私にとり、人生で一番大切なもの。それは・・・
いきなり重苦しいタイトルとなったが、幼少期から何気に感じていたが、自分にとり、一番大切なモノを述べたい。
目次
自分にとり、一番大切なもの。
いきなり結論を述べるが、
「あなたにとり、人生で一番大切なモノは何ですか」と、人に聞かれたならば私は何時も迷わず、こう答える。
それは
それも 「他人や、他の環境に左右されず、自分が自由に使える時間」
と躊躇なく答える。
皆が知る漫画、「ドラえもん」。
ドラえもんのアイテムの中で、一番大切なモノは何か、考えた事があるだろうか?
子供の頃、欲しいアイテムを思いつくままに考えた。タケコプター、どこでもドア、悪魔のパスポート、もしも電話、独裁スイッチ等々。
色々あるが、最も重要な事実を皆さんは考えた事がありますでしょうか?
様々なアイテムが存在するが、全てはドラえもんが未来から現代に来なければ、存在しなかったアイテム。
一番大切なもの、それは 「タイムマシン」。
タイムマシンがなければ、全て存在しなかった。タイムマシンがなければ、ドラえもんの存在すらなかった。
タイムマシンの存在こそ、人が時と空間を支配した証拠と云えるのではないだろうか。
タイムマシンは、人が「時と空間」を支配した証。
残念ながら、現在人類はまだその領域にいない。未来も存在していないと確信する。
何故断言できるのかと云えば、もし未来でタイムマシンがあれば、現代で未来人が確認できる為。
タイムマシンが完成していれば、現在社会で、何かその兆候が見られる筈。
しかし今現在、そのような兆候は見られない。気づいていないだけかもしれないが。
後の伏線ともなるが、ドラえもんが何故、タイムマシンに乗って現代に来たのか?
それは「ご先祖様である、のび太の歴史を変える」為。
具体的には、のび太の結婚相手を変える為。
のび太の子孫が、ご先祖様の歴史を変える為、ドラえもんを派遣した。
その話は次にも派生する為、今は此処迄にしたい。
久しぶりに視た、懐かしい映画
先日、期間限定だが、公式で或る映画が公開されていた。その映画の名は、「時をかける少女」。
作品は何度もリメイクされていて、幅広い年齢で知られているかもしれない。この映画が先日、期間限定で公開されていた。
公開された作品は、初代のモノ。正直に云えば、私が作品を視たのは、一桁の年齢だった。
その頃作品を視たが、当然、映画の内容を理解できなかった。
軈て何時しか、作品の存在を忘れていた。
たまたま無料でユーチューブで配信されていた為、視聴した。
映画「ディア・ハンター」の時も述べたが、一度挫折した映画の為、気乗りしなかったが、何か衝動に駆られ視聴した。
あまり気乗りしない視聴だったが、作品が進むに連れ作品にのみ込まれていく、自分を悟った。
以前も述べたが、映画の良い点は、その時は分からなかったが、後になり視直せば、改めてその作品の良さが分かると云う事。
つまり、この作品も歳を取り視直した後、漸く映画の良さが理解できた。
結論を先に述べれば、初めて視た時は年齢が一桁だった為、死というものが認識できなかった。
命は永遠に続くと錯覚していた。その為、作品の要点とテーマが理解できなかった。
しかし人間生きていれば、必ず歳を取る。歳を取る事で、この映画の要点・テーマが、漸く理解できた。
そう人間にとり一番重要なものは、 「時間」 。
それを幼少の頃、潜在的に自覚させた映画だった。
人は生れて、時間を支配する事はできない。
時間は人類が取り組んできた最大の課題であり、そして今も尚、超える事のできない永遠の課題。
その証拠に、どんな人間も生きて行けば、必ず歳を取る。歳を取る事は、どんな人間も抗う事はできない。
そんな美貌、財産、功績を手にしても、未来永劫それを手にする事はできない。
その事を今回の映画は、私にまざまざと教えてくれた。
現実には不可能だが、
「もし50才を過ぎ、500億円と今現在の知識と経験で、自分の20歳の頃に戻れるならば、一体あなたは、何方を選ぶか」
