失踪した人妻 夫には完璧なアリバイが 松本清張『火と汐』
★松本清張 短編小説シリーズ
・題名 『火と汐』
・双葉社 双葉文庫
・2016年 12月発行 松本清張ジャンル別作品集『社会派ミステリー』内
・発表 『オール読物』 昭和42年 11月
目次
登場人物
◆曽根晋吉
劇作家、33歳で独身。大学時代の友人、芝村の妻美弥子と不倫関係にある。
夫芝村が外洋のヨットレースに参加中、美弥子と京都の大文字焼きを見る為、京都に投宿する。
投宿した2日目の夜、大文字焼きの最中に不倫相手の美弥子が突然、失踪する。
一人東京に帰り、美弥子からの連絡を待つが、何の音沙汰もなし。
その後、失踪した美弥子が晋吉の自宅近くで遺体となり発見される。
晋吉は、容疑者として留置される。
◆芝村美弥子
曽根晋吉の不倫相手。夫は曽根の大学時代の友人。
夫が外洋ヨット・レースに参加中、同窓会に参加すると偽り、曽根と供に京都に不倫旅行にでかける。
大文字焼きが最高潮の時、曽根の前から忽然と姿を消す。
姿を消した後、美弥子は曽根の自宅近くで死体で発見される。
◆芝村
大学時代の曽根の友人。妻美弥子は、曽根と不倫関係。
芝村はその事を知ってか、知らずか曖昧な態度をとる。
或る日、芝村は所属するヨット・ハーバーの外洋レースに参加する。
レース参加中、海難事故に遭遇。同乗していた仲間を失う。
自らの海難事故に続き、妻美弥子が変死体で発見される。
◆上田伍郎
芝村と同じヨットに乗り込み、海難事故に遭遇。死亡する。
◆神代刑事
美弥子殺しの事件を担当。警視庁、捜査一課の刑事。
捜査本部は容疑者として、美弥子の不倫相手曽根晋吉を留置する。
しかし、神代は納得しない。
寧ろ被害者の夫芝村を怪しいと睨み、東刑事と供に芝村のアリバイを調査する。
◆東刑事
神代と同じく、警視庁捜査一課に所属する刑事。神代と一緒に、美弥子殺害事件を捜査する。
神代同様、夫の芝村が怪しいと睨み、神代と供に芝村のアリバイを洗い始める。
あらすじ
不倫旅行中、不倫相手の人妻美弥子が、忽然と京都のホテルから姿を消した。
美弥子と同伴したのは、美弥子の夫芝村の大学時代の友人、劇作家の曽根晋吉だった。
晋吉は美弥子がいなくなったホテルで眠れない一夜を過ごし、一人で帰京する。
帰京後も美弥子からは、何の音沙汰もなかった。
一方、美弥子の夫芝村は妻の美弥子が不倫旅行中、ヨットの外洋レースに参加。
処が、芝村の乗るヨットはレース中、海難事故に遭遇した。
事故で、同乗の上田伍郎が亡くなった。事故の模様は、新聞に大きく掲載された。
美弥子は京都のホテルで失踪。夫は海難事故に遭遇。おまけに芝村は、疲労困憊で入院した。
後日、失踪した美弥子の絞殺死体が、不倫相手曽根晋吉の自宅近くで発見された。
捜査本部は、不倫相手の晋吉を容疑者として留置する。
晋吉は留置されるが、殺人を否定。捜査本部も決定的な証拠はなく、事件は難航した。
事件が難航する中、捜査本部の二人の刑事は、被害者の夫芝村のアリバイに注目した。
しかし芝村のアリバイは、完璧すぎるほど整っていた。
二人の刑事は、殺人動機が留置されている晋吉よりも夫芝村の線が濃いと睨み、芝村のアリバイを調べ始める。
二人の刑事が一つ一つ芝村のアリバイを掘り起こすに連れ、完璧と思われていた芝村のアリバイに、僅かな綻びが生じた。
さて、事件の行く末は。
要点
結論を先に述べれば、妻の美弥子は不倫旅行中、忽然と消えた。
後日、美弥子は死体となり発見された。第一容疑者の夫は、完璧なアリバイがあった。
夫は妻が不倫旅行中、外洋のヨットレースに参加。妻が失踪時には、海の真っ只中にいた。
更に夫のヨットは、海難事故に遭遇。同乗していた上田伍郎が、事故で亡くなった。
事故の模様は、新聞にデカデカと報道された。
芝村は事故後、這う這うの体で、ハーバーに到着。
事故現場の様子を告げ、そのまま疲労困憊の為、病院に担ぎ込まれた。
まさに、完璧なアリバイだった。
