豊臣家滅亡の戦い「大坂の陣」、遅れて来た悲劇の英雄「真田幸村」

今回は豊臣家滅亡の戦いとなった「大坂の陣」、戦国の世の最後を飾るに相応しい遅れて来た悲劇の英雄、「真田幸村」について述べたいと思います。

真田幸村の死をもって、戦国時代が終了したと言えるでしょう。

 

関ヶ原後の豊臣家

 

関ヶ原の合戦は別の機会に詳しく述べる為、今回は関ヶ原以後の話をしたい。

関ヶ原以後、徳川家康は西軍に加担した大名を厳しく処罰した。殆どの大名が改易・死罪となった。

稀に島津・毛利など何とか改易を免れた大名も存在した。

豊臣家も多分に漏れず、処罰の対象となる。豊臣家の畿内(摂津、河内、和泉)の約65万石を除き、蔵入地(直轄地)など全て没収された。

つまり豊臣家は他の大名と同じく、一大名の地位に転落した。

 

蔵入地には金山、銀山、堺、長崎などの重要地も含まれ、家康はそのまま自領に編入した。

徳川家は「天領」と呼ばれる自領を、400万石に加増。前述の重要都市、鉱山、港湾を接収。財力を強固なものとした。

関ヶ原の3年後、家康は朝廷から「征夷大将軍」の宣下を受け、江戸で幕府を開いた。名実ともに豊臣家から徳川家に政治の実権が移行した瞬間であった。

 

豊臣家はまだ家康が秀頼が成人の際、天下を返してくれるものと期待していたかもしれない。

しかし2年後、淡い期待は脆くも打ち砕かれる。

家康は将軍職をあっさり秀忠に譲り、自らは「大御所」として君臨した。紛れもなく家康は天下を豊臣家に渡す気などサラサラなく、徳川家が永続する意思を示した。

 

家康は関ヶ原以後、江戸周辺、東海道の要衝を親藩・譜代で固め、豊臣恩顧の大名は仮令関ヶ原で徳川家に加担した大名であっても、遠隔地に封じ込めた。福島正則、加藤清正、細川忠興、池田輝政等。

関ヶ原以前は家康を囲む様に、豊臣家の大名が取り囲むように配置されていたが、今度は逆に豊臣家を囲む為、徳川家の大名が配置された。

家康は真綿で首を絞めるよう、徐々に豊臣家の力を削いでいった。

 

関ヶ原後の真田家

 

真田家は父昌幸と信繁(幸村)は西軍、長男信幸は東軍に加担した。

昌幸・信繁親子は関ヶ原の際、徳川家本隊の約3万8千の兵を、僅か2千5百の兵で上田に釘付けにする。

秀忠本隊を遅延させた大功に係らず、西軍が戦に負けた為、処分される身となった。

 

東軍勝利後、昌幸、信繁(以下幸村)親子は改易。当初真田親子は家康から、切腹を申し渡される予定だった。

しかし長男信幸と信幸の岳父「本多忠勝」の必死の取り成しもあり、真田親子は紀伊国九度山に流罪の身となる。

信幸の正妻は、忠勝の息女「小松殿」

 

家康は上田城を徹底的に破壊した。二度も煮え湯を飲まされた城を、相当憎んでいたと思われる。

現存する上田城は、当時と全く異なったもの。

信幸は徳川家に恭順の意を示す証として、真田家に伝わる「幸」の名を捨て、「信之」と改める。

当時昌幸54才、幸村34才。

 

九度山に流された昌幸・幸村は、紀伊国若山城主「浅野幸長」の監視を受けた。昌幸・幸村の家族は、経済的にかなり苦しい生活を強いられた。

配流後、幸村は正妻(大谷吉継の息女)との間に「長男大助、次男大八、四女あぐり、六女阿菖蒲、七女おかね」と家族には恵まれたが、子沢山で生活は益々窮乏した。

昌幸・幸村親子に関しては、事項の豊臣家と徳川家の関係で述べる。

 

豊臣家と徳川家の関係

 

