言動で相手のプライドを平気で傷つける人間。
三成はまさに、このタイプだった。
夜襲と言えば、過去に2回、家康に仕掛ける機会があった。
初めは上杉討伐で家康が東進して水口を通過した際(水口城主は五奉行の長束正家で反家康)、島左近は夜襲を仕掛けようと提案した。
しかしもたもたしている隙に、家康を取り逃がしてしまった。
確かに長束正家の動きも微妙だった(曖昧な態度)。
次は8月23日、岐阜城落城の夜。
宇喜多秀家が、東軍は朝からの戦闘で疲れている為、夜襲を掛けようと提案しているが、これも却下。
吉継が三成に注意したもう一つの欠点。優柔不断。これも見事に的中している。
やはり百戦錬磨の家康と事務方の三成では所詮、器が違うと言う事であろうか。
島津はこれで完全に気分を損ね、以後三成に心服しなくなる。
島津軍が気分を害したのは、関ヶ原の合戦中でも大きな影響となり跳ね返ってくる。
島津はこの時点で、完全に心理的に西軍から離れていた。
もともと成り行きで西軍に参加しただけで、三成の言動で東軍・西軍に限らず、完全に蚊帳の外になってしまった。
更にもう一人、気分を害した人物がいる。「小西行長」。
行長は大垣城にて籠城すれば良いと主張していたが、小西案も三成が否定している。
行長も軍議の不満で、関ヶ原ではあまり戦闘意欲は旺盛でなかった。
会社で自分の案が否定され、しぶしぶ他人の案に従った心境と同じであろうか。
行長は三成と同じ、算盤勘定が上手い人間。
損得勘定で割りが合わないと思えば、あまり積極的に動かないだろう。
おまけに三成は、他の諸将を疑心暗鬼にさせてしまう失態をやらかす。
前述した如く家康は、西軍を野戦に引き込む為、「大垣城を素通り、佐和山城か大坂城を攻める」という流言飛語をまき散らした。
三成は噂を聞き佐和山城の様子が気になり、一度大垣城を離れ、自らの居城である佐和山に赴き防衛を指示している。
西軍の実質的リーダーでありながら、自分の城が気になり、主戦場から離脱する。
この行為は西軍側の他将にとり、心理的影響が大きい。
総大将たるもの、西軍全体を最優先すべきであるが、己の私用に時間・労力を費やしたのである。
こんな事をすれば、西軍の士気が衰えるのは必然。
他大名も同じ立場であるのに、総大将自らが御身が大事との行動をとれば、下の者は決してついていかない。
己が会社組織の人間として公私混同し、個人を優先すればどうなるであろうか。
火を見るより、明らか。
仮令社長であっても同じ事。社長の言動に齟齬があれば、自ずと部下は付いてこない。
三成はやってしまった。
この様な状況で西軍は、関ヶ原の決戦に臨むかたちとなる。
小早川秀秋の動き
小早川秀秋と言えば東軍に誼と通じ、裏切る約束をしていたが、正直この殿様、関ヶ原の最中もギリギリまでどちらにつくか決めあぐねていた。
今回の曖昧な態度を西軍の各大名達に疑われ、呼び出され詰問される処だった。
しかし秀秋は病と称し、のらりくらりかわしていた。
離反の疑いを掛けられ、大垣城にて詰問されると分かると大垣城に入城せず、そのまま大垣城近くに駐屯した。
京都にいる際も病と称しながら、鷹狩りなどをして時間を過ごしていた。
若干18歳で仕方がないかもしれないが、やはりこの男もバカ殿と言えるかであろう。
凡庸であるが、関ヶ原では重要な役を果たす。
関ヶ原では西軍が関ヶ原に進軍するに従い、松尾山に陣を布く。
とろい男が後に決戦のキャスティングボートを握るのも何か歴史の皮肉であろうか。
大垣城の軍議後
大垣での軍議後、西軍は東軍が大垣を素通りすると判断。
東軍を迎え撃つ所存で大垣城を出撃した。
隠密をきす為、午後7時以降の雨の降りしきる中の行軍だった。
