関ヶ原の戦、勝敗を分けた要因2(決戦前の各大名の動きと人間関係)
目次
小山評議後、各大名の動き
小山評議の後、各大名はそれぞれ各方面に散り、今後の成り行きに備えた。
この評議後の各大名の動きを記しておきたい。
◆真田一族
正確に言えば25日の小山評議の約1週間前の17日、大坂方の三成から書状が届く。
非常に有名な一家。一番有名かもしれない。
関ヶ原の以後、後の「大坂冬の陣・夏の陣」までの歴史に重要な面影を残す。
影響は現代社会にも大きく反映される。TV・小説・映画等、度々リメイクされている。
それ程、歴史に多大な影響を及ぼした。
「犬伏」は、現在の栃木県佐野市犬伏新町。
ここで関ヶ原、以後の現代まで続く歴史的密談が行われる。有名な「犬伏の別れ」。
上杉討伐の家康軍に合流する為、真田軍は犬伏まで軍を進めた。
其処に大坂方の三成から密書が届いた。
「主君、豊臣家に弓引く逆臣徳川家康を討つ為、わが軍に加勢せよ」と。
真田家の三人で密議が開かれた。密議の場所は「薬師堂内」。
三人とは、「真田昌幸、真田信幸、真田信繁」の三人。
此方で密議され、以後三人は分かれた事になっています。
「今生の別れ」とでも言うのでしょうか。
密議の内容は
真田信幸
「すでに家康殿の従う為、ここまで来たのだから、家康殿に味方すべし」
真田昌幸
「真田家は家康、秀吉のどちらも恩顧を受けていない。この機会の逃さず、一家の繁栄に努めるべきだ」
真田信繁
「父、昌幸の言う通り、ここは時機到来、御家の繁栄を目指すべき」
この様に意見は、真っ二つに分かれた。
長い激論が交わされたが、3人意見を変えず、とうとう最後に一家は東西に分かれ戦う事になった。
激論後、昌幸は
「家を分けて戦う事は、決して悪くない。何故ならどちらが勝っても家は残るであろうから」
と述べた。
勝ち負けのどちらにも賭けたとも言える。
以後真田家は東軍に信幸、西軍に昌幸・信繁に別れ戦う事になった。
因みに真田信幸は本妻に、徳川家康の重臣「本多忠勝」の息女(小松殿)を娶っている。
一方信繁は、豊臣家重臣「大谷吉継」の息女を本妻に娶っている。
以前、大谷吉継と真田信繁に関係があると書いたのも此処の繋がりを指す。
信繁は豊臣家に人質として出されていた時、秀吉から才能を見込まれた事、政略結婚の意味もあり、吉継の息女と婚姻。
信幸も、徳川家との政略結婚の末、忠勝の息女と婚姻。
信繁は秀吉の人質になる以前、上杉景勝の人質となっていた。
上杉家と石田三成は、互いに内通していた可能性がある。
従って信繁は、景勝と三成の両方の顔見知りと云う事になる。
小松殿が信幸に嫁いだ経緯も、家康が度々、昌幸に戦で負けていた為。
懐柔の意味もあっての事。
家康は不思議にも、昌幸に煮え湯を飲まされている。
今回の関ヶ原でも昌幸は、徳川家の前に立ちはだかっている。
家康ほどの戦上手も、昌幸とは相性が合わなかったようだ。
しかし昌幸は戦上手であったが、大局的に物を見る視点には欠けていたと思われる。
戦術は上手いが、戦略は下手と云うのであろうか。
互いの本妻が既に東西に分かれていたのも、何かの因縁。
昌幸が「犬伏」で信幸と袂を分かった後、信幸の居城「沼田城」に立ち寄り、孫の顔が見たいと小松殿に嘆願。昌幸は入城の許可を求めた。
しかし小松殿は、仮令舅でも夫信幸と袂を分かち合ったのであれば、敵も同然と拒否。
城外で昌幸と孫を引き合わせたと言う話。小松殿の気位の高さが伺えるエピソードとも言える。
既に戦いの火蓋が切られていたと言える。