繰り返すが、徳川家は関ヶ原後、徐々に豊臣家に力を削いでいった。

家康は表向きは秀頼を敬う態度を取り続け、豊臣恩顧の大名、外様大名の感情を逆なでするのを避け、孫娘の千姫を秀頼の正室に嫁がせた。

 

1605(慶長10)年、秀忠将軍就任の際、徳川家は豊臣家に上洛を要請。

上洛後、秀忠将軍に対し、祝賀の儀を要請した。

要するに徳川家に対し、「臣下の礼を取れと」の意味を持つ。

 

嘗て家康の許に、秀吉が大政所・朝日姫を送り、上洛を促した事と同じであった。

しかし淀殿は突っぱねた。徳川家に臣下の礼を取るくらいなら自害すると。

淀殿としては、織田信長の姪で名門出身。幼少の頃から周りの大名は、常に自分に対し頭を下げて来た存在。

その状況を具に見て来ただけあり、今更他人に頭など下げる気など全くなかった。

秀忠将軍就任の際、豊臣家から祝賀の使者はなかった。

 

家康は隠居地として、駿府に移る。隠居処の城普請に着手した。

普請のお手伝いの名目で、各大名に城を普請させた。

勿論各大名は、人員・費用を負担しなければない。大出費だった。各大名の経済力を削ぐ意味もあったと思われる。

 

1607(慶長12)年7月、駿府城は完成した。しかし城は暮れの12月、失火で全焼する。

1608(慶長13)年3月、再び普請されるが、6月また失火する。

今回は全焼を免れ、一部だった。流石にこうも続けば、態とではないかと疑ってしまう。

豊臣方の謀略だった可能性もある。

1610(慶長15)年、徳川家は名古屋城の普請を各大名に命ずる。駿府と同様、各大名に人員・費用を負担させた。

 

1611(慶長16)年3月、後陽成天皇が後水尾天皇に、ご譲位なされた。

即位の式典に参加する為、家康は上洛した。その際、家康は秀頼に京に出仕を促した。

 

秀忠将軍就任の際、祝賀の使いも出さなかった大坂方。当然、今回も頑なに拒否した。

しかし加藤清正、浅野幸長、高台院(北の政所)、常高院(淀殿の妹)等の説得もあり、3月28日、二条城で家康との対面が実現した。

 

常高院
京極高次の妻、初。関ヶ原では西軍を途中で裏切り、高次は東軍に就いた。関ヶ原以後、若狭城主となっていたが、1609年死去。夫の死後、剃髪・出家する。

 

対面は終始、和やかに進む。対面は、約二時間ほどで終了する。対面中、加藤清正・浅野幸長が秀頼に常に寄り添い、警戒した。

対面後、家康は秀頼が意外にまともな事、立派な青年(秀頼は19才)に成長していたのを感じる。

その為反って秀頼を疎ましく思い、本気で豊臣家を潰す決心をしたと言われている。

不思議にも対面後、加藤清正は自領の肥後に帰国途中、病気で亡くなった。

浅野幸長も2年後の1613(慶長18)年、38才の若さで亡くなった。

駿府城の失火の怪が、今度は大坂方に来たようにも見える。何か胡散臭い。因みに池田輝政も1613年(慶長18)年1月、死去している。

 

九度山の真田親子は、豊臣家と徳川家との最後の決戦を予想。

虎視眈々と復帰の機会を狙っていたが、昌幸は1611(慶長16)年に危篤となり、死去する。

昌幸は死ぬ間際、近々起こりうるであろう戦いに備え、幸村に秘策を与えた。

しかし自分の死後、幸村では経験・知名度で劣り、大坂に入城してもあまり重用されないと予測する。

最後は幸村の行く末を憂い、なくなっている。結果から言えば、昌幸の予言通りとなった。

 

九度山では、相変わらず生活に窮乏した。幸村自身、配流時で34才。

働き盛りとも言える時機を、九度山で無為に過ごす。

仕官も敵わず、徒に時を過ごす様な生活。焦りもあっただろう。昌幸享年65才、既に幸村45才。

 

