忘れられない、思い出の曲 BOØWY『CLOUDY HEART』

思い出の忘れられない音楽

 

『CLOUDY HEART』

作詞・作曲:氷室京介  編曲:布袋寅泰

1985年

 

・参考文献

【BOØWY STORY 大きなビートの木の下で】

(ソニーマガジンズ 1986年12月発行)

 著者 紺待人

 

大昔、夢中になったバンドがあった。夢中になり中学・高校・大学とまさに青春時代と言われる大半を、そのバンドの音楽を聴いて過ごした。

そのバンドとは「BOØWY」。今風の言葉で「伝説のバンド」と表現すれば良いのであろうか。

 

リアルタイムで聴いていた人間には伝説でもなんでもなく、供に同時代を生き、同時代を過ごした。

そして解散後30年以上経った今でも、ファンの心の中で生き続けているバンドと言える。

今回、自分が青春と言われる時代の大半を一緒に過ごしたバンドの話をしたい。

BOØWYが結成されるまで

 

BOØWYのメンバーと言えば、「氷室京介」「布袋寅泰」「松井恒松」「高橋まこと」が思い浮かぶのではなかろうか。

私も初めてラジオで聴いた当時は、この最終メンバーしか知らなかった。

 

最終メンバーと書いたのは理由があり、上記4人になるまでには、更に人数がいた事はあまり知られていない。

メンバーが更にいた事もさることながら、メンバーの出入りがあった事も、私自身だいぶ後になり知った。

実はBOØWYが結成される以前も、様々な紆余曲折が存在した。先ず結成されるまでの話を簡単に述べたい。

 

氷室京介

高校時代、友人とバンドを組み、県内のバンド大会に出場。見事優勝を果たす。

中野サンプラザの全国大会でも入賞を果たす。この時点で既に、松井恒松と一緒にバンドを組んでいた。

しかし入賞を果たしスカウトされた事務所を頼りに上京するが、力不足との理由で事務所から別々のバンドに分かれ、活動させられる。

 

『CLOUDY HEART』のモデルとなる女性は群馬時代に知りあった。

書籍の中では「ヒロミ」となっているが、本名かどうかは不明。ヒロミは、氷室を追って上京する。

因みに中学時代の音楽仲間に「山田かまち」もいた。

事務所で組まされたバンドメンバーの中では、初代BOØWYのドラマー「木村マモル」がいた。

 

松井恒松

氷室京介の欄でも述べたが、小・中学と氷室京介と同じで一緒にバンドを組む。

バンドの全国大会で入賞。氷室と同じ事務所でバンド活動をする為、上京。事務所の手により、他のバンドに組み込まれ活動する。

 

布袋寅泰

今でこそギターの天才と言われる彼も、ギターとの出会いは中学の時。意外に遅い気もするが、親戚の影響らしい。

初めは高校生の先輩と一緒にバンドを組んでいたが、後に自分のバンドを組み始める。

この時東京で再会した氷室、松井とBOØWYの原型「暴威」を結成後、メンバーに加わるサックス「深沢和明」がいた。

 

ボーカルは土屋浩。土屋浩のペンネームは「紺待人」。つまり「大きなビートの木の下で」の著者。

バンドコンテスト県大会では、氷室京介のバンドに僅かな差で負けた。

コンテストには負けたが、布袋は伝手を頼りにバンド仲間の土屋浩と供に上京する。

 

高橋まこと

他のメンバー3人が群馬出身だが、高橋まことは福島出身。

初代ドラマー(木村マモル)が抜け、オーディションを経てBOØWYに加わる。

中学時代は意外にも、美術部だった。

中学の時、ドラムと出会う。高校では応援団に入部していた。高校時代にバンドを組み、ドラムを担当する。

 

バンド仲間の紹介で、仙台でドラムを弾き始める。

仙台では高校の同級生とバンドを組む。コンテストにも参加。

入賞も果たすが、メンバーが脱退を期に高橋は高校の友人で上京、バンドを組んでいた人間に声を掛けられ上京する。

氷室・布袋互いに上京。挫折後、バンド結成

氷室京介は事務所に無理やり組まされたバンドに飽き飽きし、既に東京に対する執着は失せ始めていた。

挫折というものかもしれない。好きな事をやりたいと上京したが、やれない事をへの苛立ち、焦りだった。

著書では、「疲れたんだ」と表現されている。

 

後のライブで氷室自身が述べていたが、

「自分を追って田舎から出て来た女と同棲していて、ままごとみたいな生活で自分はバイトをして、へまをして直にクビになり、半ばヒモの同然の生活をしていた」と。

 

