子供の頃、熱中した遊びを再開した時、感じた事。

昔は頻繁にしていたが、いつ間にやめてしまった趣味はないだろうか。

皆様も振り返れば、幾つか思いつく筈。それが何故しなくなったのかは、考えても理由は分からない。

今回は或ることがきっかけで、再び始めた趣味について述べたい。

 

子供の頃、無意識に始めたもの

私が生まれ育った処と云えば、所謂田舎、それもかなりの田舎と云えるかもしれない。

そんな処で育った田舎には当然の如く、山があり川があり、そして海があった。

特に少し歩けば川があり、海があった。

その為、小さい頃から自然と遊んだものと云えば、「釣り」。

釣りは私が子供の頃、当時の遊びとしては必然的だった。

 

子供だったので釣りのデビューは川。海は危ないという理由で親からも禁止されていたのも理由の一つ。

時間があれば友人を伴い、近くの川に釣りに出かけた。今にして思えば、それが良かったのかもしれない。

川から釣りを始め、徐々に進歩して何時しか海釣りにデビューしたと記憶している。

 

川で釣れた魚は、フナ、ヘラブナ、鯉、ボラ(河口の産卵期)等であろうか。大概は、鯉かフナ。

川ではあまり魚の種類は少なかったが、子供には十分楽しめる獲物だった。

釣り方も生き餌ではミミズ、赤虫、練り餌さ等。仕掛けも毎回獲物が同じ為、大した道具を揃えなくても子供の小遣いで賄えた。

竿も延べ竿と呼ばれるもので、それ一つあれば丸一日楽しめた。そのうちお金が貯まり、投げ釣りで必要なリールを購入した。

リールを購入したのは良いが使い方が分からず何度も失敗を重ね、失敗の中から自分で学んでいったものだった。

 

今思い出しても懐かしい。当時は、一生懸命だったと記憶している。周りの友人も、同じ気持ちだった。

釣りは田舎でしか味わえない、子供の遊びだったのかもしれない。釣りは当時の私には、生活の一部と化していた。

親に禁止されていたが、少し腕が上がったと感じた頃、親には内緒で友人と暫し海に出かけ、釣りを楽しんでいた。

今考えればやはり、親の考えが正しかったのかもしれない。それは自分が年を取り、親の世代になったからかもしれないが。

運よくたいした事故もなく、子供のみで海釣りができたものだと改めて思う。そんな無謀なことをしてまで、釣りは子供心に楽しいものだった。

 

釣りをしなくなった時期

それだけまでして好きな釣りだったが、ある時をきっかけでしなくなった時期がある。

それは小学校を卒業して、中学に入学した時。これは誰もが経験があるのではなかろうか。

やはり中学に入れば、学業や部活等に忙しく、たまたま休みだとしても釣りにいこうという気が起こらなかった。

譬え休日でも、何かしら学校に関する業務をしていたと思う。

今は中学校の部活は廃止の傾向にあるが、私が中学の頃はほ100%、何かしら部活に入らなければならなかった。

 

私は当時運動部だった為、日曜日でも当然練習だった。時々、練習試合になることもあった。

更に私の頃は週休二日制でなく、土曜日は俗に「半ドン」と呼ばれた午前中でも授業があった。

その為、弁当持参で午後はみっちり5時近くまで練習した。殆ど休みすらなかったと云える。

 

春休み、夏休み、冬休みなども当然登校して練習した。今振り返れば、よくやっていたと我ながら感心する。

そんな状態だった為、小学校を卒業して中学の時、全く釣りをしなかった、いや出来なかっといったほうが正解かもしれない。

結局中学では、釣りに行った記憶はなかった。

 

高校では更に

中学でも釣りをする時間が取れなかったが、高校に入れば更に時間がなくなった。

高校時代では釣りどころか、普段の生活時間ですら足りなかったような気がする。

とてもでないが、学業と部活動の両立ですら難しい環境だった。私は中学と同じ部活に入部したが、程なくして辞めた。

理由は授業後、部活動をする体力と勉強する時間がなかった。特に入部して部活動が終わるのが、大概午後7時頃。

それから帰宅して食事、入浴等済ませれば、軽く午後10時は超える。それから今日の授業の復習と明日の授業の予習等、できる訳がない。

練習の疲れが眠りを誘い、午前零時には布団に入っていた。翌朝は午前6時に起きなければならなかった為、入学した当時の16歳の私の睡眠時間は約6時間程度。

 

当時の風潮だったのかもしれないが、生徒はおろか先生や部活の担当も、寝ない事が何か美徳とされていた時代。

いまそんなことをすれば、虐待と世間が騒ぐかもしれないが、本当に当時は信じられない考えが罷り通っていた。

私はいろいろ考え、一年の夏休みを前に退部した。今思っても、それは正しい選択だったと断言する。

何故ならそのまま部活を続けていてもレギュラーにもなれず、学業も中途半端な成績で終わったと思う。

 