<西軍の布陣>
・石田三成は関ヶ原を見渡せる旧北國街道に近い、「笹尾山」に布陣。
西軍からみて一番の位置。島左近、蒲生郷舎が控える。約5820人。
・隣の小池村付近に、島津豊久、島津義弘隊。約1650人。
・隣の北天満山麓に小西行長隊、約6000人。
・敵最前線となる天満山の麓に西軍主力の宇喜多秀家隊。約17000人。
・隣の山中村あたりに三成の親友、大谷吉継隊。最前線でないのが気がかり。
大谷吉継は決戦前夜、小早川隊を訪れ、秀秋の動向を疑っていた。
その為、自軍に帰還後、秀秋の裏切りを想定し、陣を動かしていた。
約2910人。(木下頼綱、平塚為広、戸田重政を含む)。現国道21号あたり。
・隣に赤座直保隊、約600人。小川裕忠隊、約2100人。朽木元網隊、約600人。脇坂安治隊、約990人。
・近江の入り口(佐和山に至る)となる松尾山には、小早川秀秋隊。
東軍の西進を防ぐ為の布陣。約15675人。
・最初から家康に内通している吉川広家隊を含む毛利秀元隊、約16000人。
安国寺恵瓊隊は牧田川近くの南宮山に布陣、約1800人。
・長曾我部盛親隊は同じ南宮山に布陣。約6660人。
・長束正家も同じく何群山に布陣。約1500人。
毛利隊、長曾我部隊、長束隊の位置をみれば、それとなく戦いを傍観。
不参加を決め込むには都合の良い位置とも言える。
本来、毛利隊総大将が松尾山に布陣する予定だった。
西軍で最も信頼できない大名が松尾山に布陣する形となる。
此れが後々、戦の勝敗を決める大きな要因となるとはこの時、三成は思いもしなかったであろう。
西軍、東軍を一網打尽を目指し、「鶴翼の陣」で迎え撃つ。
笹尾山、石田三成本陣にて(写真:個人撮影)
赤坂の陣、東軍
赤坂の陣に家康が到着したその夜、家康は物見の者から西軍が東軍を迎え撃つ為、大垣城を出発したとの報を受ける。
家康としては、してやったりと、ほくそ笑むだと思われる。
自らの計略に西軍がまんまとひっかかった為。
城攻めの上手い秀吉と違い、家康は野戦を得意とする武将。
敵をおびき寄せる戦法に成功した。
今回の作戦は思い起こせば何か、「三方ヶ原の戦」に似ている。
1572(元亀3)年、武田信玄は約2万5千人の大軍を率い、上洛の途にいた。
信玄は当時家康の本拠地「浜松城」を攻めず、素通りする姿勢を見せた。
信玄自身、浜松城攻略で時間・兵力を費やすより、上洛の途を優先した思われる。
当時の家康は今と違い、まだ血気盛んな頃。
信長とは同盟関係ではあったが、実質対等とは言えず、臣下的扱いだった。
信長と信玄との対決の時間稼ぎの意味もあったであろうか。
家康は武田軍攻撃の為、浜松城から撃って出た。
1572(元亀3)年12月22日、「家康」対「信玄」の最初で最後の直接対決が行われる。
家康がとった陣は「鶴翼の陣」、一方信玄は「魚鱗の陣」。
家康は兵数が武田軍より少ないのに係わらず、包囲殲滅型の鶴翼を採用。
おびき寄せらえた形で武田軍に散々に打ち破られた。
ひょっとして家康はこの時、嘗て散々やられた「三方ヶ原」を思い出していたのかもしれない。
当時の自分と三成を見比べながら。
真偽の程は定かでないが、家康は惨敗後、命からがら戦場を馬で逃げ出し、浜松城に帰還した。
馬からから降りた際、鞍に粗相の後があったのを家臣が見つけ、家臣は大笑いしたらしい。
もし本当であれば、家康もやはり人の子と言える。
この時家康が三方ヶ原の敗戦を決して忘れまいと書かせた「しかみ像」は、あまりにも有名。
東軍の出陣
東軍を迎え撃つべく、西軍が関ヶ原に出陣したと聞いた家康は、赤坂の陣を引き払い、関ヶ原へと軍を進めた。