氷室は自信と希望を失いかけ、田舎に帰ろうとした。

しかし、

「自分を追って来た女は既に自分を包み込むほど大きくなり、女一人で東京に生きていける逞しさを身に着けていた」

と著書では述べられている。

つまり自分よりも、女の方が都会の生活に早々と順応。当時は氷室より成功していたと云う事であろうか。

 

氷室は田舎に帰ろうと女に告げようとしたが、当時19歳の少年は不器用で言葉にする事ができなかった。

その時氷室が女に掛けようとした言葉はおそらく「一緒に帰るか」だったと思う。

しかし、それが言えなかった。

 

氷室が無言で女を見つめていた時、女が氷室に手渡したものは、二日後のRCサクセションのコンサートのチケット。

コンサートを見てから東京を離れてもいいと思った氷室は、チケットを受け取った。

翌朝目覚めた時、自分を追って田舎から出て来た女は、部屋から消えていた。

 

著書では、この時『CLOUDY HEART』の歌詞が掲載されている。

おそらくこの時の心情を唄ったものが、『CLOUDY HEART』として書かれた。

前述のライブで氷室は、その時作った曲と述べている。

 

バンド結成前で既に、バンド解散後、ファンに最も愛された曲が出来上がる要素が準備されていた。

何となく名曲ができる運命の糸を感じる。

私自身、曲を知った後、このエピソードを聞き、益々曲が好きになった。

 

尚、氷室も此の曲には思い入れがあるようで、ソロになってからあまりBOØWY時代の曲は唄っていないが、「CLOUDY  HEART」はアレンジを加えライブで、度々唄っている。

やはり本人にも、忘れらない曲と思われる。

 

私としては途中で布袋の鳴きギターが入るが、この時のギター音が最高だった。

ギターが曲のメロディーラインに、ピッタリマッチしていると表現すれば良いかもしれない。

 

RCサクセションのコンサートを見て帰郷しようとしていた氷室は、ボストンバックを持ったまま会場にいった。

コンサートが始めるまでバラバラだった観客が、忌野清志郎が登場した途端に一体となった。

それが同じ音楽をしている人間には悔しかったと、著書に書かれてある。

本当にそんな心境だろうと推測できる。まだ当時の氷室であれば。

 

この感情は氷室に大きな変化を齎した。

今自分は此の空間を捨て、負け犬の如く田舎に帰ろうとしていた。

「しかし負けられない。やり直すのではなく、ここから始まるのだ」と書かれてある。

 

会場に来た時とは全く違った気持ちで会場を後にした氷室は、頭の中で考えていた事を実行に移した。

今迄言葉すらろくに交わした事もない相手に対し、バンドを組む為に電話した。

その男は群馬時代、ライバルとして他のバンドのギターを弾いていた男、「布袋寅泰」だった。

 

氷室がいきなり電話をしたが、偶然にも布袋が電話にでた。

運命のいたずら、いや運命の始まりとでも言おうか。

 

二人は互いに近況を話しあい、将来に向け、話合う事にした。

待ち合わせ場所は六本木アマンド前。待ち合わせの定番。

自分も進学で上京した時、六本木で待ち合わせの時は必ずアマンドだった。

調べてみてば、今でもあるようだ。

 

二人の再会は、二年ぶり。二人は互いの音楽性、将来について語りあった。

そしてそのまま、氷室が所属している事務所に行き、氷室は社長に直談判。

今のバンドを脱退を告げ、布袋と新しいバンドの為の曲をつくり始める。

著書の言葉を借りれば、運命の歯車が動き出した瞬間と言える。

 

将来結成されるバンドの為の曲作りが始まった。

氷室と布袋がお互いに温めていた曲を出し合い、曲を乗せていく。

BOØWYを代表する曲が既に此の頃、出来上っていた。「イメージダウン」、「NO NEW YORK」など。

 

バンド募集で人が集まったが、セッションの結果、全て不合格。

なかなか適格なメンバーが集まらなかった。

 

或る日、二人に電話がかかった。電話の主は群馬時代、氷室とバンドを組んで一緒に上京。

事務所の都合でバラバラにされ活動していた、松井恒松だった。

 

松井は所属していたバンドが解散。今はフリーになっていた。

何処かで二人の状態を聞きつけたらしい。松井は電話で二人に加わりたいと話した。

 

二人にとっては、問題はない。松井はメンバーに加入した。

更にもう一人、氷室が上京して一緒に組んでいたバンドのドラマー「木村マモル」も加わった。

初めて4人となりバンドの形が出来上がった。

 