私は部活を諦め、学業に専念した。

多少の浮き沈みはあったが学業に専念した私は、一浪はしたが、何とか東京の大学に進学した。

だいぶ話は脱線したが、その頃には釣りの事など念頭になく、小学校を卒業して約7年、全く釣りという行為すら忘れていた。

道具もそれ以来、物置で眠っていた。道具の存在すら忘れていた。

こう考えれば釣りという趣味は、「時間に余裕がある時しかできない趣味」と実感した。

 

東京では天然の魚は皆無

私は高校を卒業後、一浪を経て東京の大学に進学した。

皆様がおそらくご想像した通り、東京にいた私は魚に触れることすら皆無だった。

東京のほぼど真ん中に住んでいた私は(東京都中野区)、天然の魚を見る事すらなかった。

見たとすれば電車から神田川が見え、川に鯉がいるのを発見したほど。

 

決して自然とは言えないが、新宿から総武線に乗り、四谷を過ぎた市ヶ谷だろうか。電車の中から釣り堀が見えたのを覚えている。

しかしその釣り堀ですら、天然の釣りではない。魚も云わば、人工養殖のようなもの

その為、敢えて釣り堀で釣りをしたいなどという気は、全く起こらなかった。

幼少期から自然と戯れ釣りをしていた私としては、潜在的に釣り堀は釣りと意識していなかったのであろう。

 

もし東京で釣りを始めるとしても、住む処から海に出るまで、約2時間近くかかった。更に道具の問題もあった。

ご周知の如く、東京は住宅事情がよろしくない。釣り道具など保管しておく場所がない。道具は田舎にあったが、送ってもらう訳にもいかなかった。

かと言って新品を揃えるだけの労力と金もない。結局私の釣り人生は、この時点で小学校までだったと云える。

敢えて釣りを再開するきっかけはなかった。

 

社会人となり、新潟に赴任

大学時代も釣りを再開する機会がなかった私は、社会人としての第一歩を新潟で始めた。

結論を述べれば、新潟に約1年半ほど居たが、新潟でも釣りをする機会はなかった。

 

新潟と云えば「釣り処」だと考える人がいるかもしれない。

処が私は赴任先の新潟は全く土地勘がなく、おまけに一人暮らしで縁者、友人、知人など一人おらず、自ずと休日は体を休めるか、掃除洗濯をするのが関の山。

そんな状態の為、釣りなどする余裕など全くなかった。

 

今であれば、とても勿体ないことをしたと思う。

その後、全国各地の釣り情報を調べた際、新潟は全国でも有数な釣り場が数多く存在することを知った。

もし今後訪れる機会があれば、是非釣りをしてみたい。

 

つりを再開したきっかけ

私が人生で釣りを再開したきっかけとは、意外にも失職して故郷に帰った時。

過去のブログで何度か述べたが、私は最初の就職に失敗した。

理由は色々あるが、今回はその話題がメインでない為、省略します。

何はともあれ、私は仕事を辞め、生まれ育った故郷に帰った。

 

故郷に戻った私は暫くは何もする気がおきず、俗にいう「ぶらぶら」していた。

実はその時、何故か忘れていた釣りという遊びを思い出し、無性にしたくなった。

 

理由を考えた。その答えを敢えて綺麗な言葉で述べれば、

 希望に燃えて就職したが、1年半で挫折。絶望に打ちひしがれ帰郷した私は、何も考えず無邪気に遊んでいた頃(童心)に戻りたいという無意識な欲求で、釣りを思い出したのではないか 

と推測した。

今ブログで書いていても、改めてそうだったと認識した。それと同時に、

 次の仕事が見つかるまで何もすることがない為、子供の頃していた釣りをこの時間を利用してやってみようか 

という気持ちもあったと思う。

 

おそらく、本音は後者であろう。

更に帰郷した影響もかなり大きい。子供頃の遊びで大人になってもできる遊びと云えば、当時は「つり」しかなかった。

今でこそ幼少時、沢山の遊びがあるかと思うが、私の時代はやはり、「つり」だった。

再開して分かったが、釣りの良さは当時買ったもの(道具)が時を経てもそのまま使えるということだった。

若干使えないものもあったが、最初から一式揃える訳でもなく、足りないものを補うだけですぐに再開できた。

 

実に10年以上ブランクがあった後の再開だった。多少勘が鈍っていたが、数回通うにつれ、勘を取り戻した。

再開した当時の感想は、やはり「面白い」に尽きた。これほど面白い遊びを10年以上していなかったのが不思議に思われた。

 