私は迷わず、今の知識と経験を有し、20歳の頃の自分に戻る事を選択する。お金など、要らない。
20歳の頃の自分に戻れるならば、お金など要らない。それが時間は金で買えない証拠だと私は思う。
時間さえあれば、お金などいつでも買えるという感覚。それが人間、年をとったと言われる所以だろうか。
作品の概略を述べれば、何の疑問もなく過ごしていた少女が或る日、不思議な出来事に遭遇。
その出来事を境として、現在と過去を行き来する様になったと云う話。
その体験を通じ、少女は恋を体験。恋に因って、それまで歩んできた人生と未来を変えてしまった。
勿論、本人はその事に気づいていないが、結果としてそうなってしまった。
作品で登場した青年(深町)が未来からやってきた。
現代少女(原田知世さん)と交友した結果、互に恋心が芽生えた。
その為、少女は本来は結婚する筈だった青年とは結ばれず、物語は終焉を迎える。
これも前述したドラえもんと同様、未来人が現代人と関わった為、起きた現象。僅かだが、歴史に狂いが生じた。
ドラえもんは結果として、ジャイアンの妹「ジャイ子」と結婚せず、同級生のマドンナ「源静香」と結婚する。
一方、映画のヒロインは、結婚する予定だった幼馴染の醤油屋の息子(堀川青年)と結ばれず、薬学部の研究室に残り、未婚の生活を続ける。
何方も未来人が関わった為、将来の結婚が変わってしまった。此れは何かの偶然だろうか?
やはり未来人は、現代人に拘わらない方が良いのかもしれない。ドラえもんの場合、良い方に傾いたが。
参考までにドラえもんの最後は、或る日突然、ドラえもんが動かなくなる。
ドラえもんを助けようとのび太は必死になり、知識を得る為、猛勉強を始める。
理由は、のび太は勉強して知識を身に付け、自分の手でドラえもんを直したいと思った為。
猛勉強するのび太は、何時しか同級生の出木杉君と静香ちゃんを超えた存在となる。
それでもまだ足りないとのび太は必死に勉強を続け、何時しかロボット工学の第一人者にまで上り詰めた。
長い年月が経った。
或る日、のび太は動かなくなっていたドラえもんの修理に成功した。
のび太の手で動けるようになったドラえもんが、発した言葉は
「のび太君、宿題は」
だった。
長い間、眠っていたドラえもんは、どれ程の月日が経っていたのか、分からなかった。
その為、発した言葉が、「のび太君、宿題は」だった。
まさに深みがあり、且つ長い年月を想像させるに充分な言葉だった。
やはり人間は「時間」と「空間」を支配するのは至難の業。此れからも永遠の課題。
前述した『時をかける少女』も其の後、何度かリメイクをされたが、未だ初代を超えるものは存在していない。
初代にして、一番ベストな作品。
主演の原田知世は、初主演で演技に拙さと初々しいさを醸し出し乍、最後まで主役を演じきった。
ラストのカーテンコールは映画の様々なワンシーンを散りばめ、主題歌を歌う原田知世が描かれていた。
当時はデビューしたばかりで演技もまだ未熟、歌唱力もまだまだだが、この作品はなかなか秀逸と思う。
原田知世の魅力が、そのまま映し出されていた。
長い年月が経ち、作品を見直した時、素晴らしいものに思われた。
理由はやはり、自分が歳を取ったから。歳を取った為、反って原田知世の若さと初々しさが、新鮮に感じた。
『時をかける少女』は文句のつけようがない作品だが、ただ一つ私が違和感を抱いたのは、
深町青年が発した、
と云うフレーズ。
その斬新な台詞に一時期、成程と思った事はあるが、やはり時は 「過ぎてゆくもの」 だと思う。
何故なら、私達は今現在を生きている。時間は自分に関係なく、訥々と過ぎていく。
人は生れ、幼少期から少年に成長。少年から青年。軈て大人となり、次第に歳を取る。
その時、やはり時間は過ぎていくものと痛感する。
時間はやって来るものと云えるのは、深町青年は未来からやって来た為。
未来からやってきたと云う事は、深町君の未来では人は時間を支配する事ができたと云う事。