信幸は犬伏で別れた後、徳川秀忠軍に臣従を誓い、合流する。
真田家は以後東西に別れ、関ヶ原を迎える。
他の大名家の動向
他の一族にも、東軍、西軍の両方に賭けた者がいる。
「生駒家、毛利家、吉川家、小早川家、蜂須賀家、佐竹家」など。
「島津家、伊達家、鍋島家、前田家、九鬼家、長束家、脇坂家、小川家」なども微妙な立場。
日和見を決めていたと言える。
何気に西軍が多いもの気になる。
既に戦う前からヒビが入り、崩壊寸前だったのかもしれない。
とくに長束正家は以前は「丹羽長秀」の臣下であったが、算盤の才能を見込まれ秀吉に引き抜かれた。
五奉行まで昇り詰めるが、実践の経験など殆どない。
家康詰問状にまで名を連ねているが、増田長盛と同じ日和見、保身型の人間。
流石、文治派の官僚あがりといった処であろうか。
どこかの国の官僚も、全く同じ事が言えるかもしれない。
会社も同じ。
自分は冒険せず、ただ他人のミスを論い、自分は何もしない。
保身・責任転嫁のみ上手い人間がいる。
長束、増田、「前田玄以」なども同じ類。これでは武断派の人間に嫌われても仕方がない。
※余談
2016年大河ドラマは「真田幸村」が主人公でしたが、幸村を演じた「堺雅人」よりも昌幸を演じた「草刈正雄」が、完全に主役を食ってました。
草刈正雄は以前、同じNHKで放送された「真田太平記」で、「真田幸村」役を演じていました。
時を経て、幸村→昌幸を演じた事に、感慨深いものがありました。
尚、「真田太平記」で昌幸を演じたのは「丹波哲郎」。こちらもなかなかの好演。
信幸役は「渡瀬恒彦」。見比べてみるのも面白いかもしれません。
(文中敬称略)
小山評議後の家康の行動
小山評議後、家康は江戸に戻り、約1ヵ月近く江戸に滞在した。
おそらく状況を見定め、書けるだけ大名に書状を認め、発送していたのではないかと思われる。
内容は勿論、自軍の加勢依頼、戦後の論功行賞について。
各大名の返書などを細かく吟味。敵味方の分別をつけ、江戸を出発した。
東軍の先遣部隊は東海道を西進。武将は「福島正則」と「池田輝政」。
福島正則という男。
前述したが、政治的センスはまるでないが、戦となれば、とことん強い。
戦いが始まれば「猪の武者」の如く、ただ突き進むのみ。
この時ほど東軍にとり、正則ほど有難い存在はなかったと思う。
此方が云わなくても、相手が勝手にどんどん突き進んでくれる為。
いくら三成が憎い言えども、やはり大坂方「豊臣家」に対し、多少の躊躇いがちになるが、正則がその心配を払拭してくれる。
他の大名もやりやすかったのではないだろうか。後ろめたさがなくなる為。
詳細は省くが、「池田家」は家康の息女を娶り、縁戚関係。
江戸幕府二つの池田家があるのも此の影響。
池田家も戦国時代、「細川家」と並び、遊泳術に長けた一家。
意外に思うかもしれないが、東海道を西進する家康軍は、実は別動隊的な役割。
それならば、当時の東軍本隊と言えば。
中山道を進んだ、秀忠隊
小山評議後、中山道を進んだ「秀忠隊」、此方が今回の主力部隊と思われる。
陣容を見れば明らか。家康以来の歴戦の譜代がそろい踏み。
どうしてこの事実が、あまり知られていないのかと言えば。
おそらく徳川家が天下を取った後、歴史の改竄が行われたか、あえて書き記す資料が少なかったのだと思われる。
何故かと問われば、何度も述べている様に、
現代のマスコミ、ネット等もない時代。庶民の識字率も悪かろう時代。
資料として残されるのも限られた筈。