しかし帰郷して4か月後、目出度く再就職が決まり、その後は再び釣りとは縁の遠い人生を過ごすこととなった。

何故なら私が再就職した先はは、今でいう「ブラック企業」だった為。

具体的な説明は控えるが、平日は常勤で営業職。土日は営業の成果を試す職業だった。

つまり丸一週間、ほぼ休みなしという業態。当時から週休二日制というものがあったが、殆ど形骸化していた。

 

此れも過去のブログで何度も述べたが、私が生まれた世代は所謂「団塊二世」。

世代間が最も多く(当時約210万人)で進学、就職で苦労した。バブル経済崩壊、リーマンショック、コロナ騒動も経験した。

特にバブル経済崩壊後の傷跡が深く、就活で苦労した。

譬え就職できても就職先で不平不満など云えば、「お前の代わりはいくらでもいる」と罵られた時代。

そんな時代背景もあり、今でいう「ブラック企業」など、野放し状態だった。

 

結局その会社も3年半勤め、辞めることとなった。当然その間は釣りなどできる状態ではなかった。

二度失職を経た私はフリーとなり今日に至るが、フリーとなった私はそ益々時間に追われる立場となりった。

二度目の釣りを再開するのに、約20年以上を要した。

 

二度目の釣り再開

前章の終わりに述べたが、長いブランクを経て私が釣りを再開するには、約20年以上の歳月を要した。

理由はフリーになり、休みが不定期になった事、ほぼ休みがない時期もあった。

その為、休みが取れた日は日常の雑務に追われ、釣りなどしている余裕はなかった。

 

二度目の釣り再開のきっかけは前回と同じで、フリーとして一段落ついた時だった。

やはり前回と同様、仕事が無くなった時、始めたといってよいだろう。

こう考えれば私と釣りとの関係は、 「私にやることがなく暇な時にするあそび」 と云える。

私と釣りの関係を振り返れば、人生の転換期、或いは人生を振り返る時期にする行為と認識した。

不思議にも無意識だが「つり」という行為が、私の次のステージに進む際の分岐点となっていた。

おさらく今回もそうなることだと思われる。それに気づき今回敢えブログにして私自身の忘備録として書いた。

次に釣りを再開したことで気づいた点を幾つか述べたい。

 

釣りを再開して気づいたこと

今回釣りを再開して気づいた点を述べたい。あくまでも私の感想の為、参考程度で読んでいただければと思います。

 

一点目は、生き餌だけでなく、人口餌が豊富

魚を釣る際、昔は生き餌を使用していたが、今は人口餌が充実した。

釣りをしたことがない人でも釣りをする際、生きた餌を釣針に掛け、魚を釣るイメージだと思う。

しかし今は生き餌だけでなく、生き餌に似た多くの人口餌が企業から販売されている。

 

人口餌が発達した理由は、釣りが嫌いな人には生き餌を掴むのに抵抗ある人がいる。

その生き餌を触らなくとも釣りができる人の為に開発されたと云ってよいだろう。

実際、私も使ってみた。やはり生き餌のほうが、釣果が上がるという人が多いが、私は「可もなく不可もなし」といった処。

此れは今迄釣り嫌いだった人には、朗報かもしれない。

 

二点目は、餌や道具の価格が高い

敢えて高いと表現したが、私が高いと感じるのはやはり、釣りをしていた20年前と比較した私なりの感覚。

正確な値段ではないだろうが、凡そ約2倍になっているような気がした。

釣りをする為の基本道具は勿論のこと、仕掛けや小物類、前述した餌なども約倍近くに思われた。

餌に関して値上がりしたことは負担に感じた。釣りをしない人には意外に思われるかもしれない。

釣りをしない人としては釣竿、リールが高いと思いがち。

 

実は長い目で見た時、釣竿・リール等は最初は高く感じるが、一度購入すれば何年も使える。

しかし餌はほぼ毎回釣りに行く毎に、購入しなければならない。

この餌代が何気に馬鹿にならない。餌代が安ければ釣り人はおそらく、釣りにいく頻度が増える。

私が子供時代を話せば理解しやすい。前述したが、子供の頃は今と異なりあまり遊びの種類がなく大概、釣りだった。

子供にもできた理由は、餌代が安かった為。200~300円分の餌を買えば、ほぼ一日遊べた。

 

子供時代の釣りは一人でいくことは稀。殆どは数人の友人と供に出かけた。

その為、皆で餌代を出しあえば、大した出費にならなかった。大人の場合、大概が一人で釣りにいく。

一人で行く為、全て自己負担。釣りを職業としている人であればいざ知らず、休日に釣りをしたいと思う人にとり、餌代は何気に出費となる。

狙う魚によって使う餌も異なる。例えばクロダイ(茅渟)を狙う際、いくつもの混ぜ餌、こませ(寄せ餌)必要とする。

それを一度の釣りで使うとなれば、相当な値段。下手をすれば、4000~5000円になる。

そうなれば、なかなか頻繁にいけない。後述するが、余程懐に余裕がある人でなければできない趣味。

 

