大型連休中、古都「京都」にて:2日目、更に東山区界隈を散策

京都市内観光、清水寺

霊山護国神社の後は、「二年坂」、「三年坂」を通り、徒歩約20分程で清水寺に着きます。説明するまでもないと思いますが、桜の名所、「清水の舞台から飛び降りる」の言葉でも有名なお寺です。

近年では、日本の一年を振り返る漢字を書く行事でも有名ですね。

 
清水寺
・本堂・舞台  大人 400円 小中学生 200円 
・拝観時間   6:00 ~ 18:00

 

嘗て旅行会社勤務時代、何度も訪れた処ですが、不思議とじっくり見学した事もも無ければ、自分で写真を撮った事もありません。仕事で行くのと、お客様のお世話をしている為、落ち着いて見学した事など一度もありませんでした。

元来旅行会社の人間は、そういうものなのかもしれません。お客さんの写真を撮る事はあるが、自分で写真を撮る事は滅多にありません。

振り返ってみれば、いろいろ添乗しましたが、個人で撮影した写真が殆どないのに気付きます。

そう考えれば今回の旅、昔なくした落とし物を探しに行く旅だったのかもしれません。ふとその様な考えが、頭に浮かびました。

 

話を戻しますが、調べてみると古くは、初代征夷大将軍「坂上田村麻呂」に縁があるお寺の様だそうです。正式には「音羽山 清水寺」、神仏霊場第117番
京都第37番。

細かく説明しても、おそらく頭に入らないと思います。兎に角、絶景を楽しみましょう。今までの観光地も既に満員でしたが、清水寺はとくに凄い状態でした。写真を撮るのもひと苦労といった処でしょうか。(人が途切れる事なし)

 

清水寺があまりもの人込みで、朝からの疲れが一挙に出ました。流石にこの時点で、かなりの体力を消耗。しばらく道沿いにしゃがみ込み、休憩。気力・体力の回復を目指しました。(約40分ぐらい取った気がします)

清水寺を見終えた時、長い一日が終わりました。既に午後5時を回っていましたので帰る事にしました。来た道の逆順で。

車に戻る際、三年坂、二年坂の順で帰りましたが、坂の両脇にある多くのお土産屋さんが、ほぼ午後5時を境に店仕舞いの準備をする事に気付きました。成程、京都ではそれが粋と云われるのかと妙に納得しました。

 

急に思い立った旅で、宿泊の準備もせず来た為、宿泊は当然車中。

流石に駐車場で寝る訳にもいかず、一度京都市内を離れ、再び京都東IC目指し出発。2時間近くかかり、ようやくICから高速道路へ。

そのまま大津SAに直行。ご想像の通り、大津SA内にて車中泊。昼間の歩き疲れもあり、普段なかなか車で寝付けませんでしたが、今回に限りすぐ眠りにつけました。<車中泊>

 


豊国神社・方広寺・三十三間堂

翌朝、起床は6時過ぎでしたでしょうか。日の出も早くなり、明るさで目が覚めました。身支度を整え再び、京都市内へ。

爆睡したせいもあり、気力・体力が戻り、次の観光地目指し、出発。昨日と同じ、京都市営駐車場に向かう。車を停め、昨日の観光地を横目に、本日の目的地へ。本日の目的地は、五条通を挟んだ向こう側の地域。

 

車で来た五条通を渡り、東大路通りを歩き、秀吉ゆかりの「豊国神社」に向かいました。「豊国大明神」を祀る神社です。大坂夏の陣の豊臣家滅亡後、途絶えていましたが、明治時代になり再興された神社です。

 

  豊国神社(写真:個人撮影)

 

以前も申しましたが、「歴史は強者、生き残った者が創る」という事実が改めて証明されています。徳川家の御代、豊臣家を祀る神社は殆ど存在しませんでした。

何故なら徳川時代、豊臣家が悪政を布き、世の中が乱れてしまった。その為、やむにやまれず徳川家が豊臣家を討ったと、真しやかに喧伝されていた為。

 

それはさておき、派手で絢爛豪華な建物が好きだった秀吉にちなみ、何か派手に見えますが、派手さの中にも厳かさが漂ってきます。

豊国神社のほぼ隣にひっそり立つ寺があります。「方広寺」です。「方広寺鐘銘事件」で有名な。この鐘銘が豊臣家滅亡を導かせた原因です。

 