その完璧なアリバイを、事件を担当した二人の刑事が、色々な状況の仮説を立てた。
縺れた糸の一つ一つを解きほぐすかのように、地道に捜査を重ねる。
やがて全ての糸が解きほぐされた時、事件の概要が明らかとなり、殺害された美弥子の夫芝村のアリバイが崩された。
捜査が進行するに連れ、芝村のアリバイが崩されていく過程が面白い。
美弥子が何故、ホテルから忽然と姿を消したのか。
それは、
美弥子は暗闇の中から現れた夫に対し、全く無抵抗だった。
それは夫に対し不貞行為を働き、嘘をつき京都のホテルに不倫相手と宿泊していた為。
美弥子はだた夫のいいなりで、そのまま東京に帰った。
東京に帰り、夫に殺害され、不倫相手に嫌疑がかかるように態と曽根晋吉の自宅近くに埋められた。
芝村は、妻美弥子の不貞行為に気づかない振りをして、実は美弥子の不貞行為に気づいていた。
その為、芝村は美弥子が不倫相手と一緒に泊まるホテルの電話番号が書かれたメモを盗み読みした。
夫が暗闇から突如現れた瞬間、美弥子は恐らく心臓が止まるような思いだった。
何も声が発せなかったとのではなかろうか。その為、曽根に何も告げる事が出来ず、ホテルから黙って姿を消した。
暗闇の中、芝村は美弥子の前にいた曽根の存在に気付いたかどうかは分からない。
しかし芝村は美弥子殺害後、不倫相手の自宅近くに死体を埋めた為、凡そ不倫相手が曽根晋吉である事に気づいていた。
何も気づかないふりをして、実は芝村は曽根に対し、嫉妬。
妻美弥子に対し、憎悪の念を燃やしていた。それが今回の殺人動機に繋がった。
芝村のアリバイ工作の為に利用され死亡した上田伍郎は、芝村の巧みな陰謀で、単なる海難事故として処理された。
芝村のアリバイは完璧と思われた。
しかし芝村のアリバイはあまりにも完璧すぎるが故、反って怪しまれる結果となった。
更に僅かな目撃者の証言により、芝村のアリバイは綻んだ。
芝原のアリバイが完全に崩れたのは、芝村が偽装工作をする為に用いた、小道具の「包帯と釣り竿」。
追記
芝村が海難事故を装い、同乗した上田伍郎を殺害した手法は、作中では「ワイルド・ジャイブ」と書かれている。
ワイルド・ジャイブとはヨットが追い風を受けて走っている時、突然逆方向から風を受け、ヨットの帆が反対側に跳ね返った時、起きる現象。
マストが急に跳ね帰り、マストが人を襲い、そのまま人が海に投げ出される現象が暫し起こる。
今回の上田伍郎は、此の現象で頭をマストに強打され、海に投げ出されて死亡した。
芝村は美弥子殺害後、おそらく初めから上田を始末する心算だった。
因って過失ではなく、芝村の殺人行為と云える。
清張の作品で偶に見受けられるのが、最初に登場した人物が、実は主役ではない場合がある。
「主役の交代」とでもいうのだろうか。
初めに登場した曽根晋吉は、主役でない。
不倫相手の美弥子が殺害された後、容疑者として拘留され、以後登場しない。
美弥子の夫芝村が主役かと言えば、そうでもない。
今回の主役はやはり、芝村のアリバイを調査する、二人の刑事ではなかろうか。
二人の刑事は捜査会議の場で、「アリバイが完璧な被害者の夫、芝村が怪しい」と発言する。
当然二人は、周囲から笑い者となった。
しかし二人の刑事は決して嘲笑に怯む事なく、地道に調査を実行。
芝村のアリバイを崩し、着実に芝村を追い詰めていく。
懸命な努力が実り、やがて事件解決へと結びついた。
今回の主役はやはり、完璧と思われた芝村のアリバイを崩した、二人の刑事。
清張作品のタイトルを見ると、なかなか清張の粋な思いが込められているのに気づく。
今回の作品のタイトルは『火と汐』。
「火」は勿論、美弥子の不倫相手と一緒に見た、京都の「大文字焼き」の事。
一方「汐」とは、芝村がアリバイ作りの為、参加した「ヨット(レース)、或いは海」の事。
妻は「火」を見て楽しむ。夫は「海」を見て楽しむ。
何か因果を思わせるタイトルだった。
(文中敬称略)