手紙で

「40代後半で病気がちになり、歯も抜け始め、髭も白くなった」

と書き記している。幸村はこの儘、野に埋もれてしまうかと思われた。

 

方広寺鐘銘事件

 

関ヶ原で、大坂方は負けた。しかし大坂城には希代の英雄「豊臣秀吉」が蓄えた金銀財宝が、まだ豊富だった。

家康は戦には勝った。だが未だに、豊臣家の財力は衰えていない。

そこで家康は豊臣家の財力を削ぐ為、戦乱で焼失した多くの寺社を再建してはどうかと、豊臣家に持ち掛けた。

 

豊臣家は家康の言葉に従った。理由は分からないが、徳川家との融和の意味もあろう。

最も大きな再建は、慶長の大地震で倒壊した大仏で有名な「方広寺」の再建。

大仏は再建されたが1602年、またもや失火で燃えた。此処までくれば、何方かの謀略としか思えない。

 

1614年(慶長19)年、寺は工事もほぼ完成。あとは再建された大仏開眼をまつばかりの直前、家康側から横槍が入った。

梵鐘の文字に問題があるとの理由で。問題の文字は

 

「国家安康四海施化万歳伝芳君臣豊楽」

 

鐘が完成した後、言いがかりとも思える文句をつけてきた。家康にあらぬ入れ知恵をしたのは、儒者で御用学者の林羅山

 

「国家安康」とは「家康公の名を無礼に用い、名の中を斬ると言う悪事」 とこじ付ける。

 

更に「君臣豊楽」は豊臣家の安泰を願うものと主張する。

 

豊臣家は慌てた。弁明の為、使者を遣わした。使者は片桐且元

片桐且元と言えば、嘗て賤ヶ岳の七本槍の一人だった、あの且元。且元は秀頼の守役として、大坂城に仕えていた。

 

且元は駿府に赴き、弁明を試みた。

しかし何故か家康は直に且元を会おうとせず、側近の本多正純・金地院崇伝に対応させ、且元を詰問した。

且元は家康側の対応で、凡そ1ヶ月近く駿府に留まった。

 

大坂方は且元の帰りを待つが、一向に戻らない。痺れを切らした大坂方は、新たに使者を遣わした。

大野治長の母「大蔵卿局」「饗庭局」である。

家康は大蔵卿局と饗庭局には、すぐに面会した。二人には大坂方には敵意はないと告げた。

要するに、且元と大蔵卿局・饗庭局の遣いに対し、全く異なる態度を示した。理由は、敵の疑心暗鬼の煽る為。

 

大坂方は、且元と大蔵卿局・饗庭局は全く違う家康の返答を報告した。

大坂方は大蔵卿局・饗庭局の報告を信じ、且元が徳川方に寝返ったと受け取った。

 

且元は立場をなくし、仕方なく大坂城を退去する。10月1日。

結果を先に述べるが、大坂の陣後、且元は家康から若干の加増を受ける。

しかし大坂城炎上後、僅か20日後になくなっている。且元の死も、何か疑問が湧く。

 

家康は大坂方の混乱に乗じ、且元が退去した当日、諸大名に号令。大坂方を攻める決意を固めた。

大坂方は徳川家の態度を見定め、もはや戦は避けられないと判断。戦う目的で、浪人を募った。

諸大名は家康の号令に従った。大坂方につく大名はもはや、誰一人としていなかった。

大坂方の求めに応じ、多くの浪人が集まって来た。関ヶ原で領土を失った者、大坂城の金銀目当ての者など。

 

浪人衆の中に、長曾我部盛親、後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永など嘗ての大名クラスも集まった。

交渉決裂と同時期、幸村が籠る九度山に大坂方から使者が来た。

幸村は大坂方の求めに応じ、大坂入城を決意。10月9日家族を伴い、浅野長晟の監視の目を掻い潜り、九度山を脱出した。

時代は間もなく、豊臣家・徳川家の最後の決戦を迎えようとしていた。

 

大坂冬の陣

 

大坂城では軍議が開かれた。軍議の席で幸村は、九度山にて昌幸から伝授された策を披露した。

 