「国家安康、君臣豊楽」。歴史的には家康のいいがかりに過ぎませんが、今回詳細は割愛します。驚いた事に、釣鐘は事件当時のままだそうです。江戸時代、殆ど野ざらしで放置されていたが、姿は当時のままらしい。

 
方広寺
・拝観料  大人 300円  小人 200円
・拝観時間 9:00~16:00

 

案内の方が鐘の真下で、鐘中の淀君の姿に似た模様の説明をして下さり、写真撮影も可能です。

余談ですが、奈良・鎌倉に大仏があるのは有名ですが、嘗て京都にも大仏があったのを、ご存じでしょうか。秀吉が天下人になった後、木造ではありましたが、一時期、方広寺にありました。

 

おそらく皆様は、秀吉の「刀狩令」をご存じかと思います。目的は百姓一揆、反乱を防ぐ為だと言われてますが、刀狩令の文中に、刀狩の口実として大仏建立の為、釘かすがいに使うと明記されています。実際に使ったのかは、分かりませんが。

 

  (写真:個人撮影)

 

方広寺大仏は完成後、地震であえなく倒壊したと記録にあります。歴史の一つの出来事として記憶してもよいかもしれません。

 


次に向かった先は徒歩で約10分、「三十三間堂」です。本堂内陣の柱間が33ある為、三十三間堂と云われるようになったらしい。

「後白河法皇」ゆかりの仏堂らしいですが、私の記憶では「平清盛」です。清盛の力が絶頂期の頃、建立されたイメージがあります。

 

ひとつひとつ千手観音を見れば、軽く2時間は要するかもしれません。それ程、沢山の千手観音があります。

更に此方には俵屋宗達の「風神雷神図屛風」のモデルになりました、「風神」「雷神」の像もあります。お見逃しなく。

 

  三十三間堂(写真:個人撮影)

 
三十三間堂
・拝観料  大 人 600円  高校生 400円
      中学生 400円  小学生 300円
・時 間  8:00~16:30

坂本龍馬の寓居・暗殺場所・信長の墓

三十三間堂を見学した処で、正午をとうにすぎていました。次に向かった先は、河原町三条。今まで来た道を戻り、徒歩約30分程。

此方が今回の旅の最終地点になります。三条と云えば、歴史ファンの方にはピンとくると思いますが。「坂本龍馬」の寓居地と「本能寺」です。

 

龍馬寓居地と本能寺は歩いて5分とかかりません。更に暗殺地(旧近江屋)も近い場所にあります。2010年頃、初めて訪れた時はコンビニのサークルKでしたが、今では回転すし屋になっていました。時代の流れですね。

 

  坂本龍馬寓居「酢屋」(写真:個人撮影)

 

現在は移転した場所にあり、以前あった処は勿論、1582年本能寺の変で焼失しました。中京区蛸薬師通り、現「堀川高校」の近くにありました。

今では小さな公園になっています。此方も以前行きましたが、なかなか見つからず何度もいききして、やっと石碑を見つけました次第です。

 

本能寺にて信長の慰霊碑を見学、境内をしばらく散策。龍馬暗殺現場を見学、寓居を見て京都に別れを告げる事にしました。

 

  現本能寺、信長慰霊碑(写真:個人撮影)

 

この時点ですでに午後3時を回ってました。朝から行動、既に9時間が経過。流石に昨日、今日の疲れが出てきたのか、足がお疲れの模様。

 

車に戻り、いつも通りに高速ICに向けて出発。昨日と似た交通量。市内を抜けるのに約1時間以上、高速ICまで約1時間、約2時間以上かかりました。渋滞にはまり、退屈で眠くなったのが本音。早く高速に入らないかと気だけが焦る状態。

 

今回、結構見学したのではないかと思います。但し10連休で仕方がありませんが、どこに行っても人人人の山。写真を撮るのにも、ひと苦労。人しか写らない箇所も多々ありました。

ですから今回撮れなかった場所は仕方なく、過去撮影した写真を利用している箇所もあります。

また車、観光バスが多いのは当然ですが、二輪車(バイク、自転車)が多く、運転に気を使ったのも事実。

 

初めにも述べましたが、外国人観光客が日本人観光客より多いのではないかと思われる程、凄い人集りでした。既に京都のキャパが超えているのではないかと思われる程。

名残り惜しい気持ちを抑え、高速に入り、次の目的地に車を走らせました。次の目的地。其処はどこでしょうか。それは以後のブログにて、ご報告させて頂きます。