<東軍の布陣>
・家康本隊は関ヶ原の入り口にあたる中山道沿い、「桃配山」に布陣した。
桃配山は古代の「672年壬申の乱」にて、勝利者の「大海人皇子」が陣を布いた場所。
縁起を担ぐ意味もあったと思われる。約30000人。
・家康側から見て最右翼、ほぼ石田隊に対峙するのが、黒田長政。約5400人。
・隣は細川忠興隊、約5100人。古田重勝隊、約1020人。
織田有楽斎隊、約450人。金森長近隊、約1140人。生駒一正隊、約1830人。
・隣の加藤嘉明隊、約3000人。松平忠吉隊、約3000人。井伊直政隊、約3000人。
・最前線で宇喜多隊に対峙する、福島正則隊。約6000人。京極高知隊、約3000人。田中吉政隊、約3000人。藤堂高虎隊、約2490人。筒井定次隊、約2850人。
・そのやや後方、寺沢広高隊、約2400人。本多忠勝隊、約500人。
・南宮山東方の抑えとして池田輝政隊、約4560人。山内一豊隊、約2050人。浅野幸長隊、約6510人。
凡そ、この様な陣営であろうか。(資料により兵数に若干の違いあり)
14日の夜半から降っていた雨は、15日未明に止む。
東軍は午前3時頃、行軍。西軍が既に陣を布くの確認し、午前7時頃全軍布陣した。
関ヶ原東西陣営(写真:個人撮影)
昨夜からの雨で、関ヶ原一帯は深い霧に覆われていた。各軍、決戦を今か今かと待ちわびていた。
東軍は何故か西軍の包囲に嵌るように陣を布いた。
明治時代、ドイツの軍人メッケルが関ヶ原の布陣を見た際、即座に西軍の勝ちと判断したと言われている。
敵の術中に嵌ったかに見える東軍。家康の狙いは如何に。戦いが進むにつれ、真相が明らかになる。
決戦の火蓋
決戦の火蓋は当然先遣隊である福島正則であると東軍を始め、正則も自負していた。
漸く霧が晴れ視界が見え始めた午前8時頃、「井伊直政」と家康の四男「松平忠吉」の従者約60人が物見と称し、福島隊を通過しようとした。
通行の際、福島隊の先陣部隊長「可児才蔵」が行く手を阻もうとしたが、井伊直政が「只の物見である通行を許可せよ」と告げる。
才蔵もむべに断る事もできず、やむなく通行を許可する。直政・忠吉は無事通過。
宇喜多隊の最前線に踊り出た。
従者たちに銃を放つ準備をさせ、宇喜多隊めがけ、打ち込んだ。
この銃声が関ヶ原の合戦の火蓋となった。
井伊直政と松平忠吉がどうして福島正則隊を差し置き、戦塵の火蓋をきったのか。
おそらく戦後、後々まで正則に
「あの関ヶ原で戦塵の火蓋をきったのはわしじゃ」
と自慢されるのを嫌がったのではないかと思う。
後世の歴史家に、あくまで関ヶ原の戦塵の火蓋をきったのは「徳川家・松平家」であると喧伝したかったのであろう。
つまらないと思われるかもしれないが、古今東西、為政者たるもの面子にこだわる。
度々述べているが、強者が都合よく歴史を創る一つの譬えかもしれない。
何はともあれ、鉄砲の砲撃を受けた宇喜多隊は応戦。戦いの幕が切って落とされた。
福島正則は抜け駆けされ、怒りを露わにし猪突猛進したのは、言うまでもない。
たちまち福島隊、宇喜多隊の争いが始まった。
関ヶ原の戦いは、始まってしまえば戦闘自体、あまり書く事が少ない。
どちらかと云えば、前後に比重があると言える。
いわば「孫氏の兵法」の如く、「戦わずして勝つ」のが一番の上策と云われている様に。
今回も戦闘はあったが、実際半日で終了している。
いろいろ述べてきたが、戦う前に既に西軍はボロボロだった。
私が述べている内容もほぼ、戦前の話。関ヶ原は戦前に既に勝負あったと言えよう。
<東西戦力比較>
東軍 | 兵力 | 西軍 | 兵力 |
徳川家康 | 30000 | 石田三成 | 5820 |
