甘く切ない、ペンフレンドとの恋の行方は 『大きな玉ねぎの下で』

★忘れられない思い出の曲

 

日本がバブル経済の真っ只中の1980年代後半、一人の田舎の高校生が大学受験に失敗しました。

失敗した田舎の高校生は第2次ベビーブームの真っ只中に生まれ、同世代が多く、実力不足も重なり、無残にも現役時の進学に失敗。

浪人生活を余儀なくされました。浪人生活の末、漸く東京の大学に合格しました。

 

晴れて大学生の仲間入りを果たし、大学進学の為、上京。新生活を迎え、期待と不安が胸に去来するなか、入学式を迎えました。

入学式は日本武道館で行われる予定。入学式に出席する為、田舎から上京したばかりの人物は、慣れない東京で地下鉄東西線を利用。

武道館の最寄の「九段下」駅に降り立ちました。

駅に降り立った瞬間、長く苦しい浪人生活から解放され、感激のあまり思わず或る曲を口ずさんだ。その曲とは

 

それは『大きな玉ねぎの下で』。

 

その人物とは勿論、私自身の事。

一人駅に立ち、武道館に向かう途中、何度も繰り返し口ずさんだのを今でもはっきり覚えています。

今回は懐かしい曲に纏わる話をしたいと思います。

 

『ペンフレンドの二人の恋は つのるほどに 悲しくなるのが宿命 また青いインクが涙でにじむ せつなく』

で始まり、サビの部分は

 

『九段下の駅をおりて 坂道を 人の流れ追い越して行けば 黄昏時 雲は赤く焼け落て 屋根の上に光る玉ねぎ』

になります。

 

引用元 『大きな玉ねぎの下で~はるかなる想い』

・作詩 サンプラザ中野

・作曲 嶋田陽一

・編曲 BAKUFU-SLUMP 松原幸弘

(歌詞一部抜粋、敬称略)

 

おそらく私と同じ年代の人であれば、一度や二度、聞いた事があると思います。

題名を聞いて思い浮かばなくとも、歌詞とサビを見聞きすれば、あの曲だと納得されると思います。

それ程、当時流行った曲でした。

 

歌詞に出てくる玉ねぎとは、武道館の屋根の上についている玉ねぎに似た飾りの事(擬宝珠)。

武道館に行く為、歌詞の主人公が九段下の駅から見える光景。

浪人時に流行り、当時夜遅くまで受験勉強をしながら、この曲を聴いていました。

それだけに、とても思い入れのある曲でした。

 

其の後、自分が歌詞の主人公と同じ体験をするとは、浪人時代には夢にも思いませんでした。

自分自身、当時感激に浸っていました。

今でも折に触れ、自分の人生を振り返る時に聴いています。

 

何年たっても、新鮮に聞こえます。名曲は常に時代を超えると、しみじみ感ずる瞬間です。

とくに此の時代、今とは違い携帯電話・PC・メール・SNS等、全くなかった時代。

それだけに、歌詞の言葉の一つ一つに味わいがありました。

 

「ペンフレンド」など今の若い世代には、想像もつかないかもしれません。

逆に何にもなかったからこそ、良かったのかもしれません。

 

同世代の人間であれば、一度や二度、文通した経験があると思います。

私も大学時代まで、文通をしていました。

何時から文通を始めたかと振り返れば、おそらく小学校時代だったと思います。

 

その頃の文通の始め方と言えば、大概自分が購読していた漫画・雑誌等に文通コーナーがあった。

その中で自分が気に入った人物に手紙を送り、相手が返事をくれた時から、文通が始まるといった具合でした。

 

勿論、手紙を送っても返事が来なくて、それでお終いの事もあった。一、二度返事が来たが、其の後は来ない事も多々ありました。

今にして思えば、何時相手から返事が来なくなるか分からないという、スリリングさはありました。

 

手紙を書く際、同性であれば手紙を書くのはあまり緊張しませんでしたが、異性に手紙を書くときは、チョットした勇気が必要でした。

大概異性の場合、返事は来ませんでした。もし返事がきた時は、天にも昇る様な気持ちになりました。

 

運よく何回か手紙のやり取りを重ね、漸く互いに信頼感が生まれた後、めでたく写真交換をするのがパターンだったと思います。

あまり深くは触れませんが、写真交換後が一つの難所でした。

 

難所と言うのは大抵、男の立場からの意見。

写真交換の際、手紙が来なくなるのは男からではなく、大概女性から来なくなる事が多かったと思います。

何故かと云えば、それはご想像に任せます。

 

写真交換後も文通が続けば、ある程度脈ありと思って良いかもしれません。

何の脈かと言えば、言うまでもなく、淡い恋心でしょう。

 