結論を述べれば秀忠という男、信州上田城、真田親子(昌幸・信繁)に足止めを食らい、大一番の戦(関ヶ原)に間に合わなかった大バカ者。
秀忠軍 約3万8千人、家康以来の歴戦の勇士を揃え、真田勢 約2千5百人の城を落とせず、挙句に遅刻までしてくるバカ息子である。
もし秀忠軍が戦略上あまり関係ない小城として、通過していれば遅刻などしなかったに違いない。
後述するが、確かに小早川秀秋の裏切りなどで、関ヶ原は半日でケリがついた。
もし秀秋の裏切りがなければ、家康も危うかったかもしれない。
秀忠の遅刻がなければ、もっと楽に勝利できた。
これを考えれば秀忠という男、二代目将軍となったが秀頼、輝元、文治派達の人間と同じで、かなり実践経験が乏しかったのではないかと思われる。
実際、今回が初陣とも言われている。
秀忠の大失態を隠す意味で、事実があまり公にされず、伏せられたのではないかと思われる。
箔をつけるつもりが、逆に失態の汚名を被った為。
これは特筆すべき事。
後世の人間は歴史の結果を知っている。
知っているからこそ、何とでも言える。
しかし当事者としては、その時が歴史の曲がり角だったとは分からない。
きっと、皆さんの周りもいる筈。
結果が出てから、「自分は最初から反対だった。ああすれば良かった」と言う輩が。
何故かと言えば、「自分がバカ」と思われたくない為。
初めからその様に主張し、行動していたかと言えば、決してそうではない。
ただ日和見していただけの輩。「今更言うな」と言う輩でしょうか。
真田親子の経緯を書きそびれたが、真田昌幸、信繁は犬伏で信幸と別れた後、自国領に戻り、東軍の攻めに備えた。
「上田城」を中心として、「戸石城」「虚空蔵山城」の3城。
西軍側の真田家としては、東軍の西進の足止めをすれば事足り、時間稼ぎをすれば戦略的には勝ちに等しい状態。
初陣の秀忠は、まんまと真田親子に計略にひっかかり、無駄な時間を費やした。
講和に応じると見せかけ、時間を引き伸ばし、反故する強かさ。約10日間ほど釘付けにした。
結局、秀忠軍が上田城攻略を諦め、関ヶ原に向かう。
しかし間に合わず、関ヶ原の合戦の決着がついた2日後、木曽の妻籠宿で東軍勝利の報を聞いた。
まさに真田親子の面目躍如といった処。
真田信幸はさぞかしバツが悪かったと思う。
し
かしそれ以上にバツが悪いのが、本隊の将である「秀忠」。
家康の不肖の息子と言える。
現代社会でもそうだが、一代目の創業者は素晴らしいが、二代目、三代目になれば何故か格が落ちるとでも言うのか。全く同じ事が言える。
秀忠は跡継ぎであるが、家康3番目の子にあたる。
一人目は今川家家臣「関口親永」の息女、「築山殿」の間にできた「信康」がいたが、武田家との内通を「織田信長」から疑われ、築山殿と一緒に切腹させられた。
二人目は側室「於万の方」に産ませた「秀康」。
家康はどうも秀康の出生を疑っていた。
何か於万の方のアバズレな処もお気に召されなかった。
秀吉の人質として差し出され、秀吉の養子となるが、秀吉の実子が生まれた後、今度は結城家に養子に出されている。
秀康自身、たらい回しの様な扱いに、かなり不満をもっていた。
最後は難病にかかり、僅か34歳で病死している。
意外にも二人の兄は、出来がよかったと伝えられている。
家康も関ヶ原に秀忠が遅延した際、もし信康が生きていればと、ぼやいたと言われている。
家康が箔をつけようと譜代の家臣をつけたが、使いきれない秀忠は凡庸だったと言えるかもしれない。
もう一人の凡庸な子孫