福島正則 | 6000 | 豊臣家家臣の兵 | 1000 |
黒田長政 | 5400 | 島津義弘 | 800 |
細川忠興 | 5100 | 島津豊久 | 858 |
井伊直政 | 3600 | 小西行長 | 6000 |
本多忠勝 | 500 | 宇喜多秀家 | 17220 |
松平忠吉 | 3000 | 大谷吉継 | 1500 |
京極高知 | 3000 | 木下頼継 | 750 |
加藤嘉明 | 3000 | 平塚為広 | 350 |
田中吉政 | 3000 | 戸田重政 | 300 |
筒井定次 | 2850 | 脇坂安治 | 990 |
藤堂高虎 | 2490 | 小川裕忠 | 2100 |
寺沢広高 | 2400 | 朽木元綱 | 600 |
生駒一正 | 1830 | 赤座直保 | 660 |
金森長近 | 1140 | 小早川秀秋 | 15675 |
古田重勝 | 1020 | 毛利秀元 | 16000 |
織田有楽 | 450 | 長曾我部盛親 | 6660 |
その他 | 600 | 長束正家 | 1500 |
安国寺恵瓊 | 1800 | ||
その他 | 1860 | ||
計 | 74000 | 計 | 82393 |
いざ東西を分けた決戦
井伊直政・松平忠吉隊の放った銃弾で決戦の火蓋が切られた。
最前線の東軍福島隊、西軍宇喜多隊の戦闘が始まる。霧が晴れたほぼ午前8時頃。
即座に全軍入り乱れての戦いが始まる。
開始直後は宇喜多隊の活躍すさまじく、さしもの猛勇でしられた福島隊相手に、優勢に戦いを進める。
石田隊は黒田隊、細川隊の攻撃を受ける。
石田隊の士気も盛んで黒田隊、細川隊の両軍相手にたじろぐどころか、むしろ優位に戦いを進める。
序盤は圧倒に西軍が優勢だった。
豊臣家を思う石田隊と宇喜多隊の活躍目覚ましく、流石の家康も心中穏やかでなかったらしい。
家康は午前中、イライラしっぱなしで、側近の者は誰も声を懸けれる状態でなかったそうな。
家康がイライラしている時の癖で、爪を噛むらしい。
最初の本陣地。此処に座りイライラしていたのであろうか(写真:個人撮影)
三成は此処が勝負処と睨み、島津隊に出陣を要請した。
処が島津隊はなかなか動こうとしない。三成自身が馬を飛ばし、島津隊の陣まで来て、出陣の要請をした。
島津義弘、豊久は三成に告げた。
「今回の戦は、島津の一存で戦い。決して貴殿(三成)の指示で戦うのではない。他言は無用」と。
三成はこの時まで、島津が腹を立てていた事に全く気付いてなかった。
島津は度重なる三成の横柄な言動に嫌気がさしていた。
最初の躓きであろうか。結局島津隊は、他の西軍が壊滅するまで何も動かなかった。
三成はすかさず、南宮山の毛利・吉川隊・長曾我部隊、松尾山の小早川隊に出陣を要請すべく狼煙を上げた。
何度も狼煙を上げているが、毛利隊・長曾我部隊・小早川隊は一向に動かない。
あと一歩という処まできて、狂いが生じた。彼らは一体、何をしていたのか。
毛利秀元は狼煙を確認。家康の本陣の背後を突くべく、南宮山を下ろうとした。
しかし毛利隊の参謀役を務める吉川隊に行く手を阻まれ、山を下れない。
吉川広家は、もともと最初から家康に内通。西軍を裏切っていた。
本心を隠し、西軍に参加していた。その為、毛利隊の進軍を阻む形で前線にいた。
家康から内密に毛利家・吉川家の本領安堵を確約され、消極的に戦い不参加の形で東軍に勝たせる様に仕向けていた。
名目の西軍総大将「毛利輝元」が大坂城から出馬せず、戦闘意欲盛んな「毛利秀包」が、14日まで大津城攻めに参加。
名代として関ヶ原に参加したのは輝元の養子「毛利秀元」、弱冠20歳。