歌詞にもありますが、

 

『会えないから 会いたくなるのは 必然』

 

(引用元 同上表記)

概ねこの様な心境になります。

 

余談ですが、自分はしませんでしたが笑い話で、自分の写真を送るのを躊躇い、自分より顔の良い友人の写真を送ったという話を聞いた事があります。

 

真偽の程は定かでありませんが。よく言われる作り話の類かもしれませんが。

実は相手(女の子)もそうだったという笑えない話もあったとか。

 

不思議と人間、文通を重ねる中に相手に対し恋心を持つのは、当然の成り行きだったと思います。

やはり、自分もそうでした。

 

今考えれば、何とも純粋で子供だったと思いますが。私にとり、そんな色々な思いが詰まった思い出の曲でした。

改めて曲の歌詞を見直せば、当時の恋愛状況を唄った名曲とも言えるでしょう。

 

今はどうか知りませんが、当時のデートと言えば、大概は映画・コンサート・遊園地に行くのが定番だったと思います。

自分も同じでした。自分の場合、映画が多かったと思います。

 

更に歌詞の中では、現在では理解できない内容もあるでしょう。

ペンフレンドは「言葉だけが頼り」

本当に当時の相手との繋がりは、言葉(手紙)でしかありませんでした。

 

前述したように、今では様々な文明の利器が発達。顔を会せる前から、相手の経歴・顔を確認する事ができます。

何度も手紙のやり取りを重ね、漸く築ける関係を、今はほんの僅かな時間で築く事が可能です。羨ましい限りです。

しかし昔の様に、過程を楽しむといった要素は薄れたのかもしれません。

一概にどちらが良いとは言えませんが。

 

私も一度だけデートで武道館でのコンサートを使った過去があります。

結果は歌の如く、見事に振られましたが。振られはしたが、今では良い思い出です。

 

その為、受験の思い出以外にも、深い思い入れがある曲でした。

歌詞自体もペンフレンドの男の子が、女の子に恋をして、自分で貯めたお金で2人分のチケットを購入。

デートに誘う為、女の子にチケットを送る話。

 

コンサート当日、コンサートは始まるが、女の子は約束の時間が過ぎても来ない。

そしてとうとう、コンサートは終盤。

 

最後のアンコールを迎え、周囲の人の興奮は最高潮。

周りはアンコール曲を聞き入るが、自分は最後まで相手が来なかった淋しさに耐えきれず、涙にくれながら、会場を後にする。

 

甘く切ない恋は、あっけなく幕を閉じました。

流行った当時、男の子は振られたと理解していましたが、本当の処はどうだったのでしょうか。

 

当日急用でこれなくなったのか、たまたま体調不良・交通事情の影響で来れなくなったのかもしれません。

想像は尽きません。

 

それこそ現代の携帯電話・メール・ラインがあれば、どうだったのかと想像せずにはいられません。

本当の処はどうだったのかは、永遠の謎かもしれません。

 

大昔カラオケが流行り出した頃、カラオケのレーザーディスクで、映像が出る機材がありました(最近は行きませんので、あまり事情は分かりませんが)。

カラオケでこの曲を唄った時、印象深い映像がありました。当然、この歌詞のエピソードを捩ったものですが。ロケ地は本当の現場でした。

 

内容を説明すれば、確かに女の子はコンサート会場に来ませんでした。その為、歌詞の通り男の子は涙を浮かべて、会場を飛び出しました。

悲嘆にくれて九段下駅の地下鉄で帰ろうとした時、文通相手の女の子が、地下鉄の入り口で待っていたと云うシチュエーションでした。。

 

その映像を見た時、作り物の映像でしたが、何故か「ほっ」として、自分も嬉しくなった記憶があります。

それ程、自分の感情移入ができる曲でした。おそらく映像に、自分が感情移入していたのでしょう。

 

曲は1985年に作られたもの。

 「当時お客さんがまだ来ないで、なかなか席が埋まらず、コンサート会場がまばらだった頃、作った曲」 

だと、サンプラザ中野さんが話していました。

 

2015年、地下鉄東西線がリニューアルされ、本人達の陳情もあり、今では九段下駅の電車発の際、メロディーに使われているそうです。

更にヒット後は数々の歌手たちにカバーされ、受け継がれています。

 

繰り返しますが、名曲とはどんなに月日を経ても決して色褪せず、常に新鮮に聞こえる。

名曲はいつも時代を超える。そんな気がした曲でした。

 

私としては、一生を共にする曲の一つと云えます。

久しぶりに聞き、昔の思い出が蘇り、今回ブログで述べてみました。

 

(文中敬称略)