参考までに現時点で一度釣りをするとして、最低700円以上は餌代として必要ではないかと感じた。

但し、川釣りはしない為、不明。

 

更に釣りをする際、仕掛けが必要。この仕掛けが結構、曲者。

何が曲者かと云えば、釣りをすれば必ずと言って良い程、「根掛かり」する。

根掛かりとは、釣りをしていて仕掛けが海中や海底の沈殿物、水草、岩礁などに引っかかること。

 

根掛かりすれば、大抵は仕掛けがダメになる。譬え根掛かりが外れても、針や糸にダメージを喰らう。

ダメージを喰らった針や糸は使いものにならず、交換しなければならない。

暫し私がいく釣り場は防波堤で、必ず一日に一度は根掛かりする。平均というもの可笑しな話だが、一日2回ほど根掛かりする。

当然仕掛けの予備が必要。この仕掛けも釣り具店で価格をみれば、やはり昔と比較して高いと感じた。

 

仕掛けは今も昔も、殆ど変わらない。仕掛けは変わらないが、値段は大幅に変わっていた。

参考までに20年前は200円代で買えた仕掛けが500円以上していたのには驚いた。

私が子供の頃は仕掛け等、販売していることは少なく、仕掛けに必要なものを買い、自作した。

今は本当に便利になったと思う。しかし便利になった分は、その対価を払う必要があるのかもしれない。

 

釣りとは異なるが、因みに日本人の平均年収は約30年変わらない。ほぼ横ばいか、減少している。

それと比較すれば、久々に釣りを始めた私としては高いと感じるのも無理はない。

つい最近始めた方は、そう思わないかもしれないが。

価格については次章に関連する為、次章で詳しく述べたい。

 

もう一つ話を追加すれば、此れは1点目とも関係するが、人口餌が増えたと同時に擬餌餌(ルアー)釣りが広まった。

子供頃ルアー釣りと云えば、主に渓流の魚を釣る為の道具だと私は認識していた。

処が今日では、ルアー釣りの人口が増えた。特に若者では主流のようだ。

何故ようだと述べたのは、私はあまりルアー釣りをしない為。しないというよりも、全くしたことがない。

その為、つい最近まで私はルアーの相場を知らなかった。

ルアーの相場を知ったのは、二回目の釣りを再開する為、釣具屋にいった時。

 

新しい釣りの分野を開拓する意味もありルアーコーナーを覗いてみた際、やはり価格に驚いた。

釣具屋で売っているルアーを見ると、安いものでも500円以上はしていた。

大抵は、1000円以上はしていたと思う。私が興味を持ったルアーは、1600円ほどだった。

正直に云えば、あまりも高すぎたというのが私の感想。

何故なら前述したように、釣りには必ず根掛かりがある。

もしルアー釣りで根掛かった際、ルアーごと台無しになる。つまり1600円が藻屑と消えることになる。

 

興味をそそったルアー釣りだが、コストを考え断念した。

逆を考えれば、ルアーを製造業者・販売業者は、ルアーの売上は利益率アップに繋がるのだろう。

何かルアー釣りのコーナーが、かなり売り場面積を占めているのを納得した。

 

三点目は、釣り人口の減少

今回釣りを再開して気づいたこととして、各世代の釣人が増えたと感じた。

各世代とはつまり、老若男女問わず釣りをする人が増えたということ。

釣り場では家族、女性の釣り人の姿が見られた。

 

此れは以前では、あまりお目にかかれなかった光景。

嘗て釣りをする人は大概、男性と決まっていた。そこれ自体はよいことだと思う。

しかし次には話すことに対し、私は意外に思った。

その意外とは、 昔と比べ釣りをする競技人口が極端に減った こと。

 

2000年では釣りの競技人口は約2000万人といわれていたが、2023年ではなんと約700万人まで減ったと云われている。

実に約3分の1に減少したという計算。つまり釣りをする世代層は増えたが、競技人口は減ったという事実が伺える。

此れも私は、意外に感じた。釣りから大分離れて実感はなかったが、データー的には確かなようだ。

 

競技人口が減れば釣り道具の値段が上がるのも、至極当然のことかもしれない。

年金や保険と同じで、その業界を支える人間がいなければ業界全体を支える為、一人一人負担額が増えるのはやむを得ない。

しばし当然の流れ。業界を支える企業側も競技人口が多ければ薄利多売でやっていけるが、競技人口が少なくなれば値段を上げるしかない。

資本主義の法則とも云える現象。

資本主義の下であらゆる価格は需給で決まる。まさにこの法則が当て嵌まる。

だからこそ前章で話した釣り道具全般の価格アップ、利益率が高いルアー釣りの道具販売に業界は力をいれているのだと理解した。

 

 