秀忠と同様、もう一人凡庸な子孫がいる。祖父は偉大であったが、孫にあたる不肖の人間。
かつて「清洲会議」で秀吉に担がれ利用され、成人になれども秀吉から天下を返してもらえず、僅かな所領にて日々過ごしている人間。あの「三法師」である。
皆様様の中には「三法師」は果たして、どうなったのかと疑問抱く方がいると思います
。歴史の闇に埋もれたのでは、と思うかもしれません。
三法師は確かに生きていました。
立派に成人し、今や一国一城の主となっていました。
さて、どこの城主でしょうか。
答えは「岐阜城」です。
信長が天下獲りを目指し、清洲から美濃斎藤家を滅ぼし、天下獲りの第一歩をとした、あの岐阜城の城主です。
前述した先遣隊、福島正則・池田輝政が東海道を進み、今まさに攻めようとしているのが岐阜城。
これも歴史の綾とでもいうのだろうか。
三法師は立派に元服し、今では名を「織田秀信」といいました。
いいましたと言う程、全く影の薄い存在になり果ててました。
今回の戦がなければ、本当に歴史の闇に埋もれていたでしょう。
秀吉は三法師を利用したが、天下を織田家に返す気などサラサラなく、秀信に信長ゆかりの岐阜城と知行13万石しか与えなかった。
普通であれば、不平不満があるが、秀信本人はあまり意に介さなかった。
それを見ても「坊ちゃん」「バカ殿」ぶりが分かるかもしれない。
名前を見てもおそらく時の権力者「秀吉」の「秀」、祖父「信長」の「信」をとり、秀吉に阿る意味で先に秀の文字を使い「秀信」と名付たのではないかと思われる。
何故、秀信が西軍に味方したのかと言えば、いろいろ説があるが、秀信と言う男、大変な「伊達もの」だったらしい。
その為、自軍の様相ばかり気にし、出陣が遅れた。
出陣が遅れ自国にいた為、三成挙兵の知らせを聞き、西軍に味方するようになった。
本当かどうか定かでないが、妙に納得できる。
なんとなくバカ殿らしいエピソードである為。
結局岐阜城は、福島隊・池田隊に攻められ、一日であっけなく陥落。
天下の名城と云われた信長ゆかりの城も、織田家と共に崩れ去った。
秀信は福島正則の助命もあり切腹は免れたが、高野山に追放。
5年後、名門育ちには辛い環境だったらしく、僅か26歳で亡くなっている。
彼も本能寺の変で人生が狂い、薄幸の生涯だったと言えるかもしれない。
各大名の婚姻関係
大名の動きを描くうちに、各大名それぞれの婚姻関係を書き記す事で、新たな一面が見えるかもしれません。
先ずは有名な三姉妹で其々、数奇な運命を辿った人から。
◆淀殿
幼名「茶々」。云わずと知れた豊臣秀頼の母。
茶々の母は織田信長の妹、「お市の方」。
政略結婚で、北近江の「浅井長政」に嫁ぐ。三姉妹の長女。
浅井家滅亡後、織田家に戻る。
本能寺の変後の清洲会議の時、嘗て織田家の宿老「柴田勝家」と母が再婚。越前北ノ庄に移る。
その後、羽柴秀吉との対立にて柴田家滅亡。母お市は勝家と自刃。秀吉の庇護になる。
やがて秀吉の側室となり、「秀頼」を生む。秀吉の死後、大坂城で権勢を振るう。
◆初
幼名「おなべ」。お市の方の二女。姉は淀殿。経歴は姉とほぼ同じ。
「京極高次」に嫁ぐ。夫高次は初めは西軍に就いたが後に離反。
細川家の田辺城攻めの陣から勝手に離脱。大津城に戻り反旗を翻し、東軍に就く。
関ヶ原の前日、落城するも関ヶ原後、足止めの功ありとされ、越前小浜に加増される。
◆督(江)
幼名から「おごう」らしい。お市の方の三女。
姉は淀殿、初。経歴は二人の姉とほぼ同じ。
最初の婚姻は佐治一成。その後離縁。再婚相手が秀吉の甥、豊臣秀勝。