策の内容は、京の入り口である瀬田・宇治で徳川軍を食い止め、真田・後藤隊が迎撃している間、大野・木村隊が京都所司代を攻撃。大和口から奈良を長曾我部・明石隊が攻撃。大津に砦を築けば徳川軍を防げるであろうと。

 

更に「東軍を防いでいる間、諸大名に激を飛ばせば、大坂方に味方する大名も現れよう」と説いた。

しかし大坂城では、幾多の派閥・意見が存在した。

 

①大野治長・木村重成・渡辺糺の一派。

②青木一重・速水守久の一派。

③真田幸村・長曾我部盛親・後藤又兵衛・明石全登の一派。

①は籠城、②は策なしの日和見、③は決戦に分かれていた。

 

此れを見る限り、大坂城では全軍を纏める総大将的存在が不在と言えた。

徒に派閥争いを繰り返すのみで、殆ど実践経験のない人間が、実権を握る状態だった。

幸村を始めとする浪人衆は、積極策を主張するが採用されず、結局籠城と決まった。

 

大坂城の人間は、自分達が招集した浪人衆でありながら全く信用せず、只無駄に時間を費やすのみだった。

何の為に浪人を集めたのか、まるで分からない。

秀吉の死後、豊臣家は全く機能していなかった。何か関ヶ原と同様、戦う前から負けていたに等しい。

 

豊臣家には秀吉の様なカリスマ的指導者がいない、烏合の衆の集まりだった。幸村は関ヶ原とは状況が異なり、籠城戦は援軍があって成り立つ策であり、今の状況では、全く期待できない。積極的に撃って出るべきだと主張した。

しかし幸村の策は、却下される。昌幸の予言は的中した。

幸村では所詮、自分(昌幸)に比べ、知名度・経験が無い為、却下されるであろうと。

 

西軍がそうこうする中、家康は京に入り、11月12日には大坂城を包囲した。

包囲されたことで、幸村の策は全て水泡に帰す。幸村にすれば、みすみす大坂方が勝てる機会を逃したと思っただろう。

 

仕方なく幸村は徳川軍を迎え撃つ為、大坂城の城外の南側に出城を築いた。「真田丸」である。

大坂城の南側の防備が甘いと睨んだ昌幸が、幸村に教えたとも言われる。幸村は出城を作り徳川軍を迎え撃った。

大坂方から浪人と言う事、信之が徳川方に就いている事で、裏切りも疑われたのであろう。

幸村自身、大坂方の指導者の煩わしさから抜ける為、疑いを晴らす意味もあり、最前線とも言える場所に自らを投じたと言える。

 

一方家康は駿府を立ち10月23日、ゆうゆうと京の二条城に入った。各大名は大坂城を包囲した。

各大名が大坂城を包囲したのを見計らい、家康は11月15日、二条城を出立した。

大坂冬の陣の戦いは、11月19日から始まり、凡そ一ヶ月近く行われた。

包囲した中には、嘗て関ヶ原で西軍に与した「上杉景勝、毛利輝元、佐竹義宣」もいた。

福島正則、真田信之は裏切りを恐れ、参陣していない。徳川方が悠然と大坂城を包囲した。

 

両軍対峙する中、幸村は真田丸の手前にある篠山に鉄砲隊を配備、最前線の前田利常隊に鉄砲を撃ちかけた。挑発である。

鉄砲隊の攻撃に業を煮やした前田隊は、とうとう幸村の挑発に乗ってしまった。

戦とは不思議なのもで、他の隊が動けば、他の隊も「遅れてはならじ」と動きだす。

12月4日、前田隊が動いたのをきっかけに井伊直孝、松平忠直隊、藤堂高虎隊も動きだした。

大軍が一挙に真田丸に押し寄せて来た。幸村は大軍が押し寄せたのを見計らい、一斉に鉄砲を撃ちかけた。

敵が怯んだ隙に、砦から幸村の長男大助が出撃。混乱・撤退する敵兵を討ち破った。

 