四点目は、マナーの問題

釣りを再開して今回、一番残念そして気になったのは、釣り人のマナーの問題。

これが実は私が最も危惧している話題かもしれない。

 

具体的に述べれば、釣り場でのゴミ、騒音、立ち入り禁止区域への立ち入り、駐車のトラブル、トイレ事情、釣り人同士のトラブル等。

ごく一部の人かもしれないが、一部の人が行ったことで釣り人全体が悪くみられる傾向がある。

私も釣りを再開して、幾つか経験した。その経験した問題をいくつか挙げたい。

 

やはり一番目についたのは、釣り場のゴミ。

私が同じ釣り場に行くたび、ゴミが増えていくこと。

ゴミの種類で最も多いのは、空のペットボトル。おそらく釣りの最中、飲んだものを捨てたのであろう。

その他はいらなくなった仕掛け類、餌の入っていた袋、食後の弁当・パンの袋、氷が入っていた袋、コンビニの袋など。

中には壊れたリール、折れた竿、いらなくなった道具類などが見られた。

 

此れは全国どこの釣り場でも問題となっているが、やはり現実を見せつけられたような気がした。問題の解決は全てそうだが一人一人がマナーを自覚し、ゴミを持ち帰るしかない。

釣り人が自分が来たときよりも釣り場を綺麗にすることを心掛けたい。これしかないと思う。

 

次は騒音。人気の釣り場や土日などでは、多くの家族や集団の釣り人が訪れる。

大人数の為、ついつい大声で話すことになりがち。偶に釣りはそっちのけで話に夢中になり、大声で話す人々もいる。

集団の為、ついつい楽しくおしゃべりしたくなる気持ちも分かるが、一人で静かに釣りを楽しみたいと思う人には、あまり好まれない行為。

 

実は私がそのタイプ。私は静かに釣り糸を垂らし魚と会話をして、無意識に自然に溶け込むのが理想の釣り方。

釣れることに越したことはないが、年を取れば釣れても釣れなくてもあまり関係ない。

釣りを通して、自然と戯れることが楽しい。今ではそんな境地となった。

その為、あまり近く大きな声で会話されるのは、あまり好きでない。

 

場所が移れれば問題ないが、土日の朝夕のまずめ時はどうして多くの人が釣り場を訪れる為、一度決めた場所を移動することは難しい。

釣りを経験した人であれば、分かると思う。

その釣り場でも絶好のポイントがある。そのようなポイントでは人が密集し、おそらく移動するのは困難。

絶好なポイントにいけるのは、釣り時が過ぎた頃。そんな時は、殆ど釣れない。海釣りは特に潮と時間の関係が深い。

 

何気に場所取りがトラブルに発展することもある。基本的に早い者勝ちだが、トラブルになるのは釣る間隔。

私は釣る隣同士は、最低でも約5mはあけるなければならないと思う。理由として、投げ釣りをする際、それくらいの感覚が必要な為。

5mでも少ないと思う。しかし自分が気を付けていても、他の釣り人が入ってくる為、防ぎようがない。

此れがトラブルの原因に繋がる。これもやはり、一人一人が自覚して守っていくしかない。

 

私の偏見かもしれないが、釣りをしていて感じたことは、私もその一人かもしれないが、灰汁が強い人が多い。

ある種の拘りというのだろうか。その為、僅かだが世間の常識からズレしている人もいる。

私も何度か経験した。つい最近もあった。私が距離をおいていたが、その間に割り込んできた人が。

クレームをいうもの何か憚れた為、そのままやり過ごしたが、その後投げ釣りなどの行動を制限せざるを得なかった。

 

立ち入り禁止への立ち入りは、私も何度か目撃した。目撃したが、当然注意はしなかった。

所詮注意をしても、聞き入れることがない為。聞き入れることのできる人であれば、初めからそんなことはしない。

ただそれだけ。

 

駐車場のトラブルとは、人気の釣り場では沢山の人が訪れる。その為、駐車スペースがないことがある。

その為、スペースに駐車禁止の場所に無理やり駐車する人もいる。

 

更に釣り場専用の駐車場であればまだましだが、漁港等で釣りをする際、漁港関係者専用の駐車場や仕事スペースに駐車する人もいる。

漁港は元来、漁業関係者の職場の為、釣りをするのが目的でない。釣りをさせて貰っているという感覚がなければならない。

あまりマナーが悪ければ、その漁港では釣り禁止となる場合もある。そうならない為にも駐車場は必ず遵守しなければならない。

 

漁港の話がでた序に述べるが、トイレ事情にも重なる。釣りをしている際、どうしても避けられないのが人の生理現象。

生理現象が起きた時、漁港関連の建物のトイレを借りるか、設置されている簡易トイレを使う必要がある。

どちらも漁港関係者の好意で使わせてもらっている施設。当然維持費も漁港関係者が負担。

これも駐車場と同じで許容範囲を超えれば、使用禁止となる可能性が高い。

 