広家が実質、毛利隊を動かしていたと言える。
毛利隊の後ろにいる長曾我部隊・安国寺隊からしきりに、毛利隊に進軍を促す伝令の使者が届く。
返答に困り果てた秀元の苦し紛れの言い訳が、
「今弁当を食べている最中。しばし待て」だった。
後世の人間はこの事を「宰相殿の空弁当」と揶揄した。
結局、吉川・毛利・長曾我隊の約22660人は、全く戦闘に参加しなかった。
同じく合原近くの長束・安国寺隊隊の約3300人も、不参加。計約25960人が戦闘不参加。
以前関ヶ原の現地に行き、南宮大社あたりに車を停め、辺りを見したが、やはり主戦場からかなり離れている気がした。
その事を考えれば、南宮山周辺に布陣した各隊は、あまり戦闘に積極的でなかったと思われる。
長曾我部隊に至っては、ヤル気あるのかと思われる程、離れていた。
もし西軍が勝つ状況であれば尻馬に乗る、負ければ伊勢街道から逃げる心算だったと思う。
小早川隊も戦の前半は、全くの傍観者の日和見を決め込む。家康も秀秋の参戦を促す使者を送っていた。
更に小早川隊に軍監として「奥平貞治」まで送りこんでいた。しかし秀秋は動かない。
秀秋、僅か18歳。いくら西軍離反を約束していても、前半西軍有利な戦況を見つめ、内心どちらにつくか最後まで迷っていたのであろう。
西軍の他の武将も、日和見していた者も多い。
秀秋はただでさえ、あまり出来の良くない殿様だった。迷うのも当然かもしれない。
一方東軍の総大将家康は、秀秋がなかなか裏切らない事、自軍の戦いぶりの不甲斐なさに痺れをきらし、本陣を前に進めた。
本陣を前に進めた処で、第二団部隊が前線に押し出される格好になり、戦いに参戦。
石田隊は黒田、細川、田中隊を相手に一歩も引かず応戦していた。
前半、西軍有利だった。東軍が危うかったのは言うまでもない。
この時点で、小早川隊・毛利隊が本気で参加していれば、東軍は全滅していたかもしれない。
無言の東軍への加勢と云われても仕方がない。
誰しも経験あるかもしれない。
会社などの会議で、決して賛成ではないが、敵・悪者になりたくない為、反対の意を唱えない事が。
あれと同じだろうか。
戦局の変化
石田隊は奮闘した。石田隊の中に以前紹介した「島左近」がいた。
「田中吉政」が「死兵」を見たと言わしめる程、戦闘中で死に物狂いに暴れまくる左近だった。
左近の勇猛ぶりを見た長政は、左近だけを狙う鉄砲隊を組織。鉄砲隊が左近めがけて撃ち込んだ。
流石の左近も銃撃され、重傷を負ったらしい。
らしいと書いたのは、この時を境に「島左近」が歴史の表舞台から消えた為。後の記録がない。
生きているのか、死んでいるのかさえ分からない。首実検にもなかった。
部下に助け出され戦場離脱したか、死体となり首を刎ねられ、何処かに持ち去られ埋められたのではないかと思われる。
左近が長政の鉄砲隊に撃たれ負傷したシーンは、関ヶ原合戦屏風に描かれている。(関ヶ原町歴史民俗資料館)
島左近の戦場離脱を境に戦況は徐々に変わり始めた。
ついに戦いを決定つける出来事が起こった。
小早川秀秋離反
家康は自軍の戦いぶりの不甲斐なさと秀秋が裏切らないのに業を煮やした。
家康は、賭けに出た。煮え切らない秀秋に対し、松尾山めがけ鉄砲を撃ちかけた。
催促の合図、もし西軍離反しなければ、攻撃するぞと脅しの意味を込めて。
鉄砲を撃ちかけられた秀秋は怯んだ。
普通の人間であれば両天秤にかけていても、鉄砲を撃ちかけられれば、撃ちかけた相手に対し憤りを感じるであろう。
しかしバカ殿、秀秋は違った。家康に怒られたと認識した。
まだ離反していない東軍の総大将に怒られたと感じる男も珍しい。
