ベトナム帰還兵の気持ちを代弁した映画『ランボー2/怒りの脱出』

皆様、ベトナム戦争をご存じでしょうか。もう遥かな遠い昔のことかもしれません。

主に1960年代におこなわれた戦争です。何故今になり、この戦争に関する映画を紹介するに至ったのか。

それはこの映画の中で主人公が呟いたあるセリフがずっと心に響き、時折思い出す為。

今回はそんな大昔の映画を紹介したいと思います。

 

・題名      『ランボー2/怒りの脱出』

・公開      1985年 米国映画

・配給      トライスター・東宝東和   

・監督      ジョージ・P・コスマトス

・原作      ディデビット・マレル

・製作      バス・フェイシャンズ

・脚本      シルベスター・スタローン/ジェームズ・キャメロン

・音楽      ジェリー・ゴールドスミス

 

出演者

♦ジョン・ランボー        :シルベスター・スタローン (ベトナム帰還兵)

♦サミュエル・トラウトマン大佐  :リチャード・クレンナ   (ランボーのベトナム時代の上官)

♦マードック司令官        :チャールズ・ネイピア   (タイにある米軍基地の司令官)

♦コー・バオ           :ジュリア・ニクソン      (ベトナム現地の女性諜報員)

♦バンクス            :アンディ・ウッド     (ベトナム軍の捕虜)

♦タイ軍曹            :ジョージ・チェン     (ベトナム捕虜収容所の長官)

♦エリクソン           :マーディン・コーブ    (タイ米軍基地のヘリ操縦士)

♦ポドフスキー中佐        :スティーブン・バーコフ  (ベトナム軍の支援するソ連軍の中佐)

♦ユーシン軍曹          :ボージョ・ゴーリク     (ランボーを拷問するソ連軍の軍曹)

 

あらすじ

ランボーは、ベトナム戦争の歴戦の勇士だった。戦争終結後、帰国。

除隊後、嘗ての戦友の死を肉親に伝える為、戦友の故郷を訪れた。

しかし訪れた田舎町では、帰還兵は厄介者。ランボーも多分に漏れず、地元警察官から邪険に扱われた。

その仕打ちに怒りを爆発させたランボーは、警官と激突。たった一人で警官に立ち向かった。

そのトラブルが原因でランボーは逮捕され、服役中と強制労働として採掘現場で仕事をしていた。(此処までは、パート1のあらすじ)

 

その採掘現場に、嘗ての上司であるトラウトマン大佐が現れた。

トラウトマンはパート1でも登場し、ゲリラ戦で山に立て籠ったランボーに投降を呼びかけた人物。

つまりランボーが、唯一信頼する人物と言える。

 

トラウトマンは、政府の命令でベトナムキャンプ(捕虜収容所)を偵察。写真を撮る人物を探していた。

その任務がトラウトマンを通じ、ランボーに回ってきた。

何故ランボーが、この任務に選ばれたのか。それは後の伏線と今回のブログを書く動機となった為、後述する。

 

トラウトマンのオファーを受けたランボーは、タイの米軍基地に飛んだ。

タイのベースキャンプに着いたランボーは、現地司令官(マードック)から任務の概要を聞く。

しかしランボーは司令官の話を聞きながら、何か半信半疑信の様子。

嘗てベトナムで地獄を見てきたランボーにすれば、本能的に何か腑に落ちない気がしたのだろう。

 

疑念を抱くランボーだったが、トラウトマンを信じ任務についた。

任務についたランボーだったが、ベトナムに潜行する飛行機から降下する際にアクシデントが発生。

まるで今後の行く先を暗示するような始まりとなった。

 

何とか敵地に潜行したランボーだったが、現地ではランボーが全く予想しない困難が待ち受けていた。

数々の困難に立ち向かうランボーだったが、物語が進むにつれ、今回の任務は政府によって仕組まれた陰謀と判明する。

今回のランボーの任務は、政府が企む策略の駒の一部に過ぎないことを知る。

 