そして三度目が「徳川秀忠」の正室となる。三代将軍「家光」の母。
つまり関ヶ原では大坂方に長女淀殿、徳川方にお江・お初に分かれていた事になる。
戦国時代とは言え、本当に数奇な運命を辿った姉妹と言えるだろう。
更に入り組んでいる各大名の婚姻ひとつひとつ挙げれば切りがない為、有名なものだけ列挙する。
◆石田三成の妻
三成の正室「おりん」と呼ばれていた。姉が真田昌幸の正室。
昌幸、信繁親子とは縁が深い。信幸・信繁とは叔母に当たる。
姉妹は京の公家「今出川家」出身と言われている。
◆真田信幸の妻
小松殿。前述したが徳川家重臣、本多忠勝の息女。
形式的には、格を上げる意味で家康の養女となり、信幸に嫁いでいる。
関ヶ原では夫信幸が東軍に加わり、本領安堵。
◆真田信繁の妻
前述したが、大谷吉継の息女。
関ヶ原後、昌幸、信繁が紀伊国九度山に蟄居となり随行。
大坂の陣後、出家。竹林院として京で過ごす。
◆宇喜多秀家の妻
豪。前田利家の四女。2歳の時、羽柴秀吉の養女となる。
正室ねねに可愛がられる。
秀吉の猶子(相続権のない養子)であった宇喜多秀家に嫁ぐ。
関ヶ原以後、離縁状態となり、一時期ねね(高台院)に従事する。
後、金沢の前田家に引き取られ、金沢で生涯を過ごす。
◆小早川秀秋
ねねの兄、木下家定の五男。一時期、跡継ぎがいない秀吉の養子となる。
後に秀頼が生まれ、用済みとなり、毛利家分家の小早川家の養子に出される。
後述するが、この男も出来の悪い人間だった。
◆細川忠興
細川藤孝(幽斎)の子。妻は玉(ガラシャ)。明智光秀の二女。
父幽斎は田辺城にて西軍相手に2ヶ月程、足止めする。
関ヶ原後、豊後の転封加増となる。
◆長曾我部盛親
長曾我部元親と明智光秀家臣「斎藤利三」の妹との間に生まれた子。
兄信親の死後、家督を相続。関ヶ原では西軍に就くも殆ど何もせず、終戦。
以後改易となり放浪。
大坂の陣で信繁同様、大坂城に入城するも殆ど目ぼしい働きもせず、関ヶ原と同じく終了。
私としては、この男一体、何をしたいのか分からない人間だった。
◆池田輝政
前述の通り、家康の婿殿。後妻は北条家滅亡で徳川家に戻っていた督姫。
江戸時代、池田家が二家に分かれていたのも此の為。
ざっと有名処を挙げても、これだけ入り組んでいる事が分かる。
更に大名の家臣を入れれば、きりがない。それだけ複雑に人間関係が絡み合っていると云う事だろうか。
岐阜城陥落後の動き
岐阜城は福島正則・池田輝政の奮闘もあり、あっけなく落ちた。
家康は8月23日、岐阜城陥落の報を聞き、9月1日江戸を出発。
各大名の真意を確かめていたと思われる。
福島・池田隊の働きで、各大名の決意が揺るぎないものと判断、出立する。
因みに9月6日、東軍本隊の秀忠軍は上田城攻略に手間取る。
家康と言う男、野戦は強いが、城攻めが苦手。
西軍は大垣城に集結し、攻防する構え。家康としては何とか野戦に持っていきたい戦法。
大垣城に対峙する赤坂という丘に陣を張る。
なんとか相手をおびき出し、野戦で一気に相手を叩く戦法を練る。
大垣城の西軍
西軍は大垣城が攻防戦となると睨み、全軍を終結させていた。
石田三成、島津義弘、宇喜多秀家、小西行長、小早川秀秋、安国寺恵瓊、毛利秀元、長曾我部盛親、長束正家、吉川広家など。
大名ではないが一人の武将を書き記しておきたい。
三成の家臣「島左近(清興)」である。
もともと大和国「筒井家」に仕えていたが折が合わず、筒井家の許を去り、浪人同然の生活を送っていた。