時間を支配したと云う事は、永遠の命を手に入れたと云う事を意味する。
未来から現代にやってきた人は、時間はやって来るものと想う。
つまり、未来人と現代人の認識の違い。
未来人は時間を支配できたが、いま生きている私達は、時間を支配していない。
だからこそ、現代人は自分の未来を変える為、過去に行けない。
それは先程述べた通り、「タイムマシン」がない為。
タイムマシンがあれば、自分の未来を変える為、人生の分岐点となった自らの過去に行き、将来を変える事ができる。
と理解できる。
此れがクリアできれば、人は不老不死となる。
過去の偉大な歴史上の人物が最後に求めたのは、やはり「不老不死」。
自らが永遠の命と、此の歳になり理解できた。
此れも以前ブログで述べたが、銀河鉄道999のアニメの趣旨は、
だった。全く、それと同じ事が言える。
譬え機械の体を手に入れても、其の後は永遠に続く、退屈な時間を過ごす羽目となるという結論。
つまり人間が時間を支配できない限り、いま生きている時間が一番大切で、その時その時を悔いなく生きるのが重要。
だからこそ繰り返すが、私が人間にとり一番大切なものは、 「時間だ」 と主張する所以。
今回、懐かしい映画を視て軽い気持ちで書いたが、何か最後は重苦しい内容で終えてしまったかもしれない。
皆様はどう思われたかもしれませんが、何か人生の半分以上を過ぎた私にとり、人生を振り返る意味で、貴重な映画となった。
(文中敬称略)
番外
追加で時をかける少女の歌を聞いた後、私が感じた事を述べたい。
前述したが、私が最初に此の映画を視たのは、ほぼ40年前だった。
その為、主題歌の「時をかける少女」は、うる覚えだった。
この度、映画を視聴して、初めて主題歌の2番目を聴いた。
大概昔は1番目を聴き、2番目は殆ど聴かないか、聴いても覚えていなかった。
2番目を聴いた時、何故か聴き取れなかった部分があった。
著作権の関係上、一部を紹介するが、聴き取れなかったのは
「涙 枕を濡らすの」
の箇所だった。
何故聴き取れなかったのか?
それは「枕」という言葉が聴き取れなかった為。
歌は時間と供に変り又、受け取り方も人により様々だが、
私の感性では「枕」と云う事が聴き取れなかった。
幼い私であれば「枕」と聴きとれたかもしれないが、大人になり歳を取った今は「枕」と云う言葉が、何かぴんとこなかった。
暫く考えた末、漸く自分なりの答えが見つかった。
「枕」と云う言葉よりも、「頬」と云う言葉が良かったのではないかと。
作詞した際は、「枕」と云う言葉が当て嵌まったかもしれないが、歌詞に曲を載せ、歌った時、何か違和感が生じた。
因って私は「頬」と云う言葉が頭に浮かんだ。
あくまでも、個人的意見だが。
かなり昔になるが、有名な演歌歌手が歌に対し、ほんの僅かなアレンジを加えただけで、作詞した本人から、作品を改竄され、不快だという騒動があった。
私もそう思う。
歌であれ絵画であれ、作詞・作曲した人間に取り、その作品は自分の芸術品との認識が強い。
喩え有名な歌い手であれ、作詞・作曲家に許可なく改竄されれば、不快に思うのは当然。
今回も、作り手としては、当時のベストの思いで作品を創作したと思う。
しかし時が経つにつれ、何か違和感を感じるのは当然なのかもしれない。
敢えて文法的な解釈をするが、
もし涙と云う言葉の後に、「で」という助詞を加えたならば、「頬」という言葉が的確かもしれない。
一方、涙の後に「が」と云う助詞を加えたなら、「枕」と云う文字が的確だったかもしれない。
理由は「で」により、涙は「手段、目的」を表す言葉になる為。
英語で分かり易く喩えるならば「with」という言葉が当て嵌る。
しかし「が」になれば、涙は「主語」になる。
日本語は曖昧な言語と云われるが、まさにその通りだと思う。
その時の状況で、何とでも取れる。
英語は、主語と述語が明確。人でなくて、モノでも主語になれる。
人により解釈は様々だが、歌一つを取っても、其々の解釈があるものだと実感した。
皆様は、どう思われたでしょうか?