女性諜報員と二人で脱出を試みるも、やがて女性諜報員は敵の凶弾に倒れ落命。

怒りに燃えたランボーは怒りと復讐を胸に秘め、敵に立ち向かう。

敵との戦闘を潜り抜け米軍キャンプに戻ったランボーは、敵に向けた怒りと同じく現地の司令官に怒りの矛先を向けた。

怒りを向けたランボーだったが、心の中には何か虚しさだけが残った。

 

要点

この映画を観た当時は子供だった為、映画の本質が全く分からなかった。

単なるアクション映画として楽しんでいた。

ところが時が経つに連れ、只のアクション映画ではなくベトナム戦争の意義を問いかけた映画と知った。

 

詳細は省くが、ベトナム戦争は米国の一部の層により仕組まれた戦争。米国は必ずしも介入しなくてよい、大義なき戦争だった。

それは政府や一部の関係者で秘匿された真実であり、末端の兵士には全く知らされていない事実。

政府は、巧みに国民の愛国心を利用。国内世論を背景に、軍や志願兵をベトナムに投入。積極的に戦争に介入した。

 

しかし現地に送られた兵士たちは、ベトナムの暑さとマラリア。更に慣れないジャングルに悪戦苦闘する。

ベトナム兵はジャングルを利用してゲリラ戦を展開。ソ連や非公式な中国軍の介入もあり、米軍は苦戦を余儀なくされた。

戦いは長期戦となり、次第に国民世論は変化。厭世感が漂い、軈て停戦を迎える。

 

戦争が終結して帰還兵に待っていたのは、国民からの冷たい視線と仕打ち。

この映画はそのようなベトナム帰還兵達の、やりどころのない怒りを表した映画と言える。

兵士達は国の為に戦ったが、国は彼らを裏切ったようにもみえた。

そんな帰還兵達と同様、心の傷を抱えたランボーだったが、今回の任務で再び裏切られたかたちとなった。

その裏切りとも思える任務の真意とは。

 

見所

採掘場で働くランボーの許に、ベトナム時代の上司トラウトマンが訪れた。

トラウトマンの目的はランボーに対し、停戦後まだベトナムに存在する捕虜収容所の調査を依頼することだった。

話を聞き任務を受けたランボーだったが、トラウトマンの去り際にランボーが彼に尋ねたセリフがとても興味深い。

そのセリフは

 「今度は勝ってもいいんですか?」 

だった。このセリフがベトナム戦争を体験した帰還兵の本音

 

何故なら、ベトナムに介入した米国だが、米国はベトナム戦争を勝つ必要はなかった。

必要がなかったというよりも、勝つ気がなかったと言える。

説明すれば長くなる為詳細は省くが、米国は政治事情でベトナム戦争に介入しただけ。

その国内事情とは、とても闇が深くここでは話切れない内容。色々な要素が絡み、到底説明不可能。

 

タイ米軍キャンプに到着したランボー。ランボーは、現地の司令官マードックに面会する。

このマードックが曲者。軍司令官というよりも、政府の役人(行政官)という言葉が当て嵌まる。

まさに役人気質の人物。当然ランボーは疑念を抱いた。

動物的勘とでもいうのか、初対面でランボーはマードックのうさん臭さを感じとった。

それは後の伏線ともなる。

 

任務を遂行する為、ベトナムに潜行するランボーだったが、輸送機から降下する際トラブルが生じた。

何とか作戦中止を回避したランボーは現地の女性諜報員(コー・バオ)と落ち合った。

コーの案内でランボーは、コーが雇った密輸船で川を下り目的の収容所に向かった。

この密輸船もなかなか曲者揃いの連中。訳は後で説明したい。

 

前述したが私がこのブログを書くに至った動機は、この船の中でのランボーとコーとの会話。

二人の会話にて、私がハッとさせられたセリフがある。

それはランボーに対してコーが、

「どうしてランボーがこの任務に選ばれたのか」を尋ねた時のこと。

 

ランボーの回答がとても印象的だった。その時のランボーの答えは

 

「俺が使い捨てだからさ」

 

その意味を掴み兼ねたコーが再び尋ねる

「使い捨てって、どんな意味?」

 