偶発的に起きた戦闘だったが、大損害を受けた家康軍は力攻めでは不利と判断。

今度は大坂方を大砲で脅しに掛かった。大坂城の城内に撃ち込んだ。脅しと神経戦で講和に持ち込もうという算段である。

大坂方は脅しに屈し、浪人衆たちが反対するのも聞かず、勝手に家康と講和を進めてしまった。

 

何となく不思議な光景。浪人衆の活躍で戦闘を有利に進めながら、相手の脅しに屈し、何もしない城方の人間が浪人衆の意見も聞かず、勝手に講和の話を進める。

全く浪人衆としては、たまったものではない。何の為に戦っているのか、まるで分からない。

この時点で既に、「豊臣家の命運」が決したと言える。

何故か講和の条件に、家康側に有利となる条件が付いていた。

総構の壊平及び、二の丸、三の丸の濠を埋める事。浪人衆の反対も聞かず、12月18日、講和は成立する。

 

講和成立後、家康は工事の計画を進め、12月23日に開始。瞬く間に総構は破壊、外濠を埋めた。

徳川方は外濠を埋めた勢いで、内濠まで埋めてしまった。内濠まで埋められ、大坂城は完全に丸裸同然となった。

こうなれば後は家康がどの様に大坂方を処理するか、時間の問題だった。

大坂方は此処に来て、漸く家康の謀略と悟るが、時既に遅しだった。

 

家康は一旦、兵を退いた。冬の行軍で各隊が疲れていたせいもあろう。大坂方の反応を伺っていたのかもしれない。とにかく全軍退却させた。

そのまま二条城に留まり、正月を越した。駿府に戻ったのは2月。

大坂方は家康の策略に漸く気付くが、時既に遅し。年が明け、大坂方は再挙に備え、城壁、濠の修理を始めた。

 

大坂方は再び浪人を集め始めた。しかし大坂方は再戦が近い段階となってもまだ、主戦派・和平派に分かれ内紛していた。

幸村は先の戦で功を挙げたにも係らず、反って他の諸将から恨み、妬まれた。

名を挙げた事で秀頼からの信頼を受けたが、他の者が妬んだ。

その為、しばし幸村ぬきで軍議が開かれ、のけ者になった。既に大坂方は崩壊していたと言えよう。

 

皆さんも心あたりがあるかと思う。自分の所属している組織が自分の知らない間に事を決め、進めている事が。事後承諾と言う形で、事が進んでいる状態。

組織は末期的症状で、大坂城では和平派の大野治長。主戦派の大野治房の兄弟が内紛していた。

内紛は激化、大坂城内で大野治長が暗殺される事件が起こった。

大坂城は主なき城となし、壊滅は時間の問題だった。

 

大坂方は3月頃、浪人を始めた。家康は大坂方に最後通牒として、浪人を召し放つか、淀殿・秀頼親子を大坂城から退去。大和郡山に移るかの選択を迫った。

当然、大坂方は拒否した。

家康は3月末、再び諸国大名に出陣の命令を下し、家康自ら4月4日、駿府を出立した。

4月10日、名古屋城に入った。城主義直の婚儀を見届けた後の4月18日、二条城に入った。

 

大坂夏の陣

 

二条城に入った家康は4月28日、伏見城で秀忠と軍議を開いた。

24日には大坂方から来た使者、「常高院」「二位局」に書状を与え、大坂城に返した。再度の最後通牒である。

豊臣方は拒否、戦闘となった。大坂夏の陣である。

 

今度は大坂方も籠城策はとれず、撃って出た。小競り合いはあったが、本格的な戦は5月5日から始まった。

5月5日、道明寺あたりで後藤又兵衛が出撃、決戦に挑む事になる。

奈良方面から進軍する徳川軍を隘路を利用し、出口で叩こうとする作戦。

しかし既に作戦は、徳川軍に読まれて失敗する。

徒に時間を浪費した結果、情報が洩れ、相手方に知れる処となった。

後藤軍と毛利勝永隊・真田幸村隊が藤井寺で合流。

道明寺に向かう予定だったが、霧に阻まれ合流が遅れ、後藤隊が先に攻撃を始めてしまった。

 