因みに私が暫し利用するのは釣り人専用の釣り場だが、不思議とトイレがない。

長時間釣りをする際、苦労する。その為、できるだけ飲食はしない。どうしても喉が渇いた時、水分補給するのみ。

やはり人間として3時間くらいが限界だと思う。約3時間が釣りのメドになるは、この辺りかもしれない。

トイレは個人差があり人が生きていく限り永遠の行為の為、解決は難しいかもしれない。

何度かそのまま用を足している人を見かけたが、気になると云えば気になる。あまり見たくない光景。

 

最後は実際、私が体験・目撃し不快に感じた出来事を述べたい。

昔から感じていることだが、マナーの悪い人は意外にも高齢者に多い。年代的に60代、70代の方。

子供時代から感じていたが、年齢層が高くなるにつれマナーが悪いのが目についた。

ゴミなど典型的。比較的、若い層ほど持ち帰り、年齢が嵩むにつれマナーがよくないように思われた。

 

考えが昭和的というのだろうか。長閑で大らかな時代だったのかもしれないが、今は環境問題もありゴミ捨てなど厳禁。

黙って見ていれば酒を飲みタバコを吸い釣りをする人ほど、そのままポイ捨てする確率が高い。

持ち帰る人は稀だった。私は酒を嗜むが、釣りをする時は絶対に飲まない。

前述したトイレ事情もあり、又運転する関係で絶対にダメな行為。

私が行く釣り場は歩いていくには少し遠い為、飲酒後どのように帰っているのか甚だ疑問。

もしも飲酒運転をしているのであれば、それこそ古き良き時代の感覚。

現代では飲酒運転は御法度。

 

私自身かなり高いと云われる年になったが、未だに私より上の年代層のマナーには眉をひそめる時がある。

前述したが、注意しても受け入れられることはないので、そのまま黙視しているが。

 

つい最近のことだが、釣りをしている際、時々他の人の仕掛けと自分の仕掛けが絡むことがある。

所謂「お祭り」という出来事だが、久しぶりにお祭りを体験した。

 

結論を述べるが、今回の件は私は全く悪くない。

何故なら私は投げ釣りで真っすぐ投げ、潮の流れもなく、仕掛けが流されることもなかった。

 

一方、私の仕掛けに絡んだ人は、私より約10m近く離れていた。

私は仕掛けを回収し、餌を取り換えようとリールを巻いていた。巻いている最中、違和感を感じた為、目の前の釣り糸を確認した。

確認した際、私の目の前にウキが浮かんでいるのが見えた。詳しく説明しないが、所謂「ふかせ釣り」をしている人の仕掛けだった。

つまりその人の投げた仕掛けが、私の仕掛けに絡んだということ。

私が最初に投げていた。更に絡んだ人は私の真正面、つまり自分の前でなく、斜めに投げていた。

詳しく理解する為に敢えて述べるが、140度は傾いていたと思う。私の投げた仕掛けが約3m付近まで来た時、お祭りを確認した。

 

その時私はよくあることなので絡まった人の許に近づき、トラブルを解消しようとした。

絡んだ人もお祭りに気づいたのであろう。私が近づくと無言で自分の仕掛けを回収。私との絡みを確認した。

私が驚いたのは、絡んだ人の次の行動だった。

 

絡んだ人は流石に自分が他人の仕掛けに絡んでしまったと自覚はあったのだろう。絡んだ仕掛けを外し始めた。

問題は絡みを外したその後の行動。

 

仕掛けを外した人は私の仕掛けを私に戻す際、「はい」と一言述べたのみで、その後何の言葉もなかった。

つまり言いたいことは、自分で他人の人の仕掛けに絡んでおきながら、「すみません」の一言もなかった。

これは釣り人として最低な行為。徐々に漁港が釣り禁止になるのも分かるような気がする。

自らの失礼な行いに、一言の謝罪もないのに私は怒りよりも呆れを感じた。

年歴的に見た目は殆ど私と変わらない。

こんな処にも釣り人が徐々に嫌われ、釣り場や釣り人が減少している理由だと感じた。

 

その後私の仕掛けに絡んだ人は、相変わらず私の眼前の少し手前で釣りをしていたが、私とその人の間に人が割り込んできた為、とうとう諦めざるを得なくなったようだ。

割り込んできた人も又、問題があるかと思うが。要するに他人への思いやりがかけていると云えるであろう。

 

更にもう一つ。この出来事も前述した仕掛けが絡んだ同日だが、これも私より年配の方がした行為に私は多少気になった。

それはあまりも私の目の前で釣りをしないで頂きたいということ。私の道具はその人の足元にある為、破損の危険があったということ。

どういうことなのか、これも具体的に説明したい。

 