するとランボーが再び答える。

 

「自分が或るパーティーに招待された。しかし自分がパーティーに出席しようがしまいが、誰にも気されない存在だ」

 

私はこの二つのセリフを聞いた時、この映画の趣旨が全て集約されていると感じた。

このセリフは決して今回に限らず、「ランボー」シリーズの全てに共通するテーマ。

ベトナム戦争の意義の全てが、集約されていると理解した。

 

この二人のセリフはベトナム戦争に参加した名もなき兵士の全てに当て嵌まる。

更に決して兵士に限らず、全国民にも言えるであろう。

 

以前ベトナム戦争をテーマとした映画「ディアー・ハンター」を紹介した。

ディアー・ハンターもランボーも根底にあるテーマは同じ。ベトナム戦争の背景にある意味を分からず、国民は愛国心に唆され参加した。

参加した兵士たちは政府上層部の思惑など露しらず、国の為と思い、必死で戦った。

戦争終結後、兵士に残ったものは傷ついた心と体。

更に戦争に参加した事により、自分はおろか周りの人の人生まで変えてしまった。

 

ベトナム戦争は米国民の心をズタズタに引き裂いた。そんな状況下、政府は帰還兵を見捨てた。

見捨てられた帰還兵には、まともに社会復帰ができない者もいた。そんな人たちは政府に裏切られたと感じた。

ランボーも、その一人。

なかなか社会復帰ができずぶらぶらしていた時、パート1のような出来事に巻き込まれ刑務所入りとなった。

その事もあったのだろう。そんなランボーだからこそ、吐けたセリフ。

 

このセリフは、今回の映画でなくとも充分あり得る話。

自分が住む環境や職場に当てはめてみればよい。

譬え自分が認識していなくとも、自分がそのような立場に追いやられることがある。

ただ本人が気づかないだけ。周囲の人は気づいているが、その人が傷つく為、ただ黙っているだけ。

 

人生長く生きれば、多少のことは自ずと分かってくる。実は人間とは元来、そんなものかもしれない。

今ではないかもしれない。しかし何時かは必ずやってくる。それが何時かは分からない。

それが人生というもの。人生も後半になれば、流石に自分もそうだと気づく。

この映画を何度も見直すうちに、漸くこの映画の深さに気づいた。

 

更に会話中、コーのセリフも何気によい。コーが諜報員になった経緯や、将来の夢が語られている。

コーの父は諜報員だったが殺害され、その跡をコーが継いだ。コーの夢は米国に行き、静かに暮らすことだった。

これも後の伏線となる。

 

船で川を下り目的地に辿り着いた二人は、収容所を偵察する。すると無人と思われた収容所には数人の捕虜が存在した。

ただ写真を撮るだけという任務に疑念を抱いていたランボーは、独断専行で襲撃。捕虜一名を救出する。

3人は雇った船で逃げようとするが、船の連中に裏切りにあう。

連中はランボー達から金を巻き上げ、更に敵にランボー達を売り、二度儲けようとしていた。

 

元々うさん臭いと睨んでいたランボーだったが、ついに本性を現した。

ベトナム戦争では、北ベトナム軍を支えていたのは旧ソ連。その為ベトナム人は米国人に対し、あまりよい印象を持っていなかった。

船の武器類もソ連製。ランボーは最初の段階で見切っていた。やはり当時ベトナムで戦っていた時の本能が働いたのであろう。

つまり 誰も信じるな ということ。結局、ランボーの活躍で窮地は脱した。

 

3人は窮地を脱し、漸く味方の合流地点を目指す。

合流地点付近まで来た時、ランボーはコーに別れを告げた。「ここからは俺たちの問題だ」と。

これ以上、コーを巻き込みたくなかったというランボーの優しさとも言える。

コーが別れ際、ランボーに呟いた。その言葉は、

 

「ランボー、あなたは決して使い捨てじゃないわ」

 