翌5月6日。後藤隊は奮闘するが衆寡敵せず、戦死する。続く渡辺糺隊も壊滅。

ここで漸く真田隊が到着。敵を後退させる。

しかし木村重成の戦死。八尾・若江方面の西軍の惨敗の報を聞き、やむなく撤退した。

 

運命の5月7日。西軍諸将は軍議の結果、東軍を出来るだけ引き付け、家康・秀忠本陣に一丸となり突撃する事、戦機が来るまで決して抜け駆けしない事を決定した。

目標はただ家康・秀忠本陣のみ。

 

更に幸村は、大坂城から秀頼の前線の出馬を依頼した。

秀頼が出馬する事で、兵の士気を鼓舞。更に敵の東軍は、士気も萎えるであろうと期待した。

東軍は70才を超えた家康が出馬。一方、秀頼は一度も前線に出てこない。秀頼の出馬で、西軍の兵も士気が上がろうとの目論見。

幸村は秀頼の出陣を希う為、長男大助を大坂城に遣わした。父幸村に、「秀頼君に出馬を促し、運命を共にせよ」との命を受け。

 

期待むなしく、秀頼は最後迄、戦場に姿を見せる事はなかった。

真田本隊は、家康・秀忠本隊が本陣を押し出してくるのを待った。

西軍の諸将は東軍が押し寄せるのを堪えきれず、戦塵の緒を開いてしまった。幸村の目論見は、悉く失敗した。

 

幸村は全ての目論見が外れ、「ここが死に場」と自覚。家康本陣に突撃した。

赤備えの真田隊は、決死の覚悟で突撃した。

真田の家紋「六文銭」は、三途の河を渡る時の駄賃。いつでも死ぬる覚悟の現れ。

ここぞとばかり真田幸村は突撃を繰り返した。

真田隊の三度に渡る突撃は、戦国の世の最後を飾る名シーンとなる。

 

幸村が家康本陣に迫り、一時家康本陣は大混乱に陥った。

家康本陣を守るべき旗本は大混乱。馬印・本陣を示す旗は倒され、家康は一時切腹まで考えたと伝えられている。

秀忠本陣を蹴散らされ、秀忠は遁走しようとした。

 

しかし真田の兵も次第に少なくなり、東軍が勢いを盛り返し、形勢が逆転した。

幸村は何度も突撃を繰り返したが、遂に力尽きた。

 

近くの安居天神の境内で休息していたが、東軍の落ち武者狩りにあい、越前軍の鉄砲衆「西尾仁左衛門」に討ち取られ、49才の生涯を閉じる。

誠にあっけない最後であった。

 

幸村の悲劇

 

幸村の悲劇は、大坂方に乞われ、九度山を脱出。大坂入城したにも係らず、大坂方の指導者、味方の将の間で最後迄、信頼されなかった事であろう。

奇しくも4年前亡くなった、昌幸の予言通りとなる。幸村は昌幸に比べ知名度・経験で劣っていた。その為、決して大坂方に重用される事はなかった。

 

大坂城には、総大将たる人物がいなかった。幸村が戦場で武勲を立てども、他の諸将にとり、妬みと憎しみの対象でしかならなかった。

諸将はそれぞれ自らの武名、功の為にしか働かず、協力性がまるでなかった。まとめる人間がおらず所詮、烏合の衆に過ぎなかった。

 

既に滅亡が迫りながら、大坂方は最後迄、秀頼の出馬を拒んだ。

駆り出された兵、浪人衆は誰の為に戦っているのか、分からない。士気が衰えるのも、当然。

秀頼の出馬を、淀殿・大野治長は最後まで拒んだ。

 

一方幸村の戦いぶりは味方関係なく共感を引き起こし、東軍の将「細川忠興」「真田日本一之兵」と称賛した。

それは味方にも信頼されず、悲憤の中に朽ち果てた名将の、せめてもの手向けかもしれない。

 

幸村の死後、幸村は江戸時代に反徳川の象徴として庶民に愛され、数多くの逸話が誕生した。

徳川治世おけるささやかな上方の反抗とも言える。

 