魚の釣り方に「落とし込め釣り」という方法がある。

「落とし込み釣り」とは堤防の際近くに仕掛けを落し、際に集まる魚がいないかさぐりながら釣る方法。

落とし込み釣りで釣れる魚と云えば、代表的なのがカサゴ類。偶に際に生息するカニやイガイを食べにくるクロダイ、シマダイ等が釣れる。

この釣り方は防波堤の際でつる為、しばし防波堤を歩きながら釣る人を見かける。

今回気になったのが、落とし込み釣りをする人。

 

何が気になったのかと云えば、釣りに夢中になるあまり、竿を立てている私の目の前を平気で通り過ぎていくことだった。

目の前の為、当然私の竿と仕掛け、その他もろもろの道具がおかれていた。

その釣り人は私の目の前を何も声をかけることもなく、平気で通り過ぎた。

 

一番冷や冷やしたのは、私の道具の上を通り過ぎた時。常識として人様のものの上を跨ぐという行為が信じられなかった。

いつ踏みつけられるのではないかと冷や冷やした。更に釣り人が道具に躓くことで弾みで海中に落ちるのではないかと心配した。

 

幸い何も起きなかったが、此れも完全にマナー違反。

本人の過失でトラブルが起きるのであれば自己責任だが、私も絡めば後々厄介なことになる。

人間、必ず自分の過ちを認めようとしない。何かしら他人のせいにしようとする。

此方が気をつけていても、トラブルに巻き込まれることがある。

できるだけそんなことは避けたい、折角の釣りを楽しむ為やってきたが、要らぬトラブルに巻き込まれれば、元も子もない。

楽しい釣りが、哀しい釣りとなる。

 

こう色々書き綴るうちに、何か釣り人口が減っていのも分かるような気がした。

結局、楽しいはずの釣りが全く楽しくなくなり、不快に感じた時、態々手間暇とお金をかけて釣りをする人がいなくなるのだと感じた。

 

番外編

マナーとは少し異なるが、近年釣り場で見かける光景を紹介したい。

結論から述べるが、それは「密漁」。実際、密漁をして逮捕された人を目撃した。

密漁だと分かるポイントは磯や防波堤、テトラポット付近で盥や袋を浮かべ、潜水服か水中マスクをした人を見かける。

そういう人、大抵は密猟者。子供頃、海に潜り何か魚介類を獲ったことがあると思う。

厳密に云えば漁業権がない限り、全て密漁となる。

 

今年の夏、私は何度か密猟者を目撃した。目撃した際、初めは死体でも浮いているのかと勘違いした。

しかしよく見れば、人間が簡単な装備をして海中に潜っているのを発見した。

そそ時は十中八九、密漁だと思った。しかし間違っていれば大変な為、警察に連絡せずそのまま見過ごした。

何度か目撃したが誤解と偏見なく述べるが、日本人の時もあれば、日本人でない時もあった。

後は御想像に任せます。

 

因みに今夏、密漁で逮捕されていた人は、日本人でありませんでした。

言葉を濁すが、私の住む田舎でも日本人以外の人が増えました。

釣りを再開した際、私が利用する釣り場でも今では日本人ばかりでなく、日本人以外の姿(大抵は集団)が見られるようになりました。

当然文化習慣の違いがあるのだろう。私の感覚では、?と思う行動もある。

私に迷惑をかけなければと思い、黙って見つめている。これ以上は差別と云われる可能性がある為、控えるが。

 

因みに密漁が摘発された際、関連は定かでないが近くで日本人以外の集団がバーベキューをしていた。

普通の日本人の感覚では、そこで(釣り場)バーベキューをしないと思われる場所だった。

私は気になり釣り場が近くの為、翌日その釣り場に行ってみた。

予想通りと云っては何だが、大きな半透明の袋の上から、おそらくバーベキューをしたであろうゴミが放置されているのを発見した。

偏見と誤解がない為、再度強調するが、前日の密猟者とバーベキューをしていた人との関連は分からない。

更に目撃をしていない為、バーベキューをしていた人がゴミを放置したとは断言できない。

しかしその場所で大量のアルコール、ソフト飲料、おそらくバーベキューをしたであろうゴミが散乱していたことだけは述べておく。

 

釣りの今後

20年以上釣りを離れて再開したが、当たり前のことだが、かなり釣りの業況が変化していた。

今回、思いつくままを述べてみたが、一番感じたことはやはり、 釣りをする人間に、一人一人の意識に問題があるのだ と、つくづく感じた。

 

今回述べた事象は、突き詰めれば釣り人個人の資質に直結している。つまりその人の生き様、そのものではないかと。

その人の今迄生きてきた思考・行動・習慣・嗜み・教養がそのまま示される。

数が少なくなりつある釣り場を維持するのはやはり、釣り人自身の釣り場を守るという意志と同時に、危機感しかないと思う。

傍若無人で釣りをしていたが、実はその行為は自らの首を絞めていると、改めて自覚しなければならない。

 