何故わかるかと云えば此の男、合戦後、家康の許に東軍の武将が戦勝祝いに来るが秀秋はなかなか現れず、家康側から遣いをやり、漸く現れるといった有様。
さらに怒られるとでも思ったのであろうか。何かおどおどして、頭をペコリと下げたらしい。
今日の戦で自分のがどれほどの役割を果たしたのか、まるで理解していない大将だった。
歴史が一瞬、取るに足らない人間の手に委ねられたとでも言えば良いのだろうか。
後世の歴史がこの様な男に創られた事は、何か歴史の皮肉とも言えようか。
家康に怒られたと思った秀秋は松尾山を駆け下り、大谷隊の側面をつき、攻撃した。
吉継は大方、秀秋の裏切りを予測していた。
昨夜、秀秋隊本陣をおとずれた後、裏切りに備え西軍の盾になる為、陣容を変えていた。
大谷隊は必死に小早川隊に応戦、互角の戦いを展開した。
大谷隊、約2910人(木下頼継、戸田重政、平塚為広隊を含む)。
小早川隊、約15675人。
ところが、吉継が全く予期せぬ出来事が起こった。
小早川隊の裏切りを見て、小早川隊に備え配備していた脇坂安司、小川裕忠、朽木元綱、赤座直保隊の4隊、計約4290人が小早川隊と同じく、大谷隊を攻撃し始めた。
4将も日和見を決めていたが、秀秋の離反に同調する。
大谷隊の壊滅
流石に予期せぬ離反と多勢に無勢、大谷隊は善戦むなしく壊滅してしまう。
吉継は近習達の籠に乗り戦場離脱。近習「湯浅五助」に介錯を命じ、自刃した。
自分の醜い顔の首を、決して相手方に渡すなと厳命して。
首を刎ねた後、五助は戦場を離れ、吉継の首を何処かに埋めたらしい。
島左近と同じであろうか。大谷軍の壊滅を機に西軍は一気に崩れていく。
西軍は大谷隊の壊滅が痛かった。
大谷隊の壊滅により、戦闘中の隊が石田隊、小西隊、宇喜多隊になり、宇喜多隊は大谷隊が壊滅で側面から小早川隊の攻撃を受け、全面と側面からの攻撃を受け、まもなく壊滅した。
宇喜多隊が壊滅した為、小西隊も壊滅、遁走。
石田隊は最後まで踏ん張ていたが、全東軍の集中攻撃を浴び、とうとう壊滅してしまった。
宇喜多秀家・小西行長・石田三成戦場離脱。
かくして関ヶ原の戦いは午前8時に始まり、午後3時頃をもって終了した。(約7時間足らず)
島津隊撤退、中央突破
最後に戦場に残された島津隊。
戦わずは薩摩男の恥と思い、家康の本陣めがけて中央突破の脱出を計った。
中央突破を計り、伊勢街道を通り、薩摩に帰ろうとした。
東軍の全軍が島津軍に襲い掛かる。島津隊は「捨てまがり」という戦法で、群がる東軍を蹴散らして退却する。
関ヶ原出口の烏頭坂(うとうざか)あたりで島津豊久が殿軍を務め戦死。
更に東軍は追い打ちをかけようとしたが、島津隊の鉄砲攻撃で「井伊直政、松平忠吉」が負傷。
島津義弘は約80人になりながらも戦場離脱、伊勢道から堺に抜け、船で薩摩に帰還する。
両将が戦いの火蓋をきり、負傷して戦いを終えるとは、なんと皮肉な事であろうか。
井伊直政はこの時の傷が原因で、2年後に死亡。
島津の退却をもって、関ヶ原の戦は終了する。
家康最後の本陣(写真:個人撮影)
あとは戦勝祝い、首実検が行われ、長い一日が終わる。
前述したが、小早川秀秋は家康に謁見、明日からの佐和山城攻撃の先方を買って出る。
石田三成が伊吹山を彷徨っている間の9月17日、小早川秀秋を先方とする西軍の攻撃で佐和山城は炎上。石田家は断絶。
前回:関ヶ原の戦、勝敗を分けた要因2(決戦前の各大名の動きと人間関係)
・天下分けの戦いと云われた合戦も、蓋を開ければ僅か半日で決着が付きました。今まで述べてきた事が主な原因と思われます。
・其れでは最後に、合戦後の各大名の動きと、天下の情勢を述べ、最終章にしたいと思います。