戯曲、読み物、太夫などに受け継がれ、現在に至っても小説、映画、TV、漫画、テレビゲーム等に影響を与え、脈々と受け継がれている。

それだけ日本人の心の中で愛されたと云える。

 

私利私欲の戦国の世でありながら、負けるとわかっていても果敢に立ち向かい、一石を投じた幸村の姿に、何か日本人の琴線に触れると思われる。

幸村の伝説は、今後も日本人の間で生き続けるであろう。

最後に豊臣家の末路を述べておきたい。

 

大坂城炎上、豊臣家の末路

 

幸村の願い虚しく、出馬しなかった秀頼は大坂城で、戦況不利の報を聞いた。撃って出た各隊は壊滅。

徳川勢が大坂城内に攻め入った。

やがて大坂城の本丸の台所から出火。台所頭「大角与右衛門」の裏切りが発生。

秀吉が心血を注いだ、天下の名城は炎上した。

炎上の最中、大野治長の意を受け、徳川家から嫁いできた千姫は淀殿・秀頼親子の助命嘆願の使命を受け、家康本陣まで脱出した。

 

千姫
徳川秀忠の息女、家康の孫にあたる。秀頼の正室

 

千姫は奇跡的に家康本陣に辿り着いた。千姫は必死に秀頼親子の助命嘆願をした。

しかし家康の返事は、「ならぬ」。だった。既に遅すぎた助命と言えよう。

思えば今まで、何度も豊臣家存続の機会はあった。しかし悉く大坂方が、撥ねつけてきた。遅きに期したと云える。

 

秀頼親子・近習・側近は城内の山里廓の糒庫(兵糧を蓄えて置く倉庫)に身を潜め、千姫の吉報を待った。

やがて井伊直孝・安藤重信の軍が取り囲み、鉄砲を撃ちかけた。

「潔く自害せよ」との意味、せめてもの武士の情け。

「もはや、これまで」と悟った秀頼親子・近習・側近は自害した。秀頼23才、淀殿49才だった。

 

秀頼親子に殉死した中に、幸村の長子大助がいた。大助は父の命で、泣く泣く戦場離脱。秀頼の出馬を願い出たが、叶わなかった。

まさにムダ死にと言える。佞臣とも言える大野治長も一緒に果てた。

最後に自害、豊臣家滅亡を招いたのであれば、何故もっと早く適切な処置をとらなかったか、悔やまれてならない。

最後迄、選択を誤った最悪の結果と言える。

 

尚、主をなくした大坂城は炎上。天下の名城と言われた大坂城は、豊臣家滅亡と供に灰燼と化した。

城中にいた女中は約1万人と言われたが、城炎上後、悲惨な運命を辿った。

落城の様子を描いた屏風絵が残されている。戦に参加した黒田長政が書かせたもので、悲惨な様子が描かれている。

 

豊臣家滅亡にて、徳川家の治世は益々盤石なものとなった。

これで安心したか分からないが、翌年1616(元和2)年、天下の英雄「徳川家康」は波乱に満ちた75才の人生を見事に使い切り、生涯を終えた。

まさに戦国の世に幕を降ろす為、生まれてきた人物と言える。

 

豊臣家の滅亡は、現代でも滅びゆく組織に通ずるものがある。末期的症状にも係らず、組織には自覚はない

仮令あっても、誰も指摘・改善等せず、見て見ぬ振りをする。事態は益々悪化。

もうどうにもならない処迄きて、初めて慌てふためき、事態の収拾に乗り出す。

しかし既に手遅れ。何か現在の政治・社会情勢にも似ている。何時の時代も滅ぶ行く時は、同じ状態かもしれない。

豊臣家を滅ぼした徳川家も、約260年以上の時を経、全く同じ状態で滅亡するのが、何か歴史の皮肉と言えよう。

(文中敬称略)

 

・参考文献一覧

【逆説の日本史12 近世暁光編】井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2008年6月発行)

 

【真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る】平山優

(PHP研究所・PHP新書 2011年11月発行)