噂を聞きつけた三成は仕官に誘った。左近は初めはなかなか首を縦に振らなかった。
三成は当時まだ4万石であった俸禄の半分を与え、左近を召し抱えた。
恩義を感じ、左近は三成の臣下になる事を決意したと言われる。
当時の戯歌で
「三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と 佐和山の城」
島の左近とは当然、島左近の事である。
それ程の武将であり、関ヶ原でも勇猛果敢に戦っている。
三成が文官とすれば、武の部分を補ったのが左近と言える。
大垣城の他に西軍は、東軍に味方する大名を攻略する為、軍勢を分散させていた。
①田辺城攻略 細川幽斎(東軍) 西軍数 約1万5千人
期間 7月20日~9月12日
②大津城攻略 京極高次(西軍→東軍) 西軍数 約1万5千人
期間 9月10日~9月14日
他にもいろいろ行われているが、主なものを挙げてみた。
二つの戦いは、あえて述べてみたい。少なからず、関ヶ原の戦いに影響を及ぼした為。
田辺城攻略戦
細川藤孝(幽斎)、細川忠興の父。丹後宮津の城。城兵約500人。
言ってしまえば、戦略上あまり関係ない城ともいえる。
東軍秀忠軍の上田城攻略と同じ。
あまり重要でない為、攻略する必要などなかったのではないかと思われる。
城兵が僅か500人程でありながら、落とすのに約2ヶ月近く要す。
守備兵だけおき、約1万5千人も派遣する必要がなかったのではないか。
落城日も9月12日であり、関ヶ原は9月15日に行われている。
全く意味がない攻防だったと思う。
大津城攻略
此方も落城日が9月14日で、関ヶ原の前日で落城。西軍約1万5千人が費やされている。
更に大津城攻略では戦意の高い、「立花宗茂」「毛利秀包」が投入されている。
もし関ヶ原で2武将が参加していたら、また違った形になったかもしれない。
戦の行方を決めた「小早川秀秋」は最後まで日和見であり、優柔不断で迷っていた為。
結果論かもしれないが、西軍としてはくれぐれも悔やまれる人選だったと思う。
此方も攻略など考えず、守備兵だけをおけばよかったのではないか。
京極高次は初めは西軍の田辺城攻略に参加していたが、勝手に陣を離れ、大津に戻り反旗を翻した。
最初に西軍に属していて、後に心変わりがあったと云う事は、何かあったと云う事。
高次が心変わりする何かは、今となっては知る由もないが。
京極高次の心変わりもさる事ながら、島津も途中から三成のやり方に反感を持っていた。
理由は後述する。
西軍総大将「毛利輝元」の不出馬
更なる西軍の誤算があった。
三成は総大将として祭り上げた「毛利輝元」の大阪からの出陣を要請していた。
家康は「秀頼の出陣」を恐れていた。
もし輝元が太閤殿下の遺子「秀頼」を伴い出陣すれば、家康に忠誠を誓った豊臣恩顧の大名も、戦意を喪失するのではないかと恐れていた。
家康は輝元、秀頼の出陣を阻止する為、大坂城に間者を送り、流言飛語を流した。
もし輝元が大坂城を出陣すれば、反豊臣勢が大坂城にて謀反を起こす計画があると。
噂の為、輝元は出陣できなかった経緯がある。
家康の謀略の勝利とも言えようか。
東軍の秀忠軍の遅延、西軍の各大名との連携不足などの問題を抱えたまま、いよいよ決戦の火蓋が切られようとしていた。
ここまでが、関ヶ原の前哨戦とも言える各部隊の動きでした。
次回からはいよいよ決戦の火蓋が切られようとしていた。次回に続きます。
前回:関ヶ原の戦、勝敗を分けた要因1(秀吉の死後、派閥争いと家康の台頭)