バンドの形は出来上がったが、早速問題が生じた。

互いにバンドを奏でるスタイルに不満を感じたからだ。互いに言い分があったのは、仕方がない。

今までそれそれ違うスタイルと方向性でバンド活動をしていた為、最初から噛み合う方が難しいというもの。

 

検討の結果、新たにメンバーを加える事にした。

サックス「深沢和明」、ギター「諸星アツシ」である。

深沢は群馬時代の布袋の知り合い、諸星は氷室の知り合いだった。

 

因みに、前述したNO NEW YORKの歌詞は深沢が書いたもの。

この時既に、BOØWY後半のヒット曲「マリオネット」も、ほぼ完成していた。

 

当時完成した曲は、主にアルバム「モラル」に収録されている。

いくつものデモテープを作り氷室は、所属している事務所の社長に会いに行った。

勿論、バンドとしての許可と自由を勝ち取る為に。

 

社長との面会の末、氷室はバンド活動の自由を認めさせた。

しかし氷室と社長との目に見えない争いは続いていた。

 

バンド活動を始める際、氷室たちはバンド名を「BOØWY」と決めていた。

しかし実際刷り上がったチラシには「暴威」と印刷されていた。

後に氷室は事務所を離れ、個人事務所設立の運びとなる。

 

新宿ロフトで拠点に、ライブを展開する。

しかし当初からの音のズレの問題は解消されず、ドラマーの木村は脱退、プロデュースの裏方に回る。

 

ドラマー募集の結果、高橋まことがオーディションの末、バンドに加わる。

此処からが、BOØWY伝説の始まりとなる。

深沢・諸星、バンドを脱退。

BOØWYの原型「暴威」は1980年に結成された。深沢和明・諸星アツシもこの頃、加わる。

翌年1981年、新宿ロフトを中心に活動を始める。

木村マモル脱退、高橋まことが加入。ファーストアルバム・レコーディング。

 

1982年、バンド名を正式に暴威からBOØWYに変更する。

深沢・諸星アツシが脱退する。確かにモラルのアルバムのジャケットには、6人が写っている。

深沢と諸星は最初で最後のBOØWYでの活動だった。

 

因みにこの頃の氷室は、今の「京介」ではなく「狂介」と表記されている。

この時が、いま皆がBOØWYと言えば思い浮かぶメンバーになったと思われる。

因みに本名は伏せてあるが、社長は音楽界ではかなり有名な方。

 

最後の頃のBOØWYは、ラブソングのイメージが強いが、この頃はまだラブソングもあるが、なかなか面白い曲がある。

アルバムモラルを見ても「RATS」など良いかもしれない。

中学・高校時代、誰しも経験した事がある裏切られた経験。氷室、松井なども経験した事を歌にしている。

歌詞をみても、なかなか皮肉めいて、人間の真理を付いている。

 

1983年、個人事務所設立。全国ライブを展開する。活動拠点を渋谷に移行する。

1984年、「ビート・エモーション」と銘打ったツアーを重ねる。

1985年、此の頃になるとバンドも軌道に乗り始め、ヒット曲にも恵まれる。

「ホンキー・トンキー・クレイジー」、「BAD FEELING」など。

この時を境に、バンドは飛躍を遂げている。

 

  • 一応書籍はここら辺で終了しているが、これからはその後を述べたい。

飛躍後、絶頂期を迎える

1986年、BOØWYは前年の飛躍から、発展と遂げる一年となる。3枚目シングル「わがままジュリエット」の発表。

JUST A HERO」と銘打ったツアーの最終日の7月2日、日本武道館にてライブを行う。

有名な「ライブハウス武道館へようこそ」はこの時のセリフ。

 

4枚目シングル「B・BLUE」を発表。ほぼ、ピークを迎える。

アルバム『BEAT EMOTION』を発表。

後のメンバーの話では、このアルバムがバンドとしての完成に近く、やりたい事を成し遂げたようだったと述べている。

 

そして解散へ

1986年がバンドのピークを迎えたと述べたが、1987年はバンド結成からBOØWYの名で活動を始め、足掛け5年。バンドとしての総括に入った時期と言える。

 

5名目シングル「ONLY YOU」を発表。この時のB面が「CLOUDY HEART」。

氷室京介がBOØWYを結成する前から、出来上がっていた曲。ここに来て、初めてアルバム以外に収録される。

寧ろ、今まで収録されなかったのが、不思議。

 

6枚目シングル「MARIONETTE」を発表。この曲でBOØWYは、名実ともにNO1バンドの称号を獲得する。

7枚目シングル「季節が君だけを変える」を発表。

この頃になれば、何かを急ぐかのように、立て続けに発表する。

 