そう述べて、二人は別れた。

ランボーと捕虜は敵の攻撃をかいくぐり、必死に合流地点に向かう。

やがてランボーの生存を信じ、トラウトマンを載せた救出ヘリがやってきた。

トラウトマンはランボーの救出を試みるが、ここに蹉跌が生じた。

 

その蹉跌とは。司令官のマードックがランボー救出に中止を唱えた。

ヘリの真下にいたランボー達だったが、ヘリはマードックの命令で無情にもランボー達を見捨てた。

 

何故マードックは作戦を中止させたのか。それが映画の深いテーマでもある、ベトナム戦争の闇。

今回の任務は、捕虜がいては困る任務だった。今回の任務は、捕虜がいないことを前提に進められた作戦だということ。

収容所に捕虜がいないことを証明する為の形式的な任務。その為、捕虜を連れてきたランボーをマードックは見捨てた。

ランボーは、 身内に裏切られた ということ。

 

要するに、政府が議会と世論工作をする為の、やらせ任務。

マードックはその極秘任務を、トラウトマンとランボーにさせたということ。

見捨てられたランボーは、当然ベトナム兵に捕まり拷問を受けた。

拷問を受けながらもランボーは必死に耐え、脱出のチャンスを伺っていた。

 

軈て、チャンスが訪れた。

一度別れたコーが収容所に潜入し、ランボーの救出機会を狙っていた。

 

何故コーが態々危険を冒し、ランボーを救おうとしたのか。

コーはランボーと別れたが、ランボーの様子が気になりランボーが味方から裏切られる姿を草葉の陰で見ていた。

コーも何か感ずるものがあったのだろう。コーは身を挺してランボーを救った。

 

ランボーとコーは再び追跡を逃れる為、ジャングルを駆けずり回った。

僅かばかりの安息が訪れ、ランボーとコーは岩に腰かけた。

二人が会話する。

 

コーがランボーに

「これからどうするの。国境を越えタイにいき、米国に戻るのか」と。

 

ランボーは

「おそらくそうなるだろう」とコーに答える。

 

するとコーは、「ランボー、私も一緒に米国に連れていって」と問いかける。

ランボーは、コーの願いを快く受けた。

 

約束を交わした後、二人は先を急ぐ為、立ち上がった。ランボーは岩に置き忘れた弓矢をとる為、一瞬後戻りした。

物陰から出た処をコーは、収容所の所長に撃たれた。

ランボーと約束を交わした直後にコーは撃たれ、そのまま絶命する。

 

息を引き取る際、コーがランボーに呟いたセリフが又切ない。

息も絶え絶えになりながらコーはランボーに対し

 

「私のことを忘れないで」とつぶやいた。

 

今にして思えば、このセリフは二人の意味があったと思う。その二つとは。

一つ目は、本当に「私の存在(コーという人間が生きていた)を忘れないで」という意味。

二つ目は、「ベトナムという国と状況を忘れないで」という意味。

 

一つ目は、初めて観た時でも理解できた。

二つ目は、かなり後になり観た時、こういう意味を含んでいたのではないかという、あくまでも私の推測。

そう捉えたほうがこの映画をより深く理解できるのではないかと思われた。

 

撃たれたコーはランボーの腕の中でなくなった。

コーを葬ったランボーは怒りと悲しみを胸に抱き、追っ手に立ち向かう。

コーがいなくなったランボーは、もう逃げる必要はない。

闘争心に火が付いたランボーは、迫りくる追っ手を片っ端からやっつけた。

嘗て米軍の特殊部隊にいたランボーは、ゲリラ戦はお手の物。次々と敵をなぎ倒す。

 

敵をさんざん打ちのめした後、ランボーは狙いすましたかのように弓矢でコーを殺害した収容所の所長を射殺する。

更にランボーは敵のヘリを奪い、収容所に戻り攻撃。敵を殲滅後、捕虜をヘリに乗せ救出する。

捕虜を乗せたヘリは敵の攻撃ヘリを撃墜し、タイの米軍基地に到着する。

 

到着後ランボーは機関銃を持ち、わき目も振らず基地内に入り銃を乱射。基地中のメカ類を破壊する。

メカを破壊後、ランボーが向かった先は、当然今回のいかさま任務を指揮したマードック。

 