本音を云えば私がいま通っている釣り場は、20年前はよく釣れていた。

しかし今の釣果は、当時の半分以下と感ずる。しかし釣り人の数は昔ほど、然程変わらない。

その現象を考えるに、ある一つの考えに辿り着いた。

それは敢えて海洋資源を管理する側は漁港などの釣り場を禁止する変わりに、ある場所を定め、釣り人を集めているのではないかと。

 

つまり徐々に釣り場を封鎖する変わりに、釣り人を管理しやすい一定の場所に集めているのではないかと。

皮肉なことだが、釣りをする人が逆に管理側に一定の場所に集められているという現象。

何か住家を封鎖され、一定の場所に集まられている魚と同様な気がした。

 

それはさておき、私が今通う釣り場は、20年前に比べ明らかに釣れる魚と種類が変化した。

詳細を述べれば、20年前に釣れる魚の種類が変わったこと、数が減少したということ。

 

20年以上前に釣れた魚が今は釣れず、顔ぶれが変わった魚もあまり数がつれないということ。

これは明らかに潮の流れと環境変化に関連している。

全体に云えば、あまり魚が釣れなくなったというのが私の感想。

 

昔はサビキ釣りをすれば、アジは入れ食いだった。

しかし今はサビキの仕掛けを投入しても、一度に一匹釣れるかどうかのレベル。

サビキの仕掛けは大概、5~6本の針でアジを釣る方法。運が良ければすべての針に魚がつくことがあった。

しかし今ではせいぜい2匹か3匹が関の山。明らかに釣れなくなった。

 

魚が釣れない為、釣りに興味が湧かず、釣り人口が減る。今はまさに負のスパイラルに陥っているような気がした。

何か釣りはなくなりはしないが、将来的に縮小する産業だと意識せざるを得なかった。

理由は今迄述べた通りだが、私が一番感じるのはやはり、子供の頃の遊びと云えば「釣り」しかなかった。

 

処が今では幼少期から、多種多様な遊びができるようになった。

ネット等のオンラインゲームなど、典型的。外出することなく、家にて遊べる。

昔も家で遊ぶ趣味は存在した。例えば漫画、プラモデル等。しかし具体的に名を挙げた両者の遊びすら、嘗ての輝きはない。

漫画は明らかに電子書籍、ネット等に喰われた。漫画は既に卒業したが、今でも漫画本を買っている子供がいるかどうか知らない。

 

プラモデルも同様。昔は近所に個人で営む模型屋が存在した。

現在ではプラモデルを買おうとすれば、大手家電量販店に付随する玩具コーナーにいかなければお目にかかれない。

都会であれば別だろうが、在住する田舎ではそのような状況。

こうして考えれば釣りと同様、プラモデルを作る子供はあまりいないのではないかと想像する。

いつ行ってもプラモデルコーナーにはあまり人がいなく、私の様な嘗て子供の頃、プラモデルを作っていたであろう中年男性がチラホラいる程度。

 

今回釣りに関するブログを書いていたが、昔していたが今やらなくなった遊びが数多く存在することに気がついた。

実は釣りと同じで子供の頃、無性にやりたいと思い、知識とお金、機会がなくできなかった遊びをつい最近始めた。

それはラジコンカー。ラジコンカーは私の子供の頃は高嶺の花で、持っているだけで子供間ではスターになれた。

 

脱線した為、話を戻すが、改めて思うが釣りは時間とお金がかかる趣味と感じる。

大概趣味は時間とお金がかかるものだが、釣りは特にそう思う。

お金をかけ道具を揃える。釣りに出かける日(休日)が、釣り日和とは限らない。自然を相手にしている為。

譬え釣り日和でも、必ずしも釣れるとは限らない。釣れると期待を込め出かけたが、全く釣れない日もある。

これは素人、ベテランに限らない。海釣りは川釣りと違い、ベテランよりビギナー(初心者)の方が釣れることもある。

 

釣りが敬遠されるもう一つの理由に仕掛け、道具をセットする手間と同時に、餌などの匂いがあると思われる。

確かに餌や釣れた魚の匂いが気になることがある。車の中でも道具等を放置しておけば、匂いがこもることがある。

此れも現代人に敬遠される所以であろう。

 

改めて述べるが釣りはなくなりはしないが、今後拡大するのが難しい業界と云える。

少子高齢化の影響もあろうが、私の子供の頃のように活気を取り戻すのは不可能と思われる。

本当に私達の世代が最後の世代だと思う。その後は徐々に衰退していくのではないかと思われる。

しかし私は生きている間は、僅かばかりでも釣り業界に貢献したい。

それはおそらく私の人生で最初で最後の趣味になると思われる為。

 

(文中敬称略)

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