この曲のプロモーションビデオが、とても印象的。

当時の新宿界隈中心の10代の少年・少女の顔の表情を、見事に捉えている。

見ているだけでも、何か一人一人のメッセージが伝わり、時代・世相が垣間見られる。

 

後々知ったが、実は出演者はBOØWYのファンクラブから募ったもの。

面接の末、出演者に対し色々なスタイルで出演して貰った模様。

 

アルバム『PSYCHOPATH』発表。これが、バンドとしての最後のアルバムとなる。

ツアー最終日の12月24日、渋谷公会堂にて突然の解散宣言。前兆が感じられた。

前年のアルバムが、ほぼ完成に近いもの。

今年に入り、立て続けのシングル発表など。関係者は、薄々感じ取っていた模様。迎えた翌年。

 

1988年4月4日、5日の東京ドームにて解散コンサートを行う。

そしてバンドは解散。永遠に伝説となった。

 

尚、「大きなビートの木の下で」の中の言葉をかりれば、

「誰にも似ない」「何処にも属さない」がモットーだったと描かれている。

まさに時代を駆け抜け、絶頂期で幕を引いたと言える。

BOØWY解散理由

BOØWYを語る上で、避けて通れない話題と言えば、やはり解散理由であろう。

何故、人気絶頂期に解散しなければならなかったのか。

 

解散発表、解散後に色々な憶測が飛び交った。

色々飛び交ったが、その中で一番有力とされたものは、「氷室・布袋の不仲説」。

実は私も若かりし頃、不仲説を信じていた。

解散コンサートでの氷室と布袋の言動をみる限り、最も有力な説と思えた。

しかし今でも解散理由は明らかにされおらず、解散後は益々、揣摩臆測が飛び交っている。

 

各メンバーもそれぞれ口を閉じ、誰一人多くは語らなかった。

語らない事で憶測がまるで事実として、定着したかの様にも思える。

 

私は解散後、心にポッカリ穴が開いたようで、暫く何もする気が起きなかった。それ程、衝撃的だった。

しかし歳を重ね改めて考えてみれば、若かりし頃、想像していた解散理由とは、若干考えが違ってきた。

 

今になって考えれば、解散理由の一つ、 皆がやりたい事をやり尽くしたという理由 が、最も当て嵌るかと思われる。

互いにメンバーが最初から上手くいっていた訳ではない。

紆余曲折・試行錯誤しながら走り続け、漸く軌道に乗せた。

 

バンドが頂点に達したと同時に、各メンバーのやりたい事の全てが達成された。

達成された為、もうバンドでやる事がなくなったのではないかと推測する。

その時、誰からの口ともなく「解散」の言葉が出たのではなかろうか。

 

又それぞれ他にも、多くの理由があったと思う。しかし誰一人として、数多くを語らなかった。

一つでも理由を述べれば、殊更大きく取り挙げられ、収拾がつかなくなる為、各メンバーは明言を避けたのではないかと思われる。

そして30年以上経った、現在

BOØWYが解散して、既に30年以上経つ。バンドメンバーと同様、ファンも30歳以上年を取った。

数年前、BOØWYファンにアンケートを取り、BOØWYの曲の中で、一番好きな曲を挙げて貰う企画があった。

 

アンケートの結果、名誉ある1位に輝いた曲は『CLOUDY HEART』。

私自身、リアルタイムで聴いていた時、一番好きな曲は『CLOUDY HEART』だった。

 

若かりし頃のファンはおそらく、ノリの良い曲「ホンキー・トンキー」「ドリーミン」などが、お気に入りだったと思う。

しかし人生の月日を重ねる連れ、変化したのではないかと思われる。

 

人生の月日を重ねるにつれ、若い頃誰もが持っていた情熱・野望が徐々に薄れていく。

人生は所詮、上手くいかない事が多いと気付く。夢が失われ、失敗・挫折が多くなる。

その時ふと立ち止まり、人生を振り返った際、思わず口ずさみたくなる曲ではなかろうか。

 

前述したが、私自身30年以上前から好きな曲を挙げろと言われれば、必ず『CLOUDY HEART』を挙げた。

それは今も昔も変わらない。

30年前から変わらないと言う事は、私自身が30年後の自分を予言していたのかもしれない。

 

自分が若かりし頃の10代から、自分の未来を予言していたのであれば、歌詞にもあるが、

「割にミジメネ」

なのかもしれない。

今回、思い出のバンド・曲を書き連れねていく中、そんな考えが頭を過った。

 

(文中敬称略)