目の前にランボーが現れ、マードックは必死に命乞いをする。

「私は只政府の命令されたことを遂行しただけ」だと。

ランボーはマードックを掴み机に押し倒す。押し倒しマードックの顔の傍にナイフを突き立てランボーは呟いた。

「他にも捕虜がいるのを分かっている筈、全て助け出せ。それまで命は預かって置くと」

 

任務を終えたトラウトマンがランボーを労う。しかしランボーの胸には、何か虚しさだけが残った。

トラウトマンがランボーに復隊を勧めるが、ランボーに復隊する気など全くなかった。

ベトナム戦争を経て、ランボーの心は既に死んでいた。

その時トラウトマンと交わした会話が、全てを物語る。

 

トラウトマンが

「間違った戦争だったが、決して国を恨むなと」ランボーに述べた際、

ランボーの答えは

 

「俺たちは国を愛し、この地で戦った。しかし国は俺たちを愛してはくれなかった」。

 

これが今回の映画の全て。

結局今回の任務は、政府がベトナム戦争の幕引きをする為の所業に過ぎなかった。

政府の一部が勝手に戦争を始め、その尻ぬぐいをする為、再び政府がいかさま行為をしたに等しい。

それに巻き込まれた国民や現地に赴いた兵士達は、堪ったものではない。

 

或る意味、ベトナム人も被害者といえるだろう。

何故そんな無謀とも言える戦争を米国は始めたのか。

それは前述したが、話せば長くなる為簡単に述べるが、米国特有の事情が絡むと言えば良いであろうか。

 

米国特有の事情と言えば、やはり「軍産複合体」。

この言葉を聞けば、詳しい人であればピンとくる筈。

米国は軍産複合体が社会の中心をなすといっても過言でない。軍産複合体が社会のあらゆる面で影響を与えている。

軍産複合体がベトナム戦争を誘導したとも言えるだろう。そんな巨大な組織の前では、米国大統領も一つのピースに過ぎない。

 

その一例と言われているのが、1962年に起きたケネディー暗殺。

ベトナム戦争の広大な背景に比べれば、今回の揉み消しや隠蔽は当然の出来事だったのかもしれない。

今回映画を振り返り、その思いを益々強くした。

最後にランボーはトラウトマンと会話を交わした後、失意に暮れどこへともなく去っていく。

追記

今回は珍しくパート1でなく、パート2を紹介したのか。

それは私が勝手にパート1よりもパート2のほうが、ランボーシリーズの本質が描かれていると感じた為。

 

パート1は米国本土に帰還した元米兵が、米国民に虐げられた末に怒りを爆発。

虐げた人間たちとの争いを描いた作品だったが、私は日本人の為、当時の雰囲気を感じ取れなかった。

何故同じ国民でありながら、互いに蔑み戦いあう意味が理解できなかったこともあろう。

それ故、パート1は何かもやもやとしたものが残ったが、パート2を観た後、そのもやもやが解消された。

 

私の感想では珍しく、パート1よりパート2の方が優れているように思われた。

私の好きな映画「ゴッドファーザー」も同じかもしれない。

ゴッドファーザーはパート1、パート2どちらも優れているが、特にパート2は秀逸。

パート2を観ればパート1で曖昧な箇所が理解できた。全てを補完したと言える。

ある意味、ゴッドファーザーという映画が完成された。

 

以前ゴッドファーザーをブログで紹介したが、私はパート1・パート2を紹介し、パート3は紹介していない。

理由はパート2を紹介した際、述べた。つまりパート2以降、あまりにも時間が経ち過ぎてパート3は連続性を感じなかった為。

言葉は悪いが、単なるおまけとしか思えなかった。その為、パート3は観たが敢えて紹介はしていない。

 

今回オープニングに採用されている曲が何気に素晴らしい。妙に耳に残るというのか。

いま聴いても新鮮に感じる。音楽は前作と同様、ジェリー・ゴールドスミスが作詞・指揮を担当した。

 

(